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漫画の話です。

かわいいペットは地球を救う『カワイスギクライシス』の話

 数多の星を支配下に置く帝国アザトス。かの国の矛先は今地球へ向けられ、先遣隊として降り立ったのは、帝国軍きっての俊英、リザ・ルーナ。低レベルな地球の文明に辟易していた彼女だったが、小休止しようと入った猫カフェで、恐ろしいものを目の当たりにする。それは猫。今までの価値観を全て塗り替えられるその愛くるしさに、リザの心も体も完全に屈してしまった。猫。それは地球を救う最強の生き物……

 ということで、城戸みつる先生『カワイスギクライシス』のレビューです。
 かわいいは正義。猫はかわいい。よって猫は正義。あまりにも明白な三段論法によって猫の偉大さが証明されましたが、そんな正義の象徴である猫が、悪辣な宇宙帝国の地球侵略を食い止めるのです。だって猫がかわいすぎるから。そんな作品。そんなギャグ漫画。

 猫のかわいさは全宇宙に知れ渡っている普遍の真理かと思っていたのですが、どうやらこの猫という至高の存在は地球にしか存在しないらしく、今まで地球に来たことのない宇宙帝国の者たちは、それを知らぬまま生きてきたらしいのです。人生の損失ですね。
 ですから、先兵としてやってきたリザが猫に出会えば、あっという間にメロメロ、腰砕け、その場にへたり込んで何もできず語彙を失い忘我の境地に至るのも無理からぬことです。
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(1巻 p14)
 猫に初めて出会った宇宙人の一般的な反応。
 彼女らにとって既知であった66兆種超の生物種すべてと比べたところで足下に及ばぬほどのかわいさを有する猫。そんな驚異の存在を帝国軍が知れば、価値観が転覆し、帝国ごと地球の、否、猫様の支配下に置かれかねず、それゆえリザは、地球にとどまり猫の生態を観察し、どうすればこの至高の存在を極力穏当に帝国へと伝えるかを全力で検討するために、地球にとどまり猫の生態を観察するのでした。嘘です。猫とにゃんにゃんしたいだけでした。
 
 まあこの猫のかわいがり方、猫かわいがり方がギャグの真骨頂で、リザをはじめとする宇宙人たちが、猫様にまるで抗することができません。体つきのしなやかさに驚愕し、体毛の柔らかさに慄き、鳴き声に脳を溶かされ、肉球の感触に失神する。全力で甘えてくる姿には下僕のように媚びへつらい、不意に飽きて体を離されると傷心に膝から落ちる。
 そんな宇宙人たちの姿に、すでに猫の存在を知っている地球人からは滑稽さを指摘する声が投げかけられますが、しかし宇宙人たちの名誉のために言えば、地球人だってたいがいです。登場する地球人たちはなにかしらペットを飼っていますが、リザが初めて言葉を交わした、猫カフェ店員の向井も猫を飼っており、彼が猫を飼うその姿は女王に傅く臣下そのもの。明らかに猫を高次の存在とおいています。
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(1巻 p70)
 だいぶやべえやつ。

 それだけではありません。コカ・コーラペプシ白い恋人六花亭バターサンド、ポカリとアクエリアス等々、人間の争いに終わりはないものですが猫と同程度の派閥を持つペット界の二大巨頭の片割れ、犬。犬派の人間も登場し、猫派に負けず劣らず飼い主バカ姿をさらします。
 そして、きのこの山たけのこの里の争いにアルフォートルマンドが参戦するように、猫や犬以外にもハムスター、ハリネズミ、ウサギ等、各種愛玩動物の飼い主たちもまた、自分の家族であるペットをなによりも大切にし、他のペットを決して貶めることはせず、己がペットこそ宇宙一の存在とそのかわいさを誇示するのです。なんという平和な世界。

 平和な世界ゆえか、端々で投げつけられるフレーズが光ります。
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(1巻 p23)
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(1巻 p34)
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(1巻 p48)
 狂った人間に対して平静な一言を入れる温度感がすごい好きなんですよね。やはり狂気と平静のあわいにこそ笑いが存在する。
 各種動物がきちんとかわいく描かれているのもとてもポイント高し。全力で甘えてくる猫がかわいいんだまた。
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(1巻 p68)
 惚れてまうやろ。
 なんかクサクサしたことがあってもこれを読むと幸せな気分で眠れそうな、そんなギャグ漫画。猫派でもそうでなくても、動物をかわいいと思える感性さえあればとにかく読むんだ。
 現在4巻まで発売中。第1話はこちら。
shonenjumpplus.com



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『2.5次元の誘惑』意識される/目を逸らされる過去の話

 13巻現在で、8名ものヒロインが登場している『2.5次元の誘惑』。

 リリサ。
 みかり。
 まゆら
 753。
 ののぴ。
 アリア。
 まりな。
 夜姫。
 ヒロインというか、ちゃんと内面の描かれた女性キャラクターというかですが、さてこの彼女らをとある基準でカテゴライズしてみると、ざっくり二つに分けられるんじゃないかと思ったので、ちょっと検討してみます。

