ポンコツ山田.com

漫画の話です。

くたばり損ない同士、最初で最後の恋『束の間の一花』の話

 高2の春、私こと千田原一花は余命2年だと宣告された。人にはそれを言わないと決めた。私自身も病気を気にしないように努めた。不思議と、あまり怖くも悲しくもなかった。
 親に無理を言って、普通に大学受験をして、合格したら大学に通うようにした。宣告された2年は過ぎ、病気は着実に進行していっても、私はまだ死ななかった。ちょっとしたくたばり損ないだけど、それはひょっとしたら、萬木先生のおかげかもしれない。
 大学生初日、萬木先生に助けられた私は、先生に恋をした。先生の講義を履修した。先生の研究室へお邪魔した。先生が好きだった。先生が生きる希望だった。
 でも、大学2年に進級するとき、先生が学校を辞めていたことを知った。私は何も知らされていなかった。気づけば、余命宣告の年は1年前に過ぎていた。
 失意に始まった進級から3か月。私は偶然、先生を駅で見かけた。これを逃してなるものかと、慌てて先生の後を追って、久しぶりの会話をした。先生は先生のままだと思った。変わらず優しかった。でも、変わらぬ優しい顔で、先生は言った。
「突然やめて悪かったね…学校 もう続けられなかったんだ 病気で… くたばり損ないってやつなんだ――」
 どうやら、くたばり損ないの私が好きな人も、くたばり損ないだったらしい――

 ということで、タダノなつ先生『束の間の一花』のレビューです。
 完結巻が1年前にでている本作をなぜ今レビューなのかと言えば、まさかのドラマ化の報に接したから。
natalie.mu
 完結当時にレビューを書く機を逸してしまっていたので、今回改めて書いてみようかという次第です。

 冒頭に書いたあらすじのとおり、本作は、大学生の少女・一花と、大学の哲学講師・萬木(ゆるぎ)とのラブストーリーです。そして、どうあがいても引っかからざるを得ないのは、一花も萬木も、余命幾許もない人間だということです。
 だからこれは、余命宣告の年から1年が過ぎた少女と、もう長くはないことを告げられた青年。くたばり損ない同士、いつ死んでもおかしくない二人の、神様も奇跡も登場しない物語なのです。

 本作の見どころはなんといっても、自分の死を覚悟している二人の心の描写です。
 もう自分は長くないと知っている人間が恋をしたとき、どうするのか。
 そして自分が好きなその人も長くないと知ったとき、どうするのか。
 そんな二人の恋の先には何があるのか。二人の恋には意味があるのか。
 生きる意味。恋する意味。
 それを、身を刻むような痛みと一緒に考えざるを得ない二人の姿に、心揺さぶられるのです。
 
 かたや、能天気ともアホウとも言える一花。若くしても余命宣告をされても、彼女は不思議なほどに動じるところを見せません。

「…みんな そんなに悲しまないで 2年なんてあっという間じゃない…」
「あっという間じゃ困るでしょうが!!」
(1巻 p4)

 これは余命宣告された直後の、一花と家族の会話です。もちろん最初の発話者が一花。
 能天気やアホウといった自己評価では済まないような一花ですが、「余命数か月と言われて何十年も生きる人もいるし…考えたって楽しくない」と、諦めなのかポジティブなのかわからないスタンスを信条としています。
 だから、余命宣告をされようと恋をするし、恋をした人のところに押しかけるし、なるべくハッピーでいようと心がけている。

 かたや、もう長くないことを医者に告げられてからは、淡々と後始末を始める萬木。
 もともと勉強好きだった彼でしたが、大学在学中に祖母が死に、両親が死に、若くして天涯孤独になってしまい、ただ「先生になる」という夢だけが残りました。そして26歳の時の哲学の講師となり夢はかない、学生のショーペンハウアーハイデガーなどの死の哲学を教えていましたが、ほどなくして病気も発覚。中身をなくした夢の抜け殻のように、機械的に身辺整理をして、ただ死を待つのみの身となっていました。

 死を前にして、生を謳歌しようとする少女と、生を静かにたたんでいこうとする青年。対照的な二人ですが、一花の熱烈なアタックにより、冷たく凝っていた萬木の心もほころび、二人とも幸せを感じるようになっていきました。
 でも、死が近づけば近づくほど二人は同じ思いに駆られるようになります。
 それは、この恋に意味はあるのか、という問い。

 人は誰でも死にます。誰もそれから逃れることはできません。
 でも、人は幸せになろうとするし、恋だってします。それは、いつ死ぬかわからないからです。1年後かもしれないし、10年後かもしれないし、明日死ぬかもしれない。それがいつ来るか知れないないからこそ、人は死から目を逸らすことができるのです。
 じゃあ、それがもうわかっている人だったら。明確にいつとはわからなくても、せいぜいが1年かそこらの内に、確実に死んでしまうことがわかっているなら。

