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漫画の話です。

言葉は剣よりも強いか モンゴルに仇なす奴隷の刃はマルチリンガル『ゾミア』の話

 13世紀。それはモンゴルの世紀とも称されるほど、モンゴル族がおおいに威を振るった時代です。
 世にも有名なチンギス・ハンが初代モンゴル帝国の皇帝となったのが1206年。最盛期においては地球上の陸地の17%を支配したともいわれる強大な帝国ですが、当然、その拡大の過程には多くの暴虐がありました。古今東西、平和裏に進む国家の拡大などなく、元々その地に住まう者との戦火は必至、流れる血潮でもって版図を塗り潰していったようなものです。

 この物語の主人公・ネルグイは、塗り潰された側の人間。宿敵である金を滅ぼさんと軍を進めるモンゴル帝国の征路から生み出された、数多くの難民の一人です。
 1215年、モンゴル帝国と金の戦は一応の和睦を迎え、その地に留まる多くの奴隷と同様、ネルグイは労働に身を窶していました。しかし、彼が他の奴隷と違うのは、その類稀なる言語能力。契丹語、西夏語、ウイグル語、ペルシャ語モンゴル語etc……。当時のモンゴル帝国支配下で使われていた言語の多くを習得していた彼は、その能力から、金支配層と奴隷たち、そして異民族の奴隷間の連絡役を務め、若さにも関わらず金の官僚から優遇されていました。
 「ネルグイ」とはモンゴル語で「名無し」の意。なぜ彼がそんな名前を名乗っているかと言えば、本当の名前を忘れてしまっていたから。自分の本当の名前は、もう死んでしまった父母がつけてしまったそれのみ。もう死んでしまった父母とのつながりも、それのみ。だから、もしいつか本当の名前を思い出した時のために、自分は「名無し」でいい。
 比類なき言語能力に、状況を冷静に観察できる理性。奴隷の身にも関わらず、目をかけてくれた官僚から将来文官に取り立てることさえほのめかされる彼の資質ですが、時代はネルグイに安穏を許しません。
 和睦をしていたはずのモンゴルの裏切り。火計の奇襲により、金は瞬く間に滅びていきました。
 また別の奴隷商のものとなったネルグイ。しかし、以前と違うのは彼の心に灯った黒い炎。
≪殺されたところから生まれよ≫
 これは同じ奴隷だった盟友から教わった言葉。遊牧民であった盟友の部族に伝わる儀式の言葉。モンゴルの再侵攻によって生き別れた盟友から教わった言葉を胸に、ネルグイは再生と再起を誓うのです。

 こうして始まった本作『ゾミア』。13世紀初頭のアジアを舞台に、血と汗と涙と暴力が渦巻く世界で、マルチリンガルを武器に抗う少年ネルグイの半生記です。
 言語とは情報です。この世には数多の言語がありますから、グーグル翻訳もディープラーニングもないこの時代、知っている言語が多いことはすなわち、得られる情報の多さに直結します。
 言語とはコミュニケーションです。能く言語を操るものは、多くの人間と意思疎通でき、異なる言語を使う者同士を取り持つこともできます。知っている言語が多いことはすなわち、他者との交渉の優劣に直結します。
 言語とは思考です。人は必ず言葉でもって思考します。多くの言語を知り多くの言語を操ることは、他者の思考を理解することにつながり、同時に他者に自身の思考を浸透させることにもつながります。
 腕っぷしでも剣戟でも弓矢でも馬術でもなく、言語。いわば舌先三寸で困難を切り抜ける少年。それがネルグイなのです。

 しかし、いくら口先が回ろうとも、ほんの少しの失敗で命を落とすのがこの時代です。
 腐った食べ物。
 野犬による噛み傷。
 農作物の不作。
 疫病の流行。
 一本の流れ矢。
 権力者の機嫌。
 突然の死因はそこら中に転がっています。
 しかし、なればこそ、言語で、理性で、情報で、思考で己が道を切り拓こうとしていくネルグイの姿が、美しくたくましく見えます。再び奴隷になっても、奴隷商や身分を隠す貴人、襲撃してきた兵などを相手取って、その弁舌で窮地を切り抜けていく。いえ、切り抜けていくなんて表現できるほど器用なものではありません。刃先に裸足で立つように、電流流れる高所の鉄骨を安全ロープなしにわたるように、必死の思いで、決死の覚悟で、最善を尽くして死地をこじ開けていくのです。

 命の重さが現在とはまるで違う時代。昨日の敵が今日の友となり、今日の友が明日には骸になる、そんな時代。
 しかしてその時代に生きる中に、異端はいます。
 異端の言語能力。異端の交渉能力。異端の蓄財能力。異端の戦闘能力。
 出る杭は時に打たれ、時に新たな領域を打ち立てる。果たして異端の少年ネルグイが時代に打ち立てるものは何なのでしょう。
yanmaga.jp



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『違国日記』やめる人/やめない人と、やめられない「才能」の話

「才能」に悩む朝と苦しむ槙生の『違国日記』9巻。

 この巻で印象に残ったのは、まさにこの「才能」の話でした。
 部内で誰よりも音楽の才能に恵まれているように見えながらも、音楽は高校で終わりという三森。
 医大受験での女子差別に心折られかけながらも再度医大を目指すこと決意した森本千世。
 自分と比べて両名とも「才能」を持つ者にもかかわらず、一方はやめ、一方はやめない。そんな二人の在りようを見て悩む朝は、小説家などという、「才能」がなければやっていけないと思える仕事をしている槙生に疑問をぶつけました。

やめる人・・・・やめない人・・・・・の違いって何?
(9巻 p78)