 グループ1は、アリア、まりな。
 グループ2は、まゆら、753,ののぴ、夜姫。
 このカテゴライズだと例外になるのがリリサとみかり。

 さて、このカテゴライズが何を基準にされているかというと、彼女らの過去です。より具体的には、過去を拒否あるいは過去から目を逸らしているか、過去を後悔しているか、です。

 一人ひとり見ていきましょう。
 アリアは、両親が離婚した時、それを知らないままに父親にひどい言葉を投げつけてしまい、それが最後の言葉となっていたことを悔いていました。
 まりなは、母親の言葉に従い品行方正に生きてきたけれど、オタク趣味を誰にも言えないでいることに、これでいいのだろうかと悩むようになっていました。
 二人とも、自分の過去になした(なしてきた)行為について、ずっと引きずっているのです。

 もう一つのグループも見てみましょう。
 まずまゆらは、好きでやっていたはずの過激なコスプレを「恥ずかしくて世間に言えないようなこと」と思い、大学卒業と同時に辞め、以降封印してきました。
 753は、ただコスプレをすること自体が楽しかったはずなのに、有名になってそれでプロとしてそれで食べていくようになると、「幸せな時間をずっと続けるために」「夥しい苦労と葛藤と悪意と戦わなきゃいけな」くなって、「自分を守るために心を殺」し、かつてそうだった自分も含めて、コスプレをしている人間を憎むようになっていました。
 ののぴは、自分の話したい事しか話さない身勝手なトークを友人に否定されて以来、そんな失敗をした自分を直視できず目を逸らしたまま、やみくもに同じ趣味の友人を欲しがっていました。
 夜姫は、自分が否定された事実を受け止められず、自ら悪役としてふるまうことで、それ以上の傷を負うことを防ごうとしましたが、同時にコスプレが好きだと言う自分の心を遠ざけてきました。
 彼女らはみな、自分の過去を拒否した、あるいは目を逸らしてきました。

 過去の後悔と拒否。
 この違いは、過去の問題を解消したいと自覚的であるか否かです。前者の二人は、問題に自覚的であり、それをどうにかしようと自ら行動に移しました。アリアは父のかつての作品のコスプレをし、まりなは皆の前でコスプレを披露しましたね。
 後者の四人は、問題に無自覚、あるいは目を逸らしていたため、主体的にそれを解消しようとはしていませんでした。リリサや奥村との出会いによって問題をあぶりだされ、ある意味で偶発的に解消されたのです。
 
 まだ過去の問題らしい問題(後悔)が出てきていないリリサや、登場時点で奥村好き好きが行動の軸として存在していたみかりんは、このカテゴライズにはそぐわなくなります。例外の人数と片方のグループの人数が同じってのもダサい感じですが、まあまあ。

 あるキャラクターの過去について、そのキャラクター自身がどういう態度であるかという点で、作劇上の違いが考えられそうですが、ひとまず今日のところは備忘録的にこの辺で。



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『2.5次元の誘惑』夜姫とののぴ 過去の受容と未来への一歩の話

 最新13巻で、冬コミ編も一段落した『2.5次元の誘惑』。

 冬コミ編で本格的に登場したコスプレ四天王の一人である夜姫ですが、当初は炎上上等の承認欲求拗らせウーマンかと思われましたが、いやそれ自体はなんら間違ってないんですが、その奥の方にあるキャラクターへの愛、コスプレへの愛がリリサによって暴かれました。
 夜姫の殻を破ろうとしているとき。リリサはこう叫びました。

一生誤解されたまま 叩かれ続けていいんですか?
今の本当の自分を見て欲しいって 思わないんですか?
(13巻 p38)

 その問いに対する夜姫の回答は、リリサの問い自体を無効化するものでした。

過去の自分を見られることは 本当に誤解か?
「何が」私の真の姿だ?
(13巻 p38,39)

 「本当の自分」とはなんのことだ。真の姿とはなんのことだ。
 観測される人は一人でも、どう観測されたかという結果は、観測する人間の数だけある。「人は相手を見たいようにしか見ない」から、過去に炎上の一つもあればおもしろおかしく吹聴し、以降その人を見る目は「炎上した人間」というフィルターを通すことになる。そう見た人間にとっては、以降たとえ彼女が変わろうとも、「愛のないコスプレをして炎上したクソコスプレイヤー」というのが夜姫の真の姿になるのだ。
 「本当の自分」なんてちゃんちゃらおかしいと、夜姫は哂います。
 でも、それを自認したうえでなお、夜姫はこう宣言します。

一度作った過去は消えない 過去の自分だけ切り離せやしないんだ
「本当の自分」ってのは 「最新の自分」とイコールじゃない
変わる前の自分も 一生 自分の影だ
一生を 一生背負って生きていくんだよ
(13巻 p40,41)