 意味がないことはありません。生きているうちは、幸せなら楽しいです。嬉しいです。でも、すぐそこに死が見え隠れしているときに、果たしてその幸せを手放しで喜べるでしょうか。「どうせもうすぐ死ぬのに」という暗い思いが頭をもたげてくることを止められるでしょうか。死が近づけば近づくほど、あるいは幸せが大きければ大きいほど、幸せに差す影は濃く、暗く、大きくなるのではないでしょうか。

 物語の中で二人が近づけば近づくほど、二人の幸せは大きくなります。そして同時に感じてしまうのです。思ってしまうのです。この恋に意味はあるのだろうかと。この恋は私を、そして目の前の人を救えないのだろうかと。

 この物語の結末は最初から決まっています。どうとは言いませんが、決まっているのです。
 でも、結末が大事なのではありません。そこに至るまでに二人が何をして、何を思ったのか、それを目に焼き付けてほしいのです。

 この物語を読み終わると、ハッピーエンドとは何か、ということを考えます。
 ハッピーエンド。幸せな結末。
 物語には必ず終わりがありますし、人にも必ず終わりがあります。では、物語がハッピーに終わることはあっても、人がハッピーに終わることはあるのでしょうか。
 若人の死は不幸なのでしょうか。
 不慮の死は不幸なのでしょうか。
 余命を宣告された死は不幸なのでしょうか。
 誰にも必ず訪れる死は不幸なのでしょうか。
 死ぬ前に恋をした二人は、不幸だったのでしょうか?

「未来はないけど! 今があります!!」
 これは作中のセリフです。
「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」
 これはハイデガーの言葉です。
 死を思い知った二人が実感している今という名の生を、どうか最後まで見てほしいのです。
comic.pixiv.net

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竹やぶの少女は人間になるのか神様になるのか 少女を見つけた少女の物語『みちかとまり』の話

 ついに! 
 俺たちの!!
 田島列島が帰ってきたぞ!!!

 というわけで、講談社の月刊モーニング・ツーで、田島列島先生の新連載が始まりました。これを寿がずして何を寿ごう。
 題して『みちかとまり』。
 「みちか」と「まり」という二人の少女のガール・ミーツ・ガールという触れ込みの本作、以下、内容触れまくりの感想を。未読の方は、まずはリンク先で読むんだ。

 今作でまず感じるのは、今までの連載2作品と違う、おとぎばなしや神話のような世界観。私たちの住む世界から膜一つ隔てたところにある異界がこちら側へにじみ出てきたかのように、生と死と精神が見慣れぬ形で顕現するのです。
 同級生のボーイミーツガールである『子供はわかってあげない』や、歳の差ボーイミーツレディだった『水は海に向かって流れる』は地に足の着いた設定の物語でしたが、そこからがらっと毛色が変わりました。
 なにしろ第1話の巻頭カラーでの惹句が、「幼い少女たちの出会い。それは二人の神話の始まりだった。」です。
 この「神話」がどの程度の規模の言葉かはまだわかりませんが、そこに人間の常識を超越したものがあることに疑いはありません。

 本編1ページ目のみちかとまりの出会いも、竹やぶに落ちていたみちかをまりが見つけたというもの。近所の老女は「ここの竹やぶはねェ 時々子供が生えてくんのよ」と、見知らぬ少女が竹やぶに落ちていることをさも当然のように言います。私たちからしてみればおかしなことが当たり前に起こる世界。それがこの物語なのです。
 みちかは手を握るだけで相手の顔をまね、というより自分と相手の存在を入れ替え、人の目玉を素手で抉り出して噛み潰し、それを目撃していた人間たちの認識を狂わせてその出来事を忘れさせ、目玉の持ち主の記憶を奪い取る。やりたい放題のトリックスターです。そうそう、目玉を抉り出すとか、それを噛み潰すとか、そういう猟奇的な描写もこれまでの作品では見られなかったものですね。