 長くその疑問を引きずっていた様子の朝に、わざわざお茶を入れてまで間をとった上で、槙生はこう答えました。

――わたしにとっての「才能」は「やめられないこと」
(中略)
でもわたしよりおもしろいものを書く人にやめる理由が訪れてわたしにないのを……
……
…わたしはわたしの「才能」だと思うことにした
…と いうより諦めた
(9巻 p83,85)

 これがひどく印象に残ったのですが、それは、以前別の作品でも似たような言葉を見たことがあったから。

どんなに才能があっても色んな事情でそれを続けられない人は大勢いる。でも、運がいいのか悪いのか、町蔵君はマンガをやめなかった。
――いや、やめられなかった。
望んだというよりはそう生きるしかなかった。
それこそが「人格」だよ。
(G戦場ヘヴンズドア 3巻 p185)

 日本橋ヨヲコ先生の『G戦場ヘヴンズドア』です。
 これは、主人公町蔵の師匠漫画家である都が、彼に言ったセリフでした。
 セリフ内の「人格」は、作中時間軸の十数年前、まだ漫画家のタマゴだった町蔵が都に、

漫画家に必要なものって何スか? 
才能じゃなかったら、何なんスか?
本物との差を決定的に分ける一線って、いったい何なんですか?
(G戦場ヘヴンズドア 2巻 p156)

 と問うた際に、わずか一言で返された

人格だよ。
(同上 p157)

 を受けているものですが、漫画家を漫画家たらしめているものは、面白い漫画を描く「才能」ではなく、漫画を描かずにはいられない「人格」、換言すれば生き方であると言うのです。槙生の言う「わたしにとっての「才能」は「やめられないこと」」と見事に符合するものだと言えます。

 けれど、両者の言葉のベクトルは真逆だと言っていいでしょう。
 都が町蔵にかけた言葉は、売れない漫画家を続けることに悩む彼に「それでいいのだ」と力を与える言葉。漫画家としてしか生きられないことこそが漫画家である証左なのだと背中を押す言葉。
 翻って槙生の言葉は、自分を縛りつける言葉。「わたしよりおもしろいものを書く人にやめる理由が訪れてわたしにない」ことに悩む自分を、なんとか言い含めようとする言葉。不安定な自らの立ち位置を強引に固定する言葉。悩んでもどうしようもないことなら悩まないようにしようと無理やり自分のこうべを上向かせる言葉。 
 そして槙生は続けて言います。

わたしは逃げられない
呪われて生まれたのなら徹底的につき合うしかないと最悪の方法でやめた知人を見て決めた
(違国日記 9巻 p86)

 そのように生まれたことを「呪い」と表現する槙生。
 どうに生きるか決めることはできても、どうに生まれるかを自分で選ぶことはできませんし、どう生まれたかで生き方の選択肢が大きく変わってしまうことも厳然たる事実です。どう生まれたかでどう生きるかが制限されてしまうのであれば、それはスリーピングビューティーの如き呪いなのかもしれませんし、それを認めて生きるのであれば「諦め」ることも必要なのでしょう。抗えないものには、抗えない。

 しかし、そうとしかあれないと認識することは、無限に広がる人生を閉ざす扉であり、同時に自由に生きるためにくぐらなければいけない扉なのかもしれません。
yamada10-07.hateblo.jp 
 昔、『バガボンド』と『戦国妖狐』、さらに日本橋ヨヲコ先生の『極東学園天国』に絡めてこんな記事を書いていました。

引力で石は下に落ちる
自由には限界があって 運命には逆らえないってことじゃねえ?
それなら 楽しんだモン勝ちだね
極東学園天国 1巻 COLOR.3)

 これは『極東学園天国』内のセリフですが、槙生は「楽しんだモン勝ち」と思うポジティブさを持っているわけではないでしょう。しかし、自由に限界があるからこそ抗う、限界の中で「徹底的につき合う」と決めたのです。

 『違国日記』の第一話では、朝が高3になった春のある夕暮れ時が描かれています。そこにいる朝も槙生も、初めて会った時とも、9巻時点とも、また違います。まだ子供である朝が変化するのは当然ですが、いい大人の槙生もまた、当然変化します。そんな変化もまた書き留められている日々の日記。それが『違国日記』です。



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『さよなら絵梨』単調なコマ割と期待を裏切られるカタルシスの話

『ルックバック』以来、再び長編読み切りを上梓した藤本タツキ先生。

 200pオーバーという大ボリュームでありながらページを送る指が止められず、更新された日曜深夜にあっという間に読み切ってしまいました。

 さて本作、二転三転するストーリーや、どこまでがリアルでどこまでがフィクション(映画)かわからない構造など、内容面でも語るべきことはたくさんありますが、それは書籍で発売されてからじっくり考えるということで(電書だと腰を据えて読めない古の民)、今日はその演出上の話を。

 本作で特徴的なのは、一読して分かる通り、ほとんどのページが同じ形の横長の長方形コマ4つで構成されていることですが、これは冒頭で示されているように、主人公のカメラ越しの視点を表しています。絵がぶれているコマが出てくるのは、手で構えているカメラの手ぶれですね。
 この、ある意味では単調でつまらないとも言えるコマ割りですが、むしろ本作においては、このコマ割りこそが、読者の誘因に一役買っていると思うのです。

 漫画のコマ割りの歴史を紐解けば、黎明期には本作の大部分と同様に、まったく同じ形のコマを等間隔で並べたものから始まりましたが、読者の視線誘導をしやすいようにコマの形や間隔に変化をつけたり、描きたい絵のために特殊な形にしたり、コマの形自体を表現にしたり、あるいはコマをキャラクターが認識してふるまうことでメタ的な面白さを導入したりと、様々な発展がみられます。