 四天王まで上り詰めた夜姫の、諦念と覚悟を刻み込んだ言葉でした。

 で、このエピソードを読んでふと思ったのが、実は夜姫、そのありようがののぴと似てるんじゃないかってことです。
 本作屈指のゆるキャラとして、web掲載時には要所要所で局部を隠すことに大活躍のののぴ。気弱な性格にあばらが浮き出た身体と、心身ともに夜姫とはまるで違うような彼女ですが、でも、彼女がリリサらと出会ったジャンプフェスでのエピソードを思い返すと、たしかに共通点があるのです。
 それがどこかといえば、自らの過去の過ちを認めて、前に進もうとしたこと。

酷い事を言われた けど 私も間違っていた
たったそれだけのことを認めたくなくて 都合の良いトラウマにして逃げてきた
いいんだ 今日の私が間違っても
変わっていけばいい 明日の私へ
(6巻 p85,86)

 自分を馬鹿にしてきた友人をひどいやつ、性格の悪いやつと決めつけて、人の話を聞かずに自分の話ばっかりしていた自分自身を棚に上げていたののぴ。けれど、リリサや奥村との交流を通じて、棚に上げていた自分を見直すことができ、自分はただの無垢な被害者じゃない、「酷い事を言われたけど」「間違って」もいた、と認めることができました。
 そのうえで、間違ってもいい、失敗してもいい、その上でその過ちを正せるよう明日へ向かって変わっていけばいいのだと思えたのです。
 
 このののぴの認識は、言葉の強さこそ違えど、夜姫の言葉と非常によく似ています。
 過去の自分、過ちを犯した自分を今の自分から切り離し、今の自分は間違っていない、正しいと思いこむことは簡単ですが、そうしてしまっては、過去の失敗を反省しそれを活かすことができません。
 勉強でも同じですが、間違えたところを再び間違えないようにするためには、自分がどこを間違えたかを把握する必要があります。数学で言えば、使う公式が間違っていたのか、そもそも公式を覚え違いをしていたのか、あるいは単なる計算ミスなのか。それを理解せず、明日の自分は大丈夫と無根拠に胸を張っていても、また同じ失敗を繰り返してしまうことは想像に難くありません。
 人生の失敗はたいていの場合、数学のテストの失敗どころではないでしょう。
 あのときああしてしまったから。
 あのときあんなことをしなかったら。
 人はいくらでも後悔をしますが、その後悔を次につなげるためには、失敗をした自分を見つめなおさねばなりません。そのためには、失敗をした自分をわが物と受け入れなければなりません。「変わる前の自分も一生自分の影」であり、それを「一生背負って生きて」いかなくてはならないし、それを背負っているからこそ、「今日の私が間違っても」「変わってい」くことができるのです。

 さらに言えば夜姫もののぴも、過去にあった嫌なことから自分を守るために、自分で作り上げた殻に閉じこもっていた、という共通点がありました。

貴方は誰より傷つきやすくて 自分が否定された事実を受け止めきれなくて 自分を悪役として正当化した
…対外的にはね
(13巻 p35)

 という753による夜姫評は、

…そうだよね 君は悪くない
私がもう傷つかないように 嫌なこともずっと覚えてて 守ろうとしてくれてたんだよね
(6巻 p84

 という、ののぴ自身によるイマジナリーののぴの説明と同種のものです。
 悪役という悪口に違うと言って抵抗するくらいなら「そうだ悪役だよ」と振舞った方が傷は少なくてすむ。そうすれば、たとえ傷はつくにしても、どこが傷つくかわかるかいくぶん耐えやすい。そんな、自ら被った悪役という殻
 他人に近づいて拒絶されるくらいなら、初めから遠ざけて孤独のままの方が楽。だってそうすれば、結果は同じ独りでも、拒絶されたという過程がない分傷は浅く済む。そんな、自ら被った孤高という殻。
 二人ともよく似た殻をかぶっていたのです。

 ということで、夜姫とののぴの意外な共通点のお話でした。
 13巻発売をきっかけにまた最初から読み直して、本作のヒロインたち+奥村を改めて考えてみたら、物語のキャラクターが解決するべき過去について二つに大別できるのかな、というアイデアも湧きましたので、そのうちそれについても書きたいと思います。



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新たな出会いと別れ ダイが世界に与える感動の予感『BLUE GIANT EXPLORER』5巻の感想の話

 人懐こいピアニスト・アントニオとの出会いと、なんちゃってエージェント・ジェイソンとの別れ。孤独のドライブと、レッスンの生徒たち。
 一人でアメリカに来たダイは、また新たに出会いと別れを得ました。そんな5巻。