 冒頭カラーの惹句に、第2話最後の「竹やぶに生えてた子供を人間にするか神様にするか決めるのは 最初に見つけた人間なんだよ」というみちかを保護している老女のセリフも勘案すれば、本作に神話的観点が持ち込まれているのがわかりますが、さらに言えば、まりがみちかを見つけた竹やぶや、その時につぶやいた「かぐや姫なの?」というセリフも加味すれば、そこに竹取物語の要素も盛り込まれていることも言えるでしょう。
 そう考えると、冒頭カラーの、みちかとまりが山奥で何かを燃やして煙が空へと立ち上っていくシーンは、竹取物語のラストシーンが想起されます。
 竹取物語のラストは、かぐや姫が月に帰った後、残された帝がかぐや姫が置いていった不死の薬を富士山で焼くエピソードです。帝はかぐや姫のいない世界を嘆き、そんなところで永遠を得ても仕方がないと不死の薬を焼きますが、みちかとまりは、二人で何かを燃やしています。みちかは立ち上る煙を見上げながら。まりは燃える炎を見つめながら。当然、現段階で二人が何を燃やしているのかはわかりませんが、それは月の民ならぬみちかがもたらした永遠を約束する何かなのでしょうか。かぐや姫は月に帰ったけれどみちかはまりの隣にいるということは、二人はずっと一緒なのでしょうか。
 まだ、なにもわかりません。
 ですが、『子供はわかってあげない』でもレヴィ=ストロースやマルセル=モースなどの文化人類学を下敷きにして作劇をした田島先生ですから、本作でも神話学やナラトロジーを下敷きにしてくるんじゃないでしょうか。そうだといいな。

 で、やっぱり田島先生の魅力の一つと言えば、肩の力の抜けたユーモラスで軽妙なセリフ回しですが、本作でもそれは健在。グロテスクさや異界のような恐怖もありながら、かわいらしい絵とふわふわしながら芯を食ったセリフのおかげで深刻さや悲壮さがない。グロテスクさや恐怖が、あるけど当たり前、あっておかしくないように思える。
 そういう意味でも神話的な作品ですね。洋の東西を問わず神話には、残忍な事件や下品な逸話や悪辣な神や英雄的な人間が登場しますが、それらは殊更奇矯なものとして扱われることなく、神話の世界ではそれはそういうもの、当たり前のものとして起こり、存在します。
 そういう、非常識が当たり前のようにある物語。

 新連載で一挙2話公開。今後どういう方向性の物語になるかまだわかりませんが、期待は十分です。
 これでいやなことがあってもまた来月まで生きようと思えるぜ…

 みんな読むんだ。

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命を懸けて/賭けて我を通す少女の未来には何があるのか 将棋と異才の少女『龍と苺』の話

 サンデーうぇぶりで期間限定全話開放されたいのを見て、以前2話くらいまで読んでそっと離れていた『龍と苺』を再読したのですが、これがあまりに面白くて2日で最新の105話まで追いついてしまいました。

 『龍と苺』のストーリーは、喧嘩っ早く直情的な14歳の少女・藍田苺が、将棋を知ってすぐにアマチュア大会で優勝し、そこで因縁ができたプロ棋士を倒すためだけに、同年代の将棋経験者やアマチュアのおじさん、プロの入り口となる奨励会に所属している人間やそこを退会した元奨の人間、果てはプロである棋士その人までバッタバッタとなぎ倒していくという、それだけ聞くとトンデモな俺TUEEEEE漫画。
 なにしろ駒の動かし方を知ったその初めての対局で、将棋を教えた元教師に実質的に勝ち、その翌日、すなわち将棋を覚えて2日目で大会に優勝するくらいにはトンデモ。しかも、序盤から女性蔑視や暴力の嵐に出くわすので、それに見舞われて以前は離れてしまったのですよ。
 ですが、本作はそんな露悪的でバイオレンスな天才の俺TUEEEEEだけの物語ではありませんでした。一言でいえば、「我を通す者の物語」なのです。
 今までずっと心をくすぶらせていた者が、そのくすぶりを燃え上がらせられるものを見つけたとき、いかにして我を通していくのか。そこに脇目も降らず切り込んでいく作品なのです。
 
 最初に、苺は喧嘩っ早いと書きました。なにしろ第1話5p目、彼女の初登場がクラスメートを椅子で横殴りにしているシーンなのです。瞬間湯沸かし器もかくや、もはや喧嘩っ早いというレベルですらありません。狂犬。しかし、そんな彼女の心の中に、ずっとくすぶっている気持ちがありました。
「毎日生ぬるい水に浸かってるみたいに気持ち悪い。みんな友達ごっこ青春ごっこしてるようにしか思えない。命がけで何かしたい」
 命がけで何かしたい。誰しも一度は思うことでしょう。そしてほとんどの人は一度は思いながら、しばらくしたら忘れてそこそこに生きることでしょう
 しかし苺のその言葉は本気でした。命がけで何かがしたいというのは、もののたとえではありません。苺は「本気のケンカ」、おそらくその意味するところは命をかけるようなケンカがしたかったから、普段から他の人間に暴力を振るっているクラスメートを椅子で殴りつけました。そして、その直後のカウンセリング室で、カウンセラーの元教師・宮村から会話のとば口にと将棋を教えられ、駒の並べ方も動かし方も勝負のつけ方さえその場で教えられた分際でありながら言うのです。
「せっかく勝負するなら何か賭けない?」
「ん? いいよ。お金以外ならね」
「命。」
 当然宮村は冗談と思って聞き流しますが、盤面が進むにつれ、まさかの苺優勢となったとき、苺はふと席を立ち、棚から鋏を取り出して盤の隣に置き、言います。
「死ぬときは自分で死ぬこと。」
 マジ狂犬かよ。
 真っ青になった宮村は本気を出しますが、盤面が進むにつれ必敗の色が濃くなっていきます。彼の詰みまで見えたものの、苺は最終的には二歩で負け(そもそも宮村はこのルールを最初に説明していなかったのですが)、それが判明したときは迷いなくカウンセリング室のある4階から身を投げようとするのです。
 たとえ今教わったばかりのゲームでも、自ら命を賭けたのならその言葉に殉じる。それくらい彼女は「命がけで何かした」かったのでした。