 で、本作は上述したように、まるでかつてに戻ったかのように同じ形のコマが同じように続きます。それも、横に長い長方形という制約の大きい形で。
 普通ならその単調さは退屈さを催しかねませんが、冒頭から、末期の母親を映像に残すという、ストーリー面のフックと、コマの形の理由を与えて読者を作品にとどめます。そこからさして紙幅をさかないうちに病院の爆発というあまりにも意外な展開で度肝を抜き、さらに今までの話が主人公による映画だったと明かして、読者が無意識に抱いていたストーリーに対する前提(母の死までを追ったドキュメンタリー)を転覆させました。
 ここに発生した、読者の予想が裏切られたこととそれによる快。それこそが、単調なコマ割りにもかかわらず、あるいはだからこそページを送らずにはいられない原動力だと思うのです。

 連続する単調なコマ割りは、画面上にも、読者の視線移動にも、一定のリズムを作ります。しかし読者は本作を読む中で、そのリズム、言い換えればこのまま続くであろうと予期しているものが簡単に覆されることを、ストーリー面からも、病院の爆発からも、早々に知ってしまっているのです。
 それゆえ、ページを繰る内に読者は我知らず思います。またいつかこの予期が裏切られるんじゃないだろうかと。
 予想・予期を裏切られること。それは快でもあり不快でもありますが、心に何らかの影響をもたらすことが作品の使命であれば、どちらに心が振れるのであれ、とても重要なことです。

 単調なリズムによって刻み込まれる次のページへの予期(構図的な意味で)と、それが裏切られるのではないかというメタ的な予期(展開的な意味で)。さらに、現代の漫画でこの単調さが延々と続くことの違和感。予期と違和のみつどもえのせめぎあいが読者の心に緊張感を生み、その解放の欲しさもあって、ページを繰らずにはいられません。そしてちゃんとどこかで予期は裏切られ、違和も消えるので、緊張感の解放、カタルシスが起こります。それが楽しい、気持ちいい。

 また、本作はジャンプ+での発表ということもあり、ネット、とりわけスマホによる読書を強く意識しているのではと思います。
 実際にスマホで読めばわかるのですが、画面を指で送っても送っても、ほとどんのページは構成が変わらず、コマの中に描かれているものが変わるだけです。ページをめくるたびに視線が一瞬遮られ、視線もぶれる紙で読むよりも、スワイプだけでサッサッと絵だけが変わっていくスマホ読書では,単調なリズムが圧倒的に生まれやすいのです。電書だと腰を据えて読めない古の民である私でも、これを実感するために、本作はあえて電書でも欲しいなと思ってしまいます(当然紙も買います)。

 もちろん、実験的でさえあるこのような手法を200p読み切りという作品で成立させるには、読者を引き込むストーリーや絵の強度など,それ以外の要素も不可欠です。それゆえに、これを成立させた藤本タツキという作者に、驚嘆せずにはいられません。一刻も早く紙書籍で出しやがれください。



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『タコピーの原罪』あなたを一人にしない、ハッピーを生む「おはなし」の話

 再び『タコピーの原罪』。今日は「おはなし」についてのお話。

 この物語のトリガーにして傍観者であるところのタコピー。この者が何のために地球に来たのかと言えば「宇宙にハッピーを広めるため」。そのために、ハッピーママから渡されたハッピー道具を携えているのですが、地球で出会ったしずかに、ハッピー道具の威光は届きませんでした。それもそのはず、しずかが何にどう感じているのかもわからないタコピーでは、どうすれば彼女を笑顔に、ハッピーにできるのか、わかりようがありません。
 タコピーが地球人の心を理解できない内にしずかは自殺してしまいますが、それを目の当たりにして、タコピーは言います。

知的生命体”人間” きみたちの言葉で自ら命を絶つことを
”自殺”と いうらしい
なぜそんな行為が存在するのか なぜきみが自殺してしまったのか ぼくにはわからない
でも わからないから聞きたいっピ たくさんおはなしして もっときみを知って
きみが死んじゃわなくて済む未来を いっしょに考えたいっピ
(上巻 p46,47)

 タコピーがここで口にした「おはなし」。これは別のところでも登場します。

仲直りの秘訣は
ちゃんとおはなしすることだっピよ おはなしがハッピーを生むんだっピ
(上巻 p62,63)

 「おはなし」。実はこれ、この物語の中で、けっこうなキーワードであると思うのですが、こう言いながらもこの作品の登場人物たちは、ほとんど「おはなし」をすることがありません。

 たとえばタコピー。
 1話で、しずかを探すまりな達が、いじめの成果を語り合う陰湿な会話を耳にして、タコピーは「楽しそうだっピね」で見当はずれのことを言いますが、それに対してうつろな表情で「そうなんじゃない?」と答えるしずかの顔にも言葉の意味するところにも気付くことなく、新しいハッピー道具を披露します。
 2話で、トイレでまりなから隠れているしずかに、上でも引用した「おはなしがハッピーを生むんだっピ」と無思慮に言い放ちます。
 7話では、殺したまりなに化けて、彼女の家族の輪に交じりますが、そこで繰り広げられているまりな両親の醜い言い争いをまるで理解せず、酔っぱらって心にもないことを口走ったまりな父に、その言葉の意味を取り違えたまま「行きたいっピ パパのところ!!」と返事をして、まりな母の神経を逆撫でます。
 このようにタコピーは、「おはなしがハッピーを生む」と言いながら、その場でどんな話題が出ているのか、相手が何を言っているのか、相手が何を思っているのか、そんなことを一切斟酌せずに、自分の思ったことを反射的に口走っているだけなのです。