 子供の頃からジャズクラブに出入りして、多くのプレイヤーに教えを乞うたりセッションをしたりと、積極的に他人から吸収しようとしてきたアントニオ。
 「一人でも多くのプレーヤーと合わせて学ぶ。俺にはそれしかなかった。」という彼は、「一人で吹いてたオレと真逆だ」というダイ自身の言葉どおり、今までの道のりだけでなくプレイスタイルも真逆。多くのプレイヤーから様々なものを吸収してきたアントニオは、その引き出しの多さゆえに、初めて合わせたダイのシリアスなソロにも難なくついていき、冷静にダイの音を聴きながらなおソロを下支えし、自身のソロもダイのプレイに合わせてシリアスなものに仕上げていきます。

 己を曲げられないダイの愚直でシリアスなスタイルとは真逆の柔軟性であり、様々な引出しを作った末に見いだした自分自身のスタイルも「根底から明るいサウンド」。やはりダイのシリアスさとは真逆と言えるでしょう。
 そんな二人を評したジェイソンの言葉は印象的でした。

なんだろう、この2人… 何かが少し似てて、何かがまるで違う感じがする…
色で例えるなら… 2人とも同系色………青は青だが…
アントニオは明るいターコイズブルーで、
ダイは濃く深いネイビーブルーか――――
(5巻 p24)

 本作は、ふとした時に挟まれる鮮烈な比喩が印象的なんですよね。
 音を出しようのない漫画というメディア、その上で二人のプレイをどう差別化するかというときに、ただ音楽のスタイルの違いだけでなく、楽しいとかシリアスとかいう言葉だけでなく、色というまったく違う観点からの比喩を用いる。
 明るいターコイズブルーと、濃く深いネイビーブルー。
 カリブの海を思わせるような底抜けの明るさと、宇宙まで沈んでいく夜の空のような遠い深み。
 中米出身のアントニオのらしさと、この巻で登場するシーンであるところの夜空を一人見上げたダイのらしさ。両名のキャラクターと非常にマッチしている比喩だと思うのです。

 で、そのダイが夜空を見上げたシーンもいいんですよね。
 延々と一人荒野を走る中、キャンプスペースで空腹を抱えて、焚火の横に寝っ転がって、見上げる満天の星空。
 まずダイは、人差し指と親指でわっかを作り、そこから星空をのぞきこみます。

オレがあの星だとしたら、
今まで知り合った人間とか、これから知り合ってく人間を集めても、多分この丸の中の数くらいだろうな…
(5巻 p70)

 自分の勝手さ。自分の矮小さ。未来の見えなさ。
 不安を抱えて大自然の中にただ一人でいると、ただでさえ育っている孤独が一斉にがのしかかってくるようです。
 でも、ダイはその孤独を飲みこんでつぶやきます。

まあ、いっか。
金もねえ、仲間もいねえ、何もかも置き去りで。――でも、
オレは前に進んでる。それしかないけど、それでいいべ。
アントニオあいつにシリアスすぎるって言われたのは、正直、ちょっと考えなきゃとは思うけど…
あとのことはみんないいべ。みんなを置いてきたけど、許してくれ。オレはこの空の感動も必ず持ち帰るから。
(5巻 p71)

 そう独りごちたあとの、視界いっぱいに広がる星空。ダイの指のわっかとは比べ物にならないくらいに、たくさんの星が彼の目の前にはばらまかれています。
 まるでそれは彼の将来を示すかのよう。
 ダイが生涯で会える人は指のわっかに収まる程度の数かもしれないけれど、彼の音に感動する人はきっと数え切れないくらい、それこそ星の数ほどの人を感動させることを予感させるシーンです。
 ネイビーブルーのダイのように深い夜空と、それを背景に輝く星々。とても象徴的です。

 5巻の後半では、辿りついたアルバカーキでサックスレッスンの代理講師の職を得ました。
 生意気な少年、未亡人、のんだくれのおっさん、まじめな少女。タイプの違う四人へのレッスンでダイは彼や彼女に音楽の楽しさを与えますが、同時にダイもまた彼や彼女から音楽の与えられました。
 ダイの初めてのレッスン。誰かに教えることは自分の理解を深めることにもつながるとはよく言われることですが、どう教えれば生徒が上達できるのか考えるダイにはその言葉が似つかわしく見えました。
 レッスンの休憩時間、生徒である未亡人・キャロルはダイに向かってこう言いました。

アナタはGiver与える人ね。
こんな言葉、聞いたことあるかしら。
If you give all,全てを捧げてる人には、you are given some.何かが与えられる。
アナタにはきっと、何かが与えられるんだわ。
(5巻 p163)

 このキャロルの「全てを捧げてる人」という言葉には、4巻でやったL.A.でのライブで、すべての力を振り絞った結果、演奏終了時にはステージの上で平伏するようにして疲れ果てていたダイの姿が思い出されます。
 スムースジャズが幅を利かせるL.A.の、それもロックのライブハウス。かつてはヨーロッパ最大級のフェスでも演奏したダイが、なんとか集めた20人にも満たないわずかな観客の前で、倒れこむくらいの渾身の演奏をしたその姿は、「全てを捧げる人」にふさわしい。
 そんな彼が与えられるものは何か。きっとそれは、言葉にすれば野暮なもの。少なくとも今はまだ。


