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漫画の話です。

『転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます』と『チ。』に見る、先人が積み重ねた知への敬意の話

 マガポケで連載している『転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます』。

 長いんで以下『第七王子』と略しますけど、そのタイトルから察されるとおりいかにもなろう小説的な、転生によりチート能力を得た人間が好き勝手する話ではあるんですが、意外、というと失礼でしょうが、『チ。―地球の運動について―』などに見られる、知の積み重ねに対する敬意が作中のそこかしこで表れているのです。 今日はそこらへんを書いていきます。

 まず『第七王子』の内容は、タイトルそのまま。まあ異世界からの転生ではなく、魔術バカの庶民の魔術師が、同じ世界の中のサルーム王国の第七王子・ロイドとして、人間の枠を軽くぶっちぎった魔力をもって転生したものなのですが、その名もない魔術士が前世で息絶える寸前の願いが

あぁ… なんて… なんて…
素晴らしい!!
コレが…全てに恵まれた…貴族の魔術…!! 熱い…痛い…綺麗だ!! 素晴らしい!!
願わくば… もっと… もっと……
学びたかった…極め…たかった…
魔術を…
(1巻 p4,5)

 これ。
 不興を買った貴族の魔術を食らって焼け死にながら思うことが、魔術への称賛であり、学びきれなかったことへの悔恨でした。それくらい魔術バカ。
 そんな彼が、裕福な国の王族、それでいて王位継承には絡まない末席の第七王子として生まれてやることは、ひたすら魔術を学び極めんとすること。

地位も名誉もどうでもいい 前世から俺のスタンスは変わらない…
即ち…この王宮にどれだけ俺をワクワクさせる『魔術』が有るか否か…
俺の興味はそれだけだ…!!
(1巻 p12,13)

 贅をこらした生活に溺れるでなし、酒色に耽るでなし、王位を狙うでなし、ただただ魔術を極めようとする。
 逆に言えば、魔術のためなら、かつて王国を滅ぼしかけたという魔人を封印から解くわ、勝手に王宮を抜け出してマジックアイテムをとりにいくわ、暗殺者ギルドに忍び込むわ、魔人のさらに上位存在である魔族に喧嘩売るわ、次元の壁を突き抜けて天界に行くわと、やりたい放題です。
 
 そんな魔術バカのロイドですが、魔術バカであるだけに、先人の築き上げてきた知や技術の集積としての魔術に、最大限の敬意を払っています。

人は弱い…不自由と共に生きてきた だから何処までも積み上げてきた…魔術もそう…
空が飛びたい 火を出したい ……一つ一つ込められた術式には人の夢が根幹にある
故に無限だ 魔術は無限に面白い……!!
(4巻 p140)

 人は弱く、不自由で、有限の存在である。だから「ああしたい」「こうなりたい」という夢を形にしようと魔術を組み上げ、それをまた次の人間にバトンタッチし、その人間が魔術を洗練したり、改良したり、新たな術式を組み上げたりする。人間が弱く不自由である限り、その歩みが止まることはなく、それゆえに魔術は無限に広がっていくのだと。
 この点は、生まれながらにして強大な力を持つ魔族と対比的に言及されています。

獅子は牙と爪を用いる事に疑問を持たない… 不自由を感じた事がないからだ… だから単調でつまらない
お前の技はどれもそれだ… 大層お強く生まれたようだが…それだけだ
(4巻 p139)

 人間を軽く超える魔力を持つ魔人をはるかに凌駕する魔力を持つ魔族・ギザルムを相手に、ロイドが言い放った言葉です。
 「大層お強く生まれた」魔族や魔人は「不自由を感じた事がない」がゆえに、自らの持つ強さに注意を払わず、同様に他者の強さにも敬意を払いません。
 魔獣の親を殺して子を洗脳して操った魔人や、技術を研鑽した人間の身体を乗っ取りその能力を我が物のように使った魔人がいましたが、そこにはその対象に対する敬意は一片もありませんでした。

 人間の組んだ魔術。人間の磨き上げた剣術。人間の練り上げた気術。
 これらはただ一人の人間によってなしえるものではありません。多くの人間が少しずつ少しずつ、増やしては削りを繰り返しながら一つの体系として完成度を上げていくのです。