 これは他のキャラクターも同様です。
 たとえばしずか。
 日々に絶望している彼女は、助けたタコピーの言葉にもほとんど取り合わず、機械的に返事をしているのがほとんどです。
 また、衝撃的なシチュエーションの直後ということも差っ引かなければいけないのかもしれませんが、タコピーがしずかを殴り殺した直後、タコピーに対し、彼の言い分をほとんど聞かずに、しずかを殴り殺したタコピーを称賛し、その帰り道で東に出会ったときも、彼が理解できているかどうかを気にかけず、淡々と状況を説明し、咎める東の言葉も心に響かず、ただ自分の思うことだけを口にしています。

 たとえばまりな。
 しずかに話しかけている彼女が、しずかと「おはなし」をしようとしているのではないのは明白ですが、2022年、高校一年生の彼女も、話しかけてくるタコピーに対して基本的に邪険に扱い、まともな会話をしていません。母との会話も、彼女と言葉を交わそうとしているのではなく、ただ彼女を激高させずにやり過ごそうと言葉を並べているだけです。

 たとえば東。
 母から認められることを切望する彼は、自らをいい子であろうと強く律し、クラスのいじめられっ子であるしずかへ(母の面影を感じるしずかへの恋心もあって)積極的に話しかけますが、まりなが殺されるまで彼の言葉がしずかに届くことはなく、彼の独り相撲のようなものでした。

 以上のように主要キャラクターたちは、言葉を交わしていても、それが「おはなし」と呼べるような対話ではないことがしばしばです。
 「ハッピーを生む」ような「おはなし」とは、別にそこで大事なことが語られる必要はありません。誰かの心を強く動かす必要もありません。ただ、相手の話を聞き、その話を受けて自分の言葉を返し、そしてまた相手がその言葉を受けて話をする。そのような、自分の言葉に対して相手が反応してくれる、自分の言葉を相手が聞いてくれる、そんな実感を得られる言葉の応酬。それが対話であり、「おはなし」です。
 話の中身ではなく、私はあなたが今そこにいることを認めていますよ、一人の人間として見ていますよ、あなたを一人にはしませんよ、と伝えられるメッセージによって、「おはなしがハッピーを生む」のです。
 なのに、彼らには、そのような「おはなし」がないのでした。
 「ハッピーを広める」ことを目的とした者から始まる物語にもかかわらず、「おはなし」がないためにここにはハッピーがなく、彼女や彼は孤独に苛まれているのでした。

 しかし、これをまだ未成熟な彼女や彼だけの責に帰するのは無体なことでしょう。なにしろ彼女や彼は、一番身近な人間であるところの親から、まともな「おはなし」をされていないからです。

 しずかと共に暮らす母が登場するのは、チャッピーが保健所に連れ去られた直後のほんの数カットですが、そこでの彼女は、おざなりな嘘と、別れた元夫に対する愚痴と、同伴相手(=まりなの父)への体面を鬱陶しそうに口にするだけで、我が娘の顔に浮かぶ絶望にはまるで気づきませんでした。
 まりなの母は、夫がキャバクラ(=しずかの母の職場)に通い詰めるようになったからか、もともとの性質もあったのか、精神の平衡を崩し、自身の感情のはけ口をまりなに求めていました。「ママのおはなし 聞いてくれるよね…?」と言いながら、彼女と「おはなし」をする様子はなく、ただ己の言いたいことを吐き出すだけになっています(それは、2022年の彼女の姿からもわかります)。
 東の母は、兄である潤也と同じくらい東が優秀であれと、彼に懲罰的な教育を施し、テストで満点をとれなければおやつをあげず、彼の罪悪感を煽り、同時に彼の自尊心を削り取るような言葉遣いで、自覚的にか無自覚にか、東を責めていました。

 親の因果が子に報い、ではありませんが、コミュニケーションのロールモデルとしての親がこのような態度であれば、彼女や彼の「おはなし」が不全であることもしょうがないのかもしれません。

 ですが、この作品の中でも、少ないながらも、「おはなし」が成立したと言いえるシーンがあります。
 たとえば1話。地球に来て六日目の夜、ハッピー道具が全然役に立たずいまだ自らの手で彼女を笑顔にできないで困っていたタコピーは(チャッピーと一緒の時は笑顔になっていたしずかを見ていたからなおさら)、それでもなんとかしようと必死に言葉を重ねていました。ハッピー星に招待する、もっといろいろなハッピー道具を見せてあげる、そんな言葉はしずかには響きませんでしたが、「しずかちゃんをものすごい笑顔にしてみせるピ!」という言葉だけは彼女の琴線に触れたようで、タコピーは初めて彼女から柔らかな笑顔を向けられたのでした。
 おそらくこれは、ハッピー星やハッピー道具というものについては「魔法」と表現したようにありえないものと切って捨てていたしずかでしたが、そんな彼女を誘う甘言のようなものよりも、ただ「ものすごい笑顔にする」という強い言葉自体に、彼女に向けられた思いを感じ取ったのではないかと思います。そこのタコピーの言葉に、自分を笑顔にしてくれようとしている、自分を認めてくれている、という感覚を得て、しずかは少し笑顔に、ハッピーになったのではないでしょうか。

 また、まりな殺害から死体発見までの短い蜜月の間、タコピー、しずか、東の三名は、まるで普通の子供のように、普通の友達のように遊び、夏休みの計画を話し、笑顔で過ごしていました。この時の三名の会話は、なんてことのないものです。でも、その会話は、相手の話を聞いて、それに反応して、という「おはなし」として成り立っています。