 転落死をすんでのところで救われ、いったん命を宮村に預けることになった苺は、翌日アマチュア大会に連れていかれました。上述のとおり苺はアマチュア大会で優勝するのですが、ふとしたきっかけで決勝戦後に戦う羽目になったプロには一蹴されました。それも、決勝戦で相手が投了した対局図から始めたにもかかわらず。
 普通なら(ゲームを知った翌日にアマチュア大会で優勝する人間に「普通」もなにもないのですが)その敗北を当然と受け止めるものを、苺は頑として認めません。いえ、敗北したこと自体は認めているのです。ただ、相手がプロだろうと何だろうと、本気の勝負に負けたままでいる自分を認められないのです。
 もちろんプロとの勝負に命は賭けていませんでした。ですが本気でした。だから彼女は決意するのです。絶対こいつに勝つと。


 あなたはバットを初めて握った翌日にプロのピッチャーから三振を取られて悔しがりますか?
 ギターを持った翌日にワールドクラスのギタリストとセッションをして一切歯が立たなかったからって悔しがりますか?
 絵筆を握った翌日に描いた絵が展覧会でプロと比較されて悔しがりますか?
 頑是ない子供ならそう思うこともあるでしょう。しかし、物事の分別もつく中学生にもなれば、そうは思わないのが普通でしょう。
 でも、その「普通」など目にも入らないのが藍田苺。プロ相手の敗北に心の底から悔しがり、リベンジするためにどうすればいいのか真剣に考えるのです。
 やはり普通に考えれば、奨励会に入り、プロになり、同じ土俵に立って再び盤を挟むのが常道です。というか、それ以外に道はありません。でも、そこにいたるまでには、めちゃくちゃ早くても10年は見積もられますので、苺はそんなの待っていられないと言下に拒否。
 じゃあどうするのかと裏道を探り、浮上した一つの案が棋士のタイトルの一つである竜王戦に出ること。もちろんプロのタイトル戦はプロしか出場できませんが、このタイトルだけは特別で、アマチュアにも出場枠があるのです。しかしそれは実質的に形式だけのもの。現実にアマチュアが本選に出場し、プロと対局できることはまずないのです。なぜなら、本選に出る前にアマは確実にプロに負けるから。
 それだけプロとアマの壁は厚いのですが、そんな厳然たる事実には一切頓着せず、苺は竜王戦に出場して、かつて自分に地を舐めさせた棋士と再戦することを誓うのでした。それゆえの、龍と苺。
 

 将棋を覚えた次の日にはアマ大会で優勝するなんてありえない? そう思います。
 女性がプロになるなんてまだまだ先の話? きっとそうなのでしょう。
 天才過ぎてリアリティがない? まったくそのとおり。

 でも、そこに問題はありません。この作品は、苺の強さを描く物語ではないのですから。
 彼女の強さに理由はありません。いえ、どこが彼女の強いところかという指摘はできますが、なぜその強さを備えているのかという理由は「そういうものだから」としか説明しようがないのです。いくら現実に大谷投手のような存在が登場して、事実は小説よりも奇なりと嘯いても、ここまできてしまうと「さすがにやりすぎ」と言うほかないでしょう。
 なので、この作品で大事なのはそこではない。苺の強さの理由ではない。「命をかける」なにかを探していた苺がそれに出会ったとき、いかにふるまい、どのようにして障害に対処し、己が精神の命じるままに猛進するのか。
 すなわち、彼女はどう「我を通すのか」を描く物語だと思うのです。


 彼女の我を通す力は、なにより物語のスピードに表れています。成長の早さはもちろんなのですが、勝ったら次、そしてまた次、負けてしまったらその相手と再戦するために埒外の方策を思い付き、そこに針の穴ほどの可能性があるなら迷わず突き進む。彼女はプロになりたいのではなく、自分を負かした人間と再戦し倒したいだけ。だから、選ぶのはただただ最短距離。
 物語に幅を持たせるための寄り道などまるでしないで、因縁の棋士と再戦するまでの最短ルートをひた走るこの物語は、階段を5段飛ばして駆け上がっているようであり、ブレーキを踏んで姿勢を制御しようとするところをアクセルベタ踏みしているかのよう。前しか見ないドライブ感がたまりません。そりゃあ読む手も止まらず2日で最新話に追いつきますわ。
 私が今回の無料開放で一気に読んだのは、まさに一気にまとめて読めるからたっだのでしょう。苺がどこまで行くのか、どこまで加速していくのか、それを何に求められずに一気に読めたのがとても大きいと思うのです。