 と、今巻も見せ場の多い本作です。
 心を揺さぶられ知らず涙がこぼれるようなエピソードはありませんでしたが、アントニオとの出会いやレッスン生徒の出会いなど、BONUS TRACKも含めてニコニコしちゃう巻でしたね。いとおもしろ。



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『アオアシ』思考の省エネ化と、アシトと北野の俯瞰の目の話

 高校ユース決勝。青森星蘭戦がついに決着を迎えた『アオアシ』27巻。

 最新刊の発売日ですし、激戦の結末をここでは書きませんが、主人公アシトの今までが集約した結果だったとだけ言っておきましょう。

 さて、その上で何を書きたいかというと、27巻にてアディショナルタイムの最中、アシトと青森星蘭の司令塔・北野が、インナーワールドで交わした言葉について。その言葉の中身は、二人が共に持つ俯瞰視点です。

 U-18の合宿中にたまたま見ていたエスペリオンの試合の映像で北野はアシトが俯瞰を持つことに気づき、またアシトも、星蘭vs船橋戦で北野が俯瞰を持つことを悟りました。そんな二人が初めて激突したこの決勝戦でのアディショナルタイム、覚醒したアシトと北野は、上空からすべてを見渡せる鳥の目を持つ者同士の会話を繰り広げました。
 その中で強く印象に残ったのが、北野のこの言葉。

例えば近くの選手は、何も意識しなくたって視える。だって近いんだから。
だから、近くの選手はユニフォームの色とかで、ぼやっと残像だけ残しておいて、
実はその向こうの選手を、透かして見てる・・・・・・・

(27巻 p85)

 これの何が印象に残ったって、前に本作と絡めて書いた、言語化と身体化に通じるものがあったからなのです。
 去年書いた記事(『アオアシ』サッカーとアドリブの、言語化の先の身体化の話 - ポンコツ山田.com)で

考えて、考えて考えて――…
するとな、「いろんなことがいずれ考えなくてもできるようになる。
そうしたら、ようやくそれが自分のものになる」って。

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12巻 p185

 という花の言葉を引用して、ジャズのアドリブは、コード理論やそれに基づいた運指等を何度も繰り返し練習し、身体にしみこませることで、実際に進行していく演奏の中でプレイできる、と述べました。

いわば、すでにまとめてある思考をあらかじめパッケージングしておく、あるいは圧縮しておいて、必要に応じてワンアクションでイメージ全部を解凍し元の形に戻すのです。
その場でいちいち考えない。考えることは既に終わらせておく。そうして、状況に応じて、用意してあったパッケージを呼び覚ます。
これが「頭で考えるより先に、体が、勝手に動き出す」に近いことだと思うのです。

 これは思考の省エネです。
 同時に複数の情報を処理するために、ワンアクションで解凍できる圧縮ファイルを事前にいくつも作っておいて、状況に応じて必要なファイルを解凍する。そうすることで、情報の並行処理の精度を高め、また解凍したファイルの実行も適切に行えるようにするのです。
 アドリブを例に言えば、種々のコードになじむ様々なフレーズをわずかに意識するだけで演奏できるように練習しておいて、実際の演奏中に、コード進行やバッキングの盛り上がり方に応じて適切なフレーズを選んでプレイする。そうすることで、バッキングや自分自身が今まさに演奏している音、演奏した音、これから演奏したら盛り上がりそうな音に意識を配れるのです。

 で、その思考の省エネに通じるのが、まさに北野の言ったこと。
 「意識しなくたって視える」近くの選手は、「ユニフォームの色とかで、ぼやっと残像だけ残してお」く。そうすると、それの認識ために食っている自分の意識の容量を削減できる。それで空いた容量で、「向こうの選手を、透かして見てる」。より多くの情報を並行して処理できるようになります。
 「それができるようになったら、さらに向こう、フィールドの彼方。それこそ敵GKのところまで…透かすようにして見」えるようになるというのが北野の弁ですが、アドリブもそうです。意識しなくたってできるフレーズは、一音一音を意識するのではなく最初の音や音の動きをぼやっとイメージに残しておく。そうすることで、今まさに鳴っている音や、これから鳴るであろう音、さっき鳴った音にまで、より広く意識を延ばせるのです。
 
 練習の目的は極論すれば二つ。
 一つ目は、できないことを意識すればできるようになること。
 二つ目は、意識すればできることを意識しなくてもできるようになること。
 この二つです。
 勉強でもスポーツでも芸術でも、およそあらゆるものに通じる話だと思います。

 言語化とその先の身体化の考え方は、即応的な身体運用の話でとらえていましたが、アシトや北野の持つ俯瞰の目、状況の捉え方にも当てはめられるものなのだと、27巻でのエピソードで気づきました。
 こういう風にものの考えが広がっていくの、楽しいですね。