 そして、本作最大の「おはなし」のシーンは、本作で最も真人間と思しき、東の兄・潤也によるものでしょう。
 9話のラストで、しずかから自分の代わりに自首してくれるよう頼まれた東が呆然自失としたまま家に帰り、翌早朝から家を出ようとしたところで、潤也に見つかりました。続く10話冒頭、東の想像の中の潤也は、東を見下し、罵り、詰り、追い詰めますが、現実の潤也は東と視線を合わせ、「何でも聞くから」と優しく笑いかけるのでした。初めはその言葉を信じられず、自分の妄想に閉じこもろうとした東でしたが、「俺がいるだろ」から続く潤也からまっすぐ自分に向けられた優しくも強い言葉に、心の殻も崩れ、今の状況を告白しました。
 しっかりと弟の目を見て、「何でも聞くから」「俺がいるだろ」と、私はあなたを認識しています、あなたのことを受け容れます、というメッセージを発した潤也。この直後に東によってなされた告白を最後まで聞き取ったことこそ、この物語でもっとも象徴的な「おはなし」だと言えるでしょう。

 潤也との「おはなし」によって対話を知った東は14話で、しずかとまりなに向ける感情で葛藤するタコピーの話を聞いたうえで、タコピーに対して感謝とを述べました。

3人で遊べて楽しかった 生まれて初めてあんなに学校が楽しみに思えた それは
友達だったからだ お前は能天気で馬鹿でゴミだけど優しい
(下巻 p140,141)

 これが最後の対話となるであろうことを予期して、タコピーに対して心からの言葉を伝えた東でした。

 そしてしずか。
 東京で行方をくらまし、一年近くを経て北海道に帰ってきた彼女はタコピーを見つけて、正論を吐く彼を無視し、溜めに溜めた心の澱を、精神的にも物理的にもぶつけました。

一体どうすればよかったって お前言ってんだよ!
(下巻 p159)

 それに対してタコピーの言葉は「わかんないっピ…」。まったく役に立たない回答です。当然しずかはそれを否定しますが、それでもタコピーは必死に言葉を紡ぎます。

ごめんね ごめんねしずかちゃん 何もしてあげられなくてごめんっピ
でもいっつも何かしようとしてごめんっピ しずかちゃんのきもち ぼく全然わかんなかったのに ぼく…
いっつもおはなしきかなくてごめんっぴ 何もわかろうとしなくてごめんっピ しずかちゃん
一人にして ごめんっピ
(下巻 p161,162)

 気持ちをわからなかったこと。話を聞かなかったこと。何もわかろうとしないまま何かをしようとしたこと。そして、しずかを一人にしたこと。
 タコピーは、今まで自分がさんざん「おはなし」をしたいと言っていたのに、その「おはなし」に必要なことを全然していなかったことに気づいて、それを詫びるのでした。それらがあってこその「おはなし」であり、それらこそが「ハッピーを生」むのです。
 それに気づいたタコピーがしずかに謝罪をし、改めて「おはなし」をしようと告げたのでした。

 すべてのハッピー力を費やしてもう一度だけハッピーカメラを使い、時を戻したタコピー。そこはもう彼の姿がない、元のままの2016年でした。
 しかし、そこには変化がありました。
 東は兄と「おはなし」をするようになり、(兄にか母にかはわかりませんが)度の合わなかった眼鏡を買い換えてもらえるようになりました。
 そしてしずかとまりな。しずかがまりなに虐げられる構図は変わりませんが、なぜかノートに描かれていたちゃちなタコピーの落書き。それを目にした二人は、存在しないはずの記憶を二人して思い出し、存在しないはずのものについて言い合います。

「…壊滅的にバカっぽい 何もできなそう ごみくそ… ごみくそってかんじ」
「でも… 何かしそう いっつもなんか… ついてきそう」
「それでさ ずーっと話しかけてくる 絶対帰んないの バカなのに」
「何もしてくれないのに 喋ってばっかで… だって おはなしが ハッピーを生むんだっピ」
(下巻 p187,188)

 しずかはまりなの言葉を聞き、まりなはしずかの言葉を聞き、いもしないはずの何かを共通の話題にして言葉を重ねていく。

「え 何泣いてんのおまえ きも」
「まりなちゃんこそ」
「何 なんだよこれ」
「わかんないよ…」
(下巻 p189)

 わけのわからない喪失感の共有。彼女たちは、お互いしか知らないものをお互いに確かめ合うように、「おはなし」をしたのでした。

 二度目の2022年。そこには、気のおけない友達としてどうでもいい会話をしているしずかとまりながいました。なんてことのない、日常の「おはなし」。それこそが、「もう一人じゃない”きみたち”が きっと大人になれるように」とタコピーが遺したものだったのです。

 ということで、『タコピーの原罪』の「おはなし」についてのお話でした。
 「おはなし」がハッピーを生む。そして、「おはなし」は相手を一人にしないこと。相手をしっかり認めること。とすれば、ハッピーの第一歩とは、誰かから自分を認められることなのでしょう。



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『タコピーの原罪』タコピーの「原罪」とはなんだったのか、あるいは善悪の意識の萌芽の話

 原罪。それは、祖であるアダムが犯したために、その子孫である人間が生まれながらにして負っている罪。
 
 キリスト教を元とするこの言葉をタイトルに関する問題作が、先ごろ完結巻を刊行しました。

 連載中から更新のたびにネットを沸かせ、ジャンプ+の最多PVも獲得したとかなんとか。
 デフォルメの効いた愛らしい絵柄と裏腹の、いじめや虐待などの苛烈な描写。無知な子供たちが織り成していく破滅への絨毯は、読む者の目を背けさせると同時に次の展開を待ち遠しくさせずにはいられませんでした。