 この人間と魔族(魔人)、すなわち、弱いがゆえに積み重ねる者と、強いがゆえにただそのままである者の対比の象徴は、ギザルム戦のロイドの勝因でしょう。
 ギザルムに能力を乗っ取られた暗殺者ギルドのボス・ジェイドが、それまでコントロールできなかった自身の能力を、この後自分の能力を乗っ取るであろうギザルムと戦う誰かのために、術式として「丁寧で読む者に優しく」「綺麗に整頓」しておいたことが、ロイドがギザルムを倒す決定的な要因となったのです。

最後の瞬間……ジェイドは影狼の術式化を完全に終えていたんだ
そして託した いずれ戦う事になるであろう誰かに…… 必ず難所になるであろう影狼の攻略法を
(5巻 p33)

 次の誰かに託す。知をつなげる。
 人間の、人間ゆえの能力で、ロイド(とジェイド)はギザルムに勝利したのです。

 知の集積。他者へ伝えるための体系化。
 これは、拙ブログで『チ。』について書いたときにも登場した考えです。

こうして、社会的に許されないその考えは、背教者一人の妄想に終わらず、石箱の中で時代を越えて生き延びているのです。
ここで大事なのは、正しい考えすなわち地動説が絶やされなかったことではありません。誰かの考えが次の誰かへとバトンタッチされたこと、それ自体なのです。
(中略)
過ちがいけないのではない。不正解がいけないのではない。知の積み重ねを、知の歩みを止めることこそが、いけないことなのだ。
『チ。―地球の運動について―』積み重なる知の価値の話 - ポンコツ山田.com

世界にはあらゆる情報が転がっています。むしろ、情報で構成されていると言ってもいいくらいです。
(中略)
で、その情報同士に関連性を見つける。「無関係な情報と情報の間に関りを見つけ出」すことで、「使える知識に変える」。そこに「知性が宿る」。
つまり「知性」とは、情報を何らかの関係性で結びつけて知識にすること。いいかえれば、個々の情報を一つの体系(=知識)にまとめること。
『チ。ー地球の運動についてー』「情報」と「知識」と「知恵」と「知性」の話 - ポンコツ山田.com

 こんな具合ですね。

 C教が覇権を握り、地球が宇宙の中心であるという考えに異論をはさむことが許されていない時代に、それでも地球が動いていることを証明し続ける人たちの物語である『チ。』は、まさに知の集積と体系化の物語です。それを研究していることを迂闊に漏らせば比喩でなく命を落とす時代に、地動説を証明するだけの証拠や理論を一人で集めることは不可能と言っていいでしょう。過去から細々と、しかし連綿と途切れることなくつながり続けてきた知の集積が、大きなうねりとなって多くの人々の意識を変革する知の体系となるのです。

 もしロイドが中世世界に転生し、地動説というものに触れていたらどうでしょうか。魔術のように世界の見方を一変させるその考えに、過去にそれを考え付いた名もなき人々に敬意を払い、それを証明しようと己の命を賭けていたのではないでしょうか。
 それほど、ロイドの知に対する敬意は、『チ。』に登場する主要人物たちと相性がいいように思います。


 よく言えば求道的、悪く言えばゴーイングマイウェイなロイドを中心に、ある意味ではテンプレ的なキャラ設定ながらも、その設定の上で自身の欲望をちゃんと見せて動く各キャラクター、コミカライズの石沢先生の手による派手できらびやかな戦闘シーン(マガポケではしばしばカラーで掲載されてます)など、かなりの面白さを誇る『第七王子』ですが、まったく別ベクトルにありそうな『チ。』とつながってくると言うのは面白いですね。
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香りの表現と、ボキャブラリーと、言葉と感覚の結び付け方の話

 先日の記事で、味覚の言語化についての話をしました。
yamada10-07.hateblo.jp
 その中で

与える言葉は、特殊な語彙である必要はありません。凡百の言葉でいいのです。大事なのは、その言葉が自分の感じたものにフィットしているか、それだけでうまくフィットしなかったら他の言葉も組み合わせてフィットさせられるかです。