 作中には苺に将棋を教えた宮村を初め、同年代の棋士を目指す人間やプロなど、多くのキャラが登場しますが、彼や彼女に割かれる紙幅は少なく、それもまた物語のスピードの一助となっています。
 苺と縁を結ぶ将棋にかけている登場人物、特に彼女と同年代の連中は、天才すら通り越した何かである苺(作中では冗談交じりに、本当に人間かとも怪しまれています)の強さに畏怖と恐怖を覚え、なんとか彼女に追いつこうと必死の努力をしますが、彼や彼女が進んだ何倍何十倍何百倍、あるいはいくら倍々してもおおいつかないほどのスピードで苺は成長していくので、結果として苺の孤独さ、異形さを浮かび上がらせることになっています。
 そして、彼や彼女が必死に目指すプロを苺は目指していない。この悲しいほどのズレが、彼や彼女を滑稽に見せ、逆に苺の異形さをブーストするのです。


 とにかく、一度読んで波に飲み込まれてしまったらそのまま読み続けるしかない、ドライブ感とスピード感に満ち溢れた本作、とにかく7話くらいまで一度読んでみて。お願い。私はこれから単行本買ってくるから…

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『メダリスト』クセの染み込んだ体と自由な心の話

 先日6巻の発売された『メダリスト』。

 難易度の低いジャンプを構成に入れているために高得点が望めないと思わせるいのりの演技が、実はGOE(スキルレベル)を上げる方向で構成を組んでいることが判明し、これは予想外の選手が5位以内に食い込んでくるかと他の選手がやきもきしだしたところで、ジャンプの点数が上昇する演技の終盤に2回転アクセル+オイラー+3回転サルコウという見る者すべてが仰天する高難易度ジャンプをぶちこみ無事着氷。全選手唯一のノーミス完走の演技ということもあり、いのりが見事に初の金メダルを獲得しました。
 わずか一年余りでメダリストとなれる練習を積んできたいのりと、それを心に技に体にと支えてきた司、両名が成し遂げた偉業だと言えるでしょう。熱いぜ。泣けるぜ。
 
 さて、上記のようにいのりは唯一のノーミス選手だったのですが、大会がスタートする直前に、いのりの地元のリンクで受付をしていた男性・瀬古間が、加護父子にした説明のように、スケートリンクは「ツルツルというかもはやヌルヌル」の世界。練習通りの演技が本番でもできる保証などかけらもなく、演技の成功率と得点のバランスを考えにを考え抜いて構成を作る、「賭け」の競技です。
 その成功率と、そして演技自体のクオリティを上げるために必要なことの一つが、動きやポージングを身体にしみこませること。
 これは、4巻での合宿中に、バレエの講師を招待していのりら生徒に教えられました。

バレエやってると自分の体への意識が変わって どんな時も姿勢をコントロールしやすくなります!
みんなも試合で焦った時…
緊張して体がうまく動かなくなることがあるでしょ? 凹むと前屈みになるじゃん マジ感情って色んな重力があるワケ
バレエのレッスンは毎日姿勢を確認する バーレッスンで正しく綺麗な動きを修正して
毎日毎日メンテナンスして クセで必ず同じ角度でできるくらい体に覚えこませる
身体が美しい姿勢を覚えてくれてるから心が自由になれる
感情を込めて演技しても姿勢は綺麗なままで転んだりしない
(4巻 p133,134)

 一見チャラいあんちゃんとしか思えないバレエ講師が、現に陸上で直立状態から3回転し、それでいて美しい姿勢を崩さない様子を見て、いのりたちはその言葉の重要性を実感するのです。

 この「クセで必ず同じ角度でできるくらい体に覚えこませる」「身体が美しい姿勢を覚えてくれてる」「感情を込めて演技しても姿勢は綺麗なまま」というのを改めて読み直して、依然似たようなこと書いてたな、ってことに気づきました。
yamada10-07.hateblo.jp
yamada10-07.hateblo.jp
ここらへんの記事で、練習をする意味・目的について書いていますが、そこでも触れているように、

 練習の目的は極論すれば二つ。
 一つ目は、できないことを意識すればできるようになること。
 二つ目は、意識すればできることを意識しなくてもできるようになること。
 この二つです。