 さて、そんな本作ですが、タイトルにも関されている「原罪」とは何を指すのか、ここには議論の余地があります。作中で「原罪」について直接言及されたことは一度もなく、読者は自身で考えるしかないのです。
 作中でその言葉が登場するのは二度。
 一度目は、第4話の最終ページ。タコピーがまりなをハッピーカメラで撲殺した衝撃でカメラの機能が壊れ、もう時間を戻すことができなくなったとき。
 二度目は、第15話の最終ページ。タコピーが自分の全ハッピー力と引き換えにカメラの機能を一度だけ復活させ、自身の存在を消すとともに、写真を撮ったその時間へ戻ったとき。
 素直に考えれば、この二つのうちいずれか、あるいは両方が示す事柄が、タコピーの「原罪」を指すと言えるでしょう。

 しかし、「原罪」とは冒頭に示したように、人間が生まれながらにして背負っているとされる罪のこと。タコピーが人を殺したこと、あるいは時間を戻せなくなったこと、もしくは自身の消滅と引き換えに時間を戻したこと、という、彼(?)がした行為そのものを指して「生まれながらにして背負っている」と表現するのには違和感が否めません。

 なので、見方を変えてみましょう。「原罪」の主語を、人間でなくアダムで考えてみるのです。
 すなわち、人間が生まれながらにして背負っているものではなく、アダムが楽園を追放される契機となった出来事を考えるのです。
 アダムが楽園を追放されることになったのは、蛇にそそのかされたイブと共に、神から口にすることを禁じられていた知恵の木の実を食べたから。そうして善悪の知識を得たから。
 この、「善悪の知識を得た」という点に着目してみたらどうでしょうか。

 「宇宙にハッピーを広めるために旅をしている」タコピーは、その目的通り、ただひたすら人をハッピーにするためだけに行動していますが、その内面からは暴力的な概念、人を害する意識というものがすっぽり抜け落ちています。いえ、抜け落ちているというより、最初から存在していないのでしょう。

死は等しく平等に定められ 覆す手段は存在しない
いかなる叡智の道具であっても 死者を蘇らせることは適わない
(上巻 p44)

 とあるように、死という生命の不可逆の終りについては知りつつも、

知的生命体”人間”
きみたちの言葉で自ら命を絶つことを
”自殺”というらしい
なぜそんな行為が存在するのか なぜきみが自殺をしてしまったのか ぼくにはわからない
(上巻 p42)

誰かの命を奪うことを
”殺す”というらしい
(上巻 p148)

 とあるように、「自殺」や「殺す」といった概念は、「らしい」という伝聞で表しているように、地球で初めて知るのです。
 この特質はタコピー個人のみならず、ハッピー星人一般に言えることであるようです。第13話で、ハッピー星のハッピーママのセリフ(「殺すってなに…」)や、ハッピーママの手を強く払いのけたタコピーの行為が「強く触る」と非暴力的に表現されていることから、それが推測されます。

 そんなタコピーが、第4話でまりなを殴り殺した時、瞬間的に彼が抱いたのは、まりなを殺したことへの罪悪感というよりも、取り返しのつかないことをしてしまったという焦燥です。まりなを殺したことではなく、ハッピーカメラが壊れたせいでそれがもう不可逆の事象となったことにこそ、恐れを感じているのです。
 この段階では、まだタコピーに善悪の分別はありません。まりなを殺した自身のこと、行為を悪と感じている様子は見られないのです。いえ、しばらく経っても、まだ彼は善悪を理解してはいません。それゆえ、殺したまりなに化けてもぐりこんだまりなの家庭でも、混乱を起こしていました。
 しかし、この出来事、まりな殺しこそ彼の善悪の意識の萌芽でした。

 第7話で、今にも壊れそうなまりなの母から悲しみと絶望をぶつけられて、彼女からまりなを奪ったことを実感したタコピーは初めて罪悪感を覚え、まりなの両親、そして自ら殺めたまりな自身に許しを請いました。
 ここで生まれた罪悪感は、確かにタコピーに負の意識を植え付けました。しかしそれはまだ、自分の中にしかない悪。外に悪を見出してはいません。
 彼がはっきりと自分の外に悪を見つけるのは、消された記憶を思い出してから。1回目(2022年)の地球では、しずかではなくまりなと最初に出会い、彼女の願いを聞き届ける形でしずかを殺そうと、大ハッピー時計を使うためにハッピー星へ戻りました。そこで、掟を破ったことを理由にハッピーママから記憶を消され、ハッピー星から追放されたのですが、その記憶を全て取り戻した時、タコピーは自覚したのです。

久世しずかを殺さなきゃ 完膚なきまでに命を壊さなきゃ すべて思い出した
久世しずかのせいで まりなちゃんはパパを 東くんを 大事なママを失った
殺さなきゃ 殺さなきゃ 久世しずかは悪だ
(下巻 p130)

 ここでタコピーは明確に、しずかを悪と断じています。

 時系列を整理すれば、1回目の地球行でまりなと生活していたタコピーがその記憶を失い(第13話)、2回目の地球行で記憶を失ったまままりなを殺し(第4話)、まりなの母とのやり取りで罪悪感を得て(第7話)、一緒に東京に行ったしずかから殺意を向けられたことで記憶を取り戻し(第11話)、しずかこそ殺すべき悪だという意識を持ったのです(第14話)。
 2022年にまりなと別れるときにタコピーが口にした「殺せばいいんだっピね!」には、殺すことに対する罪の意識も悪の意識もかけらも感じられません。そもそも「殺す」の意味を理解していません。「”小4のとき”に”久世しずか”を”殺す”?ってすれば」の「?」を見れば一目瞭然です。
 それが、現に「殺す」ことをし(その対象は、皮肉にも小4のまりなでしたが)、それが引き起こす状況や感情を体感し、それを2022年のまりなに引き起こさせたしずかを「悪」だと断じることとなったのです。