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『よふかしのうた』人と吸血鬼 夜と昼 別物のようで地続きにある世界の話

 最新刊で吸血鬼vs探偵の話も一区切りの『よふかしのうた』。

 吸血鬼とはどんな存在なのか、その中でもナズナはどんな吸血鬼なのか、というところに踏み込んだエピソードでした。
 吸血鬼を敵と憎む探偵・鶯アンコこと、目代キョウコ。
 ナズナの初めての友達。
 ナズナの初めての眷属候補。
 そんな彼女が激情と冷徹な計算の狭間で襲いくる様に、吸血鬼と人間の深い溝を感じましたが、エピソードがひと段落しての彼女とナズナのコミュニケーションには、そんな溝など本当にあるのだろうかとも思いました。
 
 吸血鬼と人間。捕食者と被捕食者。決して相容れない存在であるように思える両者でありますが、その実そんなことないのではないでしょうか。

 人間と吸血鬼に限りません。本作では、一見まったくの別物に思えるものも、それらは別次元の隔絶したものではなく同次元の地続きにあるもので、それらが現れる地点が互いに遠く離れているからまったくの別物に見えている、というものが多くあります。

大人と子供

 たとえば、大人と子供。
 そもそも10巻で回想されたそのシーンで私はこの考えを思いついたのですが、コウが酔っぱらったキョウコの介抱をしているシーンで、彼女の気を紛らわせようとコウは自分の話をします。

俺、学校ではまあまあ優等生だったんですけど まあ、色々あって嫌んなっちゃって今この有様で

夜、いつもみたいに歩いてたら、学校の先生とばったり会っちゃって

その先生、あんまり好きじゃなかったんです でも、夜に会った先生は、先生じゃないみたいで、お酒も飲んでてすごく話しやすかった

最近、本来なら出会うことなかっただろうなって人と知り合えて 色んな大人がいるんだなって 俺、大人ってもっとはっきり子供とは違う生き物なんだって思ってたんです。

ちゃんと俺達の延長にいるんだなあ。
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(10巻 p139、140)

 このコウの思い出話は4巻第35夜での出来事ですが、このときにコウは、大人も「俺達の延長」にいるんだと気づきました。大人は、子供がある日突然生まれ変わって別の存在になるわけではないのです。

 法律上の成人年齢とか、成人式とか、元服とか、人が社会的に大人とみなされるきっかけはありますが、それはまさに大人と「みなされる」ということ。大人という肩書を与えられることにすぎません。その肩書をつけなければいけない場、たとえば法的な権利の行使や、職業としての立場、まさに教師として生徒の前に立つときなどでは、大人としてふるまいますが、その肩書が必要とされない場では、必ずしも「大人」らしくあるわけではないのです。
 したたか酒を飲んだ夜の帰り道なんて、そこはもう私人の領域。たまさか生徒と会ったからといって、すぐに教師の、大人の肩書を取り戻せるものでもありあせん。むしろ、時には重苦しささえ感じるその肩書を積極的に外したりもします。

先生だってな 夜は先生じゃないんだよ。
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(4巻 p99)

馬鹿言え こんなこと言うの夜だけだよ。
(4巻 p107)

 このように、担任教師とコウは夜の公園で、普段学校でお互いが身に付けている教師と生徒、大人と子供という肩書、あるいは関係性を下ろして、思いもよらない会話を繰り広げました。
 ただ、コウと教師が出会うシチュエーションは多岐に広がりますが、そのすべてで肩書が外れるわけではありません。
 昼間なら。
 夜でもほかの人のいる街中なら。
 教師が酔っぱらっていなかったら。
 状況のグラデーションで、コウと彼の態度はいかように変わったでしょう。
 それゆえの、「一見まったくの別物に思えるものも」「同じ地続きにあるもの」なのです。

吸血鬼/人

 そもそも、この作品の肝の存在である吸血鬼も、人間とは別物のようでありながら、その実近しい存在です。
 たしかに吸血鬼は、歳をとらず、銃で撃たれても死なず、血を吸う、人とはまるで存在の強度が異なる生物ですが、彼や彼女は(真祖とナズナのような例外を除けば)元人間。吸血鬼として活動していくと人間のときの記憶は忘れていくようですが、それは人間としての社会常識や倫理観、あるいは言語を忘れるわけではありません。おそらくエピソード記憶に類するものが消えていくのでしょう。

 吸血鬼は人間よりもはるかに強いですが、人間よりもはるかに少数派。それゆえ、人間を捕食しなければ生きていけなくても、人間全体を支配下に置くことができるわけではなく、むしろ吸血鬼の方が人間社会に紛れ込んで生きています。これができるのも、吸血鬼が人間社会で暮らせるだけの常識や倫理を持ち合わせているから。自分たちは人間とって忌避すべきものであり、それゆえ自分たちの異常な特性を隠さなければいけないと理解しているから。
 生物としての吸血鬼と人間はまるで別物であっても、(互いの同意の上ではなくとも)同じ街で共存できるくらいには、同じ社会的地平に属するものなのです。