 なのですが、美しい姿勢を体に覚えこませ、感情(思考)とは離れたところで綺麗な姿勢を維持するというのは、「意識すればできることを意識しなくてもできるようになること」だと言えます。
 氷という不安定な場所でも、プレッシャーに押しつぶされそうな中でも、既にしてしまった失敗にさいなまれている真っ最中でも、演技は続いているのだから、その中で最善を尽くさなければいけない。その最善のために、思考が、感情が揺さぶられていても、身体は綺麗な姿勢をとっていなければいけない。そのための練習です。

 また、クセがすっかり身に付き、姿勢の維持に気を払わなくていいということは、その分思考のリソースを他のことに割けるということ。すなわち、思考の省エネ化です。その分のリソースが使われる先は、演技中に構成を変えることかもしれませんし、したばかりの演技の反省・修正かもしれませんし、とっておきの演技をするための覚悟かもしれませんが、いずれにせよ、姿勢を注意する以外の余裕が生まれるわけです。
 何度も書いていますが、私のやっているジャズでスケール(音階)やフレーズの反復練習をするのは、考えなくても指が動くよう体にしみこませることで、「今どう指を動かすか」ではなく「次は何を吹くか」に意識を割けるようになるためです。刻一刻とコードが進行しリズム隊が演奏を続けているアドリブにおいて、今何を吹いているんだっけどう指を動かせばいいんだっけ次に何を吹こうかな、などと悠長に考えている余裕はありません。それらは同時に行う必要があり、そのうちの一つである「どう指を動かせばいいか」を考えなくて済むようになるのは、演奏のクオリティを上げるための非常に重要なステップです。

 なんであれ、上手い人が他の人の何倍も練習をしているというのはそういうことなんですよね。体に動きを染み込ませる。動きのクオリティを上げる。それをするためには、ひたすら練習を重ねるしかないのです。同じ練習量でも各人で結果に差が出るという残酷な現実はあっても、それは練習をしない言い訳にはならない。
 
 金メダリストとなり、中部大会を抜けたいのり。その先には、狼嵜光をはじめとした全国の強豪選手が待っています。その選手たちも、いのりと同等かそれ以上に練習をしている選手ばかりでしょう。その上でいのりがどんな演技を見せるか。司がどんなコーチングを見せるか。今後もドキドキがとまりません。

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『ブランチライン』欲望の素直な肯定と身軽で気軽な姿の話

 新刊の出ました『ブランチライン』。

 4巻を読んで感じたのは、この作品は人の素直な欲望を肯定してくれるんだな、ということでした。
 どこで感じたかと言えばいろいろあるんですが、やはり象徴的なのは、4巻で初登場した月子です。
 老齢ながら、YouTuberとして自分の好きなものを紹介する番組を配信している彼女。自分のもとを訪れた仁衣から「また物が増えた」と驚きながら言われても、「そうなの 収集癖が年々ひどくなって」と屈託なく同意し、仁衣と同行した山田から「装飾品 お好きなんですね」と皮肉でもなく言われた感嘆にも、「何の役に立つんだって感じでしょ でもねー みんなとってもかわいくて 見てるだけで楽しくなっちゃうの」と5%の諧謔と95%の喜びで返答しています。
 自分の好きなものに衒いのない月子の姿はとても軽やかで、他人の目とか今後の不安とか、そういう余計なものを脱ぎ捨てたかのような素朴な美しさを感じさせます。
 彼女の家を辞した後に仁衣が山田に言った、「月子さんはいつもだいたい快諾で いつもご機嫌なんだ 好きなものにかこまれてるからかもなー」という言葉は、月子の在りようを端的に示しています。
 好きなものに囲まれているからご機嫌。
 自分の好きなものが何かわかっていて、そこから自然に喜びの感情を得ている。素直さ。素朴さ。朴訥さ。自然さ。世間のしがらみから解き放たれて、地面から3cmくらい浮かんでいそうな自由さ。そういう感じです。

 好きなものは好きでいい。自分の欲望は素直に認めていい。
 こういうことを言うと、人を害したいとか見下したいとかそういうネガティブな欲望も認めていいのか、みたいな半畳も入りそうですが、そういう半畳を脇に置いた、人間に備わっていてほしい・・・・・素朴でささやかな善性を信じた上での、欲望なんです。それをみんな持ってれば、世界もすみやくなるよなって思えるやつなんです。それはたしかに欲望なんだけど、その欲を満たしている当人の姿が他の人にまぶしく映り、マネしたくなるような、そんな欲望。