 まりなを殺すことさえなければ、タコピーが悪を心から実感することはなかったでしょう。
 その意味で、まりな殺しこそタコピーが善悪を知った契機。タコピーにとっての原罪なのです。

 そして、悪を、知恵を知ったタコピーの思考はそこに留まりません。

あの時ひどいことをしていたまりなちゃんは あれは悪くなかった? それに
ぼくは? まりなちゃんを殺したぼくは―…
あのとき
ぼくにパンをくれた”しずかちゃん”は――
(下巻 p131、132)

 単に誰かを何かを悪として決めつけるだけではなく、そこに連関する他の事象にまで考えを及ぼし、芽生えたばかりの悪の絶対性に疑問を持ちます。
 悪とは何だ。悪をなされた人間は悪ではありえないのか。悪を罰そうとする自身は悪でありえないのか。悪をなす人間は悪でしかありえないのか。
 相対的な視点。客観的な視点。メタ的な視点。
 それこそ善悪を判断するのに必要なものです。タコピーは悪を知り、その対極としての善を意識し、されにそれらが独立してそれ単体で存在しているわけではないと気づくのです。そのような葛藤こそ、善悪の意識であり倫理の誕生だと言えるでしょう。

 改めて、冒頭の問いに戻りましょう。タコピーの「原罪」とは何か。
 それは、彼が生まれながらにして背負っているものではなく、彼が善悪を知るきっかけとなった出来事。すなわち、まりな殺し。
 その意味で、第4話のラスト、まりなを殺した直後に「タコピーの原罪」とタイトルが大書されていたのは、最初は一旦否定したものの、実はきわめて正しいものだったと言えるのでしょう。
 そして、第15話のラスト、タコピーが全ハッピー力を使ってハッピーカメラを使い時間を巻き戻した直後に書かれた「タコピーの原罪」は、第4話でのそれと比べて、文字がしずかに隠れてよく読めないようになっています。これは、タコピーが善悪を知ることになった契機であるまりなの死をなかったことにし、善悪を知ったタコピーそのものが消滅したことで、彼の原罪もまた世界の裏側へフェードアウトしていったもの、と考えるのはうがちすぎでしょうか。

 以上、『タコピーの原罪』の中のタコピーの「原罪」。それについての試論でした。



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『その着せ替え人形は恋をする』連写ポートレートと五条への同一化の話

 アニメも評判のまま幕を閉じ、新刊も出た『その着せ替え人形は恋をする』。

 9巻では、太った海夢、一眼レフを買った海夢、そのカメラでレイヤーとしてではなくカメコとしてコスイベに行く海夢と、相も変わらず楽しそうです。
 で、その9巻で私が一番ぐっと来たのは、海夢が買ったカメラで五条が彼女を撮るシーン。カメラのあまりの性能の良さにテンションブチアゲた五条が、そのテンションのままに海夢のポートレートを撮りまくるのですが、6ページ、13コマにわたって、会話を続けながら海夢のポートレートをコマ送りのように描く手法が、とても印象的でした。

 ポートレートはカメラのファインダー、すなわちそれを覗いている五条の視界と重なっていて、コロコロと変わっていく海夢の奔放で開放的で魅力的な姿を、シャッターを押して切り取っています。五条の目にはシームレスに変転していく海夢の姿が映っていますが、彼がシャッターを切った瞬間、そこにはある一瞬の海夢だけが写っています。
 もとより漫画は、任意のシーンの任意の瞬間を任意の角度で切り取り、それを並べていくものですが、カメラという、まさに「任意のシーンの任意の瞬間を任意の角度で切り取」る道具を構えたキャラクターによって、任意に切り取られた一瞬を13コマ連続で並べることは、読み手をそのキャラクターに強く同一化させます。海夢の表情にときめき、動きに翻弄され、仕草に心揺さぶられる五条に、です。五条が海夢が不意に向けたキス顔に心臓を跳ねさせたのと同様、読み手もまた彼女にキュンときてしまうのです。
 
 また、このシーンでの会話の表現も秀逸で、ここでは会話と言っても読み手から見えるのは海夢のセリフのみであり、五条からのセリフは紙上に一切書かれていません。海夢と五条はたしかに会話をしているはずですが、五条がなんと言ったのか、正確にはわからないのです。
 いわば、ドラクエの主人公状態でしょうか。相手からの言葉に対しレディメイドの返事を当てるのではなく、自らその返答を想像することで、よりキャラクターとの一体感を持たせる手法です。
 一般的に漫画は、読み手は三人称的に物語を読むよう構成されているものですし、常に一人称として読むことを強制されては重層的な物語を作ることが極めて難しくなりますが、たまにピンポイントでこういう手法を、しかも上述の連写ポートレートと併せて使うことで、読み手を一気にキャラクターへの同一化へと引き込むことができるのです。
 他の人の感想でも、このシーンが印象的だったという話はよく目にしましたが、こういう仕掛けがあることが理由の一つではないかと思います。