 また、人間時代の自分の血を吸うことで記憶を保持しているカブラや、同じ吸血鬼からも異端視されているキクがいるように、吸血鬼の中でも個々の在りように差があります。それは、人間個々人の在りように差があるのと同じことです。
 人間が、人間というカテゴリーの中で広く分布しているように、吸血鬼は吸血鬼というカテゴリーの中で広く分布する。ならば、そのはじっこ同士の差はいかほどのものなのでしょう。

夜/昼

 本作は、学校に行けなくなったコウが夜の世界に足を踏み入れたことから始まりますが、その夜と昼の差も、考えている以上に明確ではありません。
 もちろん日の出日の入りというわかりやすい境目はあります。ですがそれは所詮定義の話。日の出直後の朝はまだ暗く、日の入り直後の夜はほの明るい。朝にもまだ夜は居残り、夜にも昼は浸食しています。

 自然現象の上での明るさだけでなく、人間社会ゆえの明るさや人の流れも、夜と昼で明確に分かれるわけではありません。都会と田舎(これすら地続きの概念んですが)で夜の深さは違いますし、大みそかやお祭り、あるいは大規模なスポーツの大会などの祝祭によっては真夜中にすらその静けさはありません。
 コウが「ここには僕しかいない」と「そんな錯覚」(1巻p12)できるような夜は、いつもそうだとは限らないのです。

 上で、人間と吸血鬼の、カテゴリー同士のはじっこの差と言いましたが、考え方はそれと近しいものです。人間と吸血鬼が生物として明確に違うように、昼と夜も日の出日の入りで明確に線は引けますが、その引いた線のあたりにはぼんやりとしたあいまいな領域が広がっているのです。

恋/友情

 さらに言えば、コウが吸血鬼になるためにナズナに恋をしなければいけないという条件がありますが、この恋とはどのような感情なのでしょう。
 恋愛と友情は同時に成立しないという話は巷間に流布していますし、そうするとその二つは相反的なもののように思えます。現に、コウはナズナに対して強い友情を覚えているようですが、ナズナに血を吸われても吸血鬼になっていない以上、恋をしているわけではないようです。
 しかし、10巻で登場したプルチックの感情の輪。
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感情の一覧 - Wikipedia-Plutchikの感情の輪 作成者:Doomdorm64)
 8種類の基本感情と24種類の応用感情がありますが、この中に「愛」はあっても恋や友情はありません。それはおそらく、恋も友情も、「恋愛」や「友愛」という言葉で表せるように、愛の一形態だからなのではないでしょうか。

 それゆえ、恋愛と友愛で表出した形が別ものであっても、その根源には共に愛があり、それがどこで分かたれたものか、明確に指摘することはできませんし、現に現れているその中にも、恋愛の中に友愛が、あるいはその逆が入っていないとも限らないのです。いえ、共に同じ愛だというのなら、一切入っていないという方がむしろ不自然なのではないでしょうか。
 現に、セリと、彼女の眷属となったメンヘ…あっくんの関係は、元々友達から始まったものでしたが、「友情が恋慕に変わる事は珍しくない」(4巻 p5)というように、感情が変化していきました。

 人が吸血鬼になるためにいかなる恋をしなければいけないのか。なれるものとなれない者がいる以上、そこには明確に違いはあるのでしょう。しかし、その違いがどこにあるのか、外からこれだとはっきり言えるものではないと思うのです。吸血鬼になった後で事後的に、「いろいろなことがあったけど、君はわたしに恋をしたんだね」と、恋愛の情を持ったことが判明するものなのではないでしょうか。

おまとめ

 以上、いろいろと例を挙げてきましたが、普段私たちが別物と認識しているものは、まったく別次元に存在しているというわけではなく、同じ次元の遠い場所に存在しているものだと言えるのでしょう。
 人と吸血鬼は、子供と大人は、恋と友情は、昼と夜は、間の壁を乗り越えるものではなく、知らずの内に変わっていくもの。いつの間にかそうなっているもの。TPOで変わりうるもの。
 世界はソリッドに分かれているように私たちはつい思ってしまいますが、もっとずっとシームレスで、ぼんやりしてて、明確な境界線がありそうでない世界に生きているのです。
 たぶんそれは、敵と味方もそう。普通と異常もそう。
 本作は、夜と昼を、人と吸血鬼を行き来するコウの目で、それを見せられる作品なのかもしれません。



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戦乱渦巻く世界で始めたのは酒場経営!?『異剣戦記ヴェルンディオ』の話