 そういう、自分で満たす自分の欲望以外にも、他者から満たされる欲望もあります。
 たとえば、山田が仁衣から思いもかけずに投げかけられた「宝もの」という言葉。家に帰ってベッドの上で一人、山田はその言葉を噛みしめ、あまりにもストレートにうれしさを表明しています。
 他者から肯定される喜び。自分を認めてくれる喜び。あなたは私にとって大事な人ですよ、と表明してもらえる喜び。
 一言で言えば、愛、ですかね。
 本作では、けっこう気軽に愛という言葉が使われます。それは男女間のみならず、親子間や姉妹間、親族間など、広い間柄で。
 4巻で印象的だった愛の使い方は、仁衣が山田について語った言葉を、太重が評したものでした。すなわち、山田のことを「いつも幸せでいてほしい子なんだよね」と言った仁衣の言葉を「愛の言葉」と表したものです。
 誰かに幸せでいてほしい。誰かを肯定し、認め、大事な人だと表明する、祈りにも似た思い。それが愛。
 この素朴さは、上で書いた月子のような欲望に通じるところがあります。素直で、自然な欲望。それは、自分で満たすのでも他者から満たされるのでも、ともにことほぐべきものであるように描かれていると思うのです。
 
 『ブランチライン』に限らず、池辺葵先生の作品を読むと、自分の欲望に素直になっていいんだなと思えます。自分の欲しいものを手に入れたら素直に喜んでいい。自分のしたいことをできたら素朴に嬉しがっていい。ともすると、別にどこにもない世間の目なんてやつを気にして湧き上がる感情を抑えようとしてしまったりすることもありますが、そんなことしないでいいんだ、自然に喜びに身を任せればいいんだと思えるのです。そうする姿は、月子のようにとっても身軽。
 自分の好きなもの、好きな気持ちををふと見失いそうになるとき、池辺先生の本を読むと、すっと靄を晴らしてくれるようです。

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寡黙な眼鏡と空気読みのギャル 凸凹二人の手探り恋模様『正反対な君と僕』の話

 高校生の初交際話の漫画だって面白く読めちゃうんだから、読む人間と作品の距離なんて大して関係ないってのが分かりますね(挨拶)。
 ということで、現在ジャンプ+で連載中の、『正反対な君と僕』の話です。

 クラスの陽キャグループに属し、休み時間のたびにイツメンと騒がしくしゃべっている鈴木(♀)は、まったく場違いなタイミングで隣の席の谷(♂)に話を振っては塩対応されている。周りのイツメンたちは「また鈴木のいつものムチャぶりか」と呆れるだけだけど、鈴木の内心は

(1巻 p8)
 「正直、大好きです。」
 そう。実は谷L♡VEの鈴木。
 無理にでも話しかけちゃうのは、なんとか会話をしたいから。
 ムチャぶりしかできないのは、自分が谷を好きだと気づかれるのが怖いから。ムチャぶりに谷が塩対応してくれている間は、自分が本気で谷を好きだと思われずに済むから。
 他のクラスメートは谷のことをただの「「物静かな眼鏡の子」ぐらいにしか思ってない」けれど、鈴木から見える谷は、「自分の意見しっかり言うし 人によって態度変えたりしないし 無駄に人にあわせたりしない」人。そんな彼は、周りの目が気になっていつも空気を読んでしまう鈴木にとって、憧れの人なのです。

「谷くんに憧れているのに 私は 谷くんとは真逆の人間なのだ」

 自分にないものを持っている人に憧れるのは世の常。同じく、自分にないものを持っている人に劣等感を抱くのは人の常。
 憧憬と劣等はどちらもその対象から己を遠ざけてしまうものですが、じゃあその対象に恋心も抱いてしまったらどうしましょ、ということなわけです。
 憧憬と劣等による斥力にプラスするところの、空気読みによる現状維持指向。恋心による引力でそこを突破するのは相当に大変ですが、偶然とふとした拍子とその場の勢いで突っ切るのは若さゆえの強さでしょうか。

(1巻 p40)
 強いですね。
 でも、勢い余っての告白は裏付けのない脆さの裏返し。ここから二人がしっかりした関係を深めていくには、勢いでは詰められない歩み寄り、手探りでの凸凹の埋め合いが必要になってきます。
 第3話での、初デートで映画を観に行った鈴木と谷が、同じ映画について同じ「おもしろい」という感想を持ってもその実、二人が着眼していたところがまるで違った、というのはいいエピソードでした。かたや地名や人名などの言語野の記憶を軸にストーリーを記憶している谷と、かたやちょっとしたしぐさや振る舞いを軸にエピソードを印象付けている鈴木。二人の違いを端的に示しているし、そこでお互いがお互いの感じ方に感心しているのが、小さくて大事な歩み寄りって感じです。
 告白して付き合いだすところからスタートする第1話。そこからお互いの良いところに気づいたり、嫌なところに気づいたり、同じ好きなものを知ったり、まったく違う嫌いなものを知ったり、いろいろあることでしょう。山あり谷あり、プラスもありマイナスもあり、そんな曲道をくねくね二人で進みながら

徐々にお互いのこと知っていって 
「これが好き」て話した時に 「あ~好きそ~!」って言えるような…
わかってる人になりたいなって
(1巻 p155)