 9巻のラストでは、まさかのジュジュの再登場。初期に登場した非常にいいキャラでしたので、あれでもお役御免では悲しいな再登場しないかなと思っていたところですので、とても嬉しい。海夢との恋の鞘当ての布石も(妹の心寿も含めて)おかれていましたからね。その方面でも動きがあるかもしれません。
 また、意味ありげに描かれていた、海夢に対する旭の振る舞いも気になるところ。果たしてあれは、いい意味のものなのか、それとも悪い意味のものなのか。
 早くも10巻が待ち遠しいです。



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『メダリスト』『3月のライオン』敗者と勝者のメンタリティの話

 今一番アフタヌーンで推してる作品『メダリスト』。

 最新刊では全日本選手権の予選にあたる、ノービスAの中部ブロック大会に出場します。
 さてこの作品、しばらく前から羽海野チカ先生の『3月のライオン』と似通うところがあるなと思っているんですが、5巻に登場するエピソードで、プレイヤーたちの勝利/敗北に向けた心の描き方について改めて思ったことがあるので、今日はそこを。

 いのりが出場したこの大会は、いのりと同世代の子、すなわち小学校高学年から中学生くらいまでの子供たちが出場していますが、作中で述べられていることには、アイスリンクの上というのは「ツルツルというかもはやヌルヌル」であり、「氷という不安定な物質の上では「絶対の成功」はあり得ない」のだとか。
 その言葉どおりほとんどの選手は、どれだけの練習を重ねてきても、なんらかのミスをしています。ジャンプの後にバランスを崩す程度の小さなものから、完全に転倒し鼻血を出してしまう大きなものまで、大なり小なりミスは起き、事前に練習したとおりのパーフェクトな演技ができることはめったにありません。
 そして当然、今まで血反吐をはくほど練習してきた選手たちに、ミスが起きた瞬間にそれに気づきます。気づいてしまいます。今日の自分の演技はもう完璧ではない。これ以降いくら頑張っても満点にはなりえない。それを悟ってしまうのです。
 しかし、にもかかわらず、選手たちは演技を続けなければいけません。
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(5巻 p95)
 この選手たちの心境で思い出したのは、『3月のライオン』の獅子王トーナメントの決勝戦で、島田八段と後藤九段が対局したエピソードです。
 一勝一敗でもつれ込んだ最終戦、学校から将棋会館へと駆け込んだ零を待っていたのは、冷静な様子でインタビューを受ける後藤と、盤の前で俯いている島田でした。知らぬ者から見れば、後藤九段の勝利に終わったように思えますが、あにはからんや、勝ったのは島田八段でした。

――何度も見て来た… 対局直後のこの光景
負けを悟った側は対局中に最後の一言に向けて心を整理してゆくが
勝つ側は 最後の一瞬まで読み違える事がないよう 張り詰め続ける
3月のライオン 3巻 p180)

 この後藤九段のように、負けを悟った側は案外と冷静になっているもので、それは上で引用した『メダリスト』の選手たちも同様です。もう優勝は無理だと悟った選手たちは、頭の片隅から諦めに染まっていくのですがそれでも、振り付けを叩きこまれた身体は、音楽に合わせて半ば無意識に演技を続けます。そしてなんとか精神を持ち直すのです。たとえ、優勝ができずとも、それでもいままでやってきたことを投げ出すようなことはしないのだと。
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(5巻 p97)
 将棋には投了があり、ある段階で敗者が完全に負けを認めることができる点で、既定の演技時間があるフィギュアスケートに比べれば、もっと早い引き際がありえますが、それでも完全に詰みとなるまであがき続け、いつかは自ら負けを認めざるを得ません。
 演技が終わる前からもう勝てないことが分かっていても、それを知りながら最後までやり遂げる。その、ある意味での敗者の心境には、『3月のライオン』で描かれているものと通じるところがあります。

 そして逆に、勝者の側でもそのメンタルには通じるものがあります。
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アフタヌーン 2022年4月号 p270)
 これは5巻未収録の話なのでネタバレになってしまいますが、主人公のいのりは、その日まだ他の誰も達成していなかった高難易度&ノーミス演技の最終盤、自らの演技の完成度を自覚し、それゆえに高いプレッシャーにさらされながらも、「最後まで気を抜かない」と自分に言い聞かせて演技を終えます。
 将棋で、「勝つ側は 最後の一瞬まで読み違える事がないよう 張り詰め続ける」ように、フィギュアでもまた、「最後まで気を抜かない」で演技をしきることが必要なのです。
 ま、これはあらゆる競技や勝負事で共通のことではありますが。

さらに付け加えると、今までキスアンドクライに座っていた一位の選手が、後続の選手に追い抜かれて、その座を譲るシーン。
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(5巻 p123)
 これもまた、己の負けを素直に認めなくてはいけないものです。
 暫定であろうとトップをとれていれば嬉しいでしょうが、後続の選手の演技を見ていれば、自分より高得点かどうかある程度わかるでしょうし、仮に僅差でその場ではわからなくても、点数は無情に表されますから、自分より高得点が出ればその瞬間に判明します。キスアンドクライは常に不安定で、自分がどれだけいい演技をしようと、自分より後の選手がそれ以上の演技をすれば、それで終わりなのです。優勝は、すべての演技が終わるまで確約されません。負けが分かった瞬間に、その座を明け渡さなければいけません。負けを認めて、なお見苦しくなく振舞わなければいけないのです。
 これもまた、「負けを悟った側は対局中に最後の一言に向けて心を整理してゆく」敗者のメンタリティに通じるものがあるでしょう。

 今日は勝者と敗者のメンタリティという類似点を考えましたが、『メダリスト』と『3月のライオン』には、才能の描き方という点でも相通じるものがあると思っていますので、それがまとまったらまた書きたいと思います。



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