 異剣。
 それは特別な力を秘めた武器。ある剣は巨大な城門を一撃で破壊し、ある剣は持ち主に雷光のごとき速さを与え、またある剣は竜巻を起こして一軍を薙ぎ払う。
 そんな異剣が巷に溢れた、異剣戦争と称される戦乱の時代、傭兵稼業で暮らしていたクレオには夢があった。それは平穏で安定した生活を送ること。マイホームをもち、畑を耕し、家畜を飼い、自給自足の日々を送る、ささやかで、戦乱の世にはあまりにも高望みの夢。
 一度は買ったマイホームも戦乱の中で壊され、途方に暮れていた彼だったが、旅の途中で会った亜人の少女・コハクと共に見つけたのは、荒野にぽつねんと建つ荒れ果てた古城。それを見て閃くクレオ
 ここを拠点に酒場を経営すれば夢がかなうんじゃね?
 こうして戦場の酒場経営が始まった……

 ということで、七尾ナナキ先生の『異剣戦記ヴェルンディオ』です。
 七尾先生の前作『Helck』のアニメ化が先ごろ発表されましたが、現在連載中のこちらも面白いぞというレビューです。

 1巻の帯には「拠点防衛ファンタジー」とありますが、傭兵だった主人公クレオが、たまたま見つけた古城を拠点に、長年の夢だった平穏な暮らしを求めて酒場を経営するのがこの作品。
 クレオには功成り名を遂げようだとか、大金を稼いでぜいたくな暮らしをしようとか、そういう夢はありません。ほしいのは平穏な暮らし。安定した暮らし。
だいそれたものではなくとも、極貧の幼少期を過ごした彼にとってその夢は何よりも欲しているものです。
 傭兵という危険な稼業に身を投じていたのも、学も元手もない彼にはそれが一番手っ取り早かったから。平穏を求めるためにそれと対極にあるような世界に身を投じなければいけないのも皮肉な話ですが、それも戦乱の世の常です。

 戦場から逃げ出した先で古城を見つけたのは全くの偶然ですが、そこの地下に極上のお酒が貯蔵されていたことをヒントに、酒場経営を思いつきました。
 辺鄙なところにある酒場のありがたさは、傭兵時代の経験からクレオ自身が思い知っています。だから、こんなところに酒場があれば、近隣諸国の戦士たちが喜んで寄っていくだろうと。
 畑を耕し、水を引き、酒場を建て、こうしてDIYの酒場経営が始まったのです。

 と、ここまではクレオの物語。この物語にはもう一人、コハクという主人公がいます。
 狐のような大きなケモ耳を持つ亜人の少女・コハク。登場時から一貫して不思議な雰囲気を漂わせて、クレオにつきまといます。出会ったばかりにもかかわらず命さえ救ってくれる彼女にクレオはかえって不信感を抱きますが、コハクは詳しいことは何も言わず、ただ彼を守ろうとするのです。
 いまだに明かされない彼女の目的ですが、ちらほらと垣間見えてはいます。それを一言でいうなら
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(1巻 p72)
 地の果てまで剣が大地に突き刺さった、あまりにも不吉な世界。それをコハクは未来と呼び、クレオにそれを変えてほしいと言うのです。
 この未来はいったいなんなのか。なぜコハクにはそれが見えているのか。クレオがどうすることで未来が変わるのか。それはわかりません。
せいぜい推測できるのは、突き刺さった剣がおそらく異剣なのだろうということくらいです。異剣により猖獗を極めている世界の果てがこのように暗鬱としたなものであるなら、変えたいと思うのは当然でしょう。
 コハクはこのビジョンをクレオには伝えていませんが、彼が生きていれば未来を変えられる可能性があるとして、彼女はクレオを守ろうとするのです。

 こうして、平穏な暮らしを求めるクレオと、未来を変えようとするコハクの、まるですれ違っているようで実は求める先は同じ生活が幕を開けるのでした。

 本作の魅力の一端なんですが、戦乱の世界を描いており、また実際に派手なアクションシーンもありながら、平穏な生活を夢見て地に足をつけて生きているクレオの生きざまが、作品に不思議な安定感を与えて、いい意味でフィクションというか、別世界観というか、安心して読める空気を醸し出しています。感情移入できる面白さとは違うんですが、自分とは関係ない遠い世界を見てる感じなんですよね。それが全然悪くない。
 一緒に酒場をまわす仲間も登場してくるんですが、彼や彼女も確固とした目的があったりなかったりですが、この酒場を盛り立てようという意思があるので、基本的に酒場経営エピソードはまじめで楽しいんです。お酒の場は楽しくてなんぼですからね。
 それでいて派手なアクションシーンや野望に燃える人間模様もあるから、その対比が面白い。3巻時点で物語の重要なところはほとんど明かされていませんが、妙に安心感があるのです。

 第0話(プロローグ)は以下のリンクで読めるのですが、実は以上縷々書いてきたレビュー、この0話のクリティカルなところにはあえて触れていません。ぜひ実際に読んでみて、この続きを気になってみてください。
urasunday.com



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