ってなれるような。
二人にはそんな未来をきちんと夢見ていてほしいなと思う作品です。
shonenjumpplus.com

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『スペシャル』読者も飲みこまれるキャラクターと同じ地平の不条理の話

 さて、『スペシャル』の最終巻が発売されたわけですが。

 3巻の途中くらいからきな臭さはたちこめだしていましたが、最終巻の4巻ではもうきな臭さで充満。噎せかえりそうなくらいきな臭くて、危うい空気で満ち満ちていました。
 狙われる伊賀。守ろうとする大石家。暗躍する、葉野の同居人(?)(父親の恋人?)(なにもわからない)である美倉。目的のためには拉致も人殺しも辞さず。まさかこの作品で暴力と血の臭いがするとは思っていませんでしたよ。ハンマーで人の頭を潰す音とか、死ぬ間際に投げつけられる罵詈とか、それまでの作品世界に圧倒的にそぐわないがゆえに、際立った違和感が読んでて消化不良を起こしそうでした。うぷ。
 そして、最終話の最終ページは、あまりにも唐突な破滅の示唆。不気味なサイレンが鳴り響いた直後に伊賀と葉野が見上げた先には、一体何があったのか。3巻第40話で何の説明もなく展開されたシェルター避難訓練の話は、あまりにも説明がないので当たり前のように受けれいていましたが、まさかそこにで鳴り響いていたサイレンが、最終話のサイレンの布石になっていたとは。シェルターへの避難訓練は、ただの形式的なものではなく、実際的なものであり、もともとそういう世界観だったわけです。たしかに、現実に地震や火災の避難訓練はしても、シェルター避難の訓練はしないもんなあ。

 そんな終末的終局を迎えながら、作品にはあまりにも多くの謎が残されています。
 伊賀のヘルメットの下は明かされたもののその意味は不明瞭で、葉野と一緒に暮らしていた美倉の目的や背後にあるものはわからず、大石家がもつ隠然たる権力は示されてもそれが何によるものかはわかりません。山中に刺さっている槍は言わずもがな、それが林立しているという「放場(はなちば)」についても、全く説明がないのです。
 これを投げっぱなしととるか否かは人によるでしょうが、私が感じたのは、不条理のカリカチュアでした。
 漫画であれ小説であれ映画であれ、作品中で謎が提示されればたいていの場合、最終的には見ている人間に中身が開示されるものです。作中の登場人物には疑問が残っても、作品世界を俯瞰して見ることのできる読者・視聴者には、個々の謎が関連しあってパズルを解くように、そこではどんな物語が語られていたのかがわかるようになっているものです。
 でも、本作ではそれがない。読者は作中の人物と同じレベルで、作中の謎に困惑します。いえ、伊賀の秘密や槍など、むしろ作中の一部の人物の方が事情を把握していることも多いでしょう。読者の理解は、なんでもない女子高生である葉野と同レベルです。
 葉野は終盤で、自分の知らない内によくわからない状況に巻き込まれ、生命の危機すら感じ、なんとか脱出できても友人とは永遠の別離をにおわされ、挙句の果てには空から迫る破滅を目の当たりにする。不条理の極みです。そして読者は、それとほぼ同じレベルの理解状況に叩きこまれる。そしてそのまま終わり。実に不条理です。
 
 現実を生きる私たちも実際に、知らない内によくわからない状況に陥ることはありえます。それにしたってこれほどじゃない。そんなことは思いますが、本当にそうでしょうか。それはきっと、そう思う私たちが単に幸運なだけ。世界を見渡せば、いや、国内を見渡したって、自分にはどうしようもない内にどうしようもないことになっている人は必ずいます。歴史を紐解けば、なんならwikipediaを見るだけでも、日々のニュースを見るだけでも、そんな例はいくらでも出てきます。
 作中の人物に不条理を味わわせ、その不条理に読み手を同化させ、最終的には何の救いも解決もなく同じ地平に突き落としたまま終劇。まるで、お前の人生もこんなもんだぞと突き付けるように。

 私の趣味で言えば、作品の謎はすべて知りたいものです。不条理は条理に解きほぐしてほしいのです。懇切丁寧に説明まではされずとも、それを推理できる程度の情報は出してほしいのです。でも、それらは許されないまま終わりました。胃の中に残った飲み込んだままの異物感は、消化できそうな見込みはありません。
 でも、この作品に限ってはそれもいいのかなと思うのはなぜなんでしょうね。
 独特の言語センスによる空気なのか。コメディ路線から気づかぬうちに連れ去られていた不気味への地続き感なのか。不条理の中でもがいているキャラクターたちへの同一感なのか。
 後味は決して良くありませんが、その良くなさは強い記憶になってしばらく残りそうです。
 いやホントにね、もうちょっと秘密が明かされたらね、よかったんだけどね…

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