 と書きましたけど、味覚にしろ、あるいは他の感覚にしろ、言語化をしようと思っても、そもそもそれを表せる(うまくフィットする)語彙が手持ちにないと、言語化できないんですよね。
 「凡百の言葉でいい」と言っても、「うまくフィットしなかったら他の言葉も組み合わせてフィットさせ」ればいいと言っても、手持ちの語彙ではどうしても感覚にフィットしないことはしばしばあります。曲線のパズルに、直線で構成されたピースだけではどうしてもフィットしないみたいに。

 最近、自分を香水の沼に引きずり込もうとしてくる友人から香水のサンプルを7つ送りつけられまして、それを一通り試したんです。
 トップノートはどれがいいとか、これはラストノートでちょっときつくなるとか、いろいろ感想は浮かぶんですが、困ったことに、香りを表現する私の語彙が非常に貧弱で、いい悪いは言えても、どういう匂いでよくて、どういう匂いでよくない、という具体的な表現、香りへのラベリングができないんです。
 友人も、各香水の熱のこもった説明文を送り付けてくれて、それにはミント、シトラス、ライスパウダー、ブラックティー、高木を焚いている教会、ガイアックウッディ、ノーブルオーキッドすなわち春蘭などなど、知っていれば、あるいは慣れてくればピンとくる香りの表現が縷々並んでいるんですが、あいにくと私にはまだそれがわからない。
 ライスパウダーだの、ノーブルオーキッドいわゆる春蘭だの、そもそもなじみのない表現もあれば、ミントやシトラスといった多少なりともなじみのある表現でさえ「そんな香りだっけ……?」と首をかしげてしまう。言葉に私の感じた感覚がフィットしない。
 
 だもんだから、一通り試してじゃああれはどうだったかこれはどうだったかと思い出そうとしても、ぼんやりした印象で思い出すしかないんです。まさに「自分の感覚や感情に言葉を与えないと、記憶の引き出しに放り込んでいるうちに、他の似たようなものとごっちゃになっちゃう」状態。

 これを解決しようとするには、思うに二つ。
 一つは、自分の感じたこの感覚に、友人の熱い説明文にある表現をとにかく結び付けること。現時点で納得いっていなくても、何度かつけて、何度か自分に言い聞かせるうちに、それがちゃんと結びつくことを期待する。
 ただこれは、いつまでたっても結びつかない危険性はあります。ブラックティーを飲んでブラックティーの香りを認識したり、香木の焚かれた教会に行ってこれがその匂いと認識したりなど、嗅覚以外の味覚や聴覚などといった感覚を同時に働かせることで、記憶の結びつきは強固になりますが、嗅覚だけに抽出された香水だけでもって嗅覚の記憶とするのは、なかなか難易度が高いのです。
 受験勉強で英単語などを覚えるのも、ただひたすら書くのではなく、自分で読みあげたりリスニングで聞いたりなど、複数の経路で記憶に結び付けようとすることで定着しやすくなるというのがあります。
 複数の経路による記憶の定着。あるいは体験としてのパッケージングと言ってもいいかもしれません。思い出が、単一の感覚ではなく、身体の総合的な記憶であるように、視覚聴覚嗅覚触覚味覚、複数の五感が関わっていると、記憶の定着は捗ります。

 二つ目は、その感覚にフィットする言葉を自力で見つけること。過去の記憶からなんとか持ってくるか、新たに体験したときにそれを流用するかです。
 しかしこれも、いつまで経ってもフィットする言葉が見つからないリスクがあります。香木の焚かれた教会、そうそう行きませんからね。もちろん、まったく別の体験から、まったく別種の言葉をフィットするものとして見つける可能性はありますが、それは偶然に頼るもの。確実性は薄いと言わざるを得ません。
 
 改めて考えると、感覚に言葉を与えると言うのは、五感のどれであれ、難易度の高いものです。
 きれいな絵。明るい風景。真っ赤な花。甲高い音。不快な不協和音。ゆったりしたメロディ。
 通り一遍な表現ならまだしも、より具体的な、より感覚に即した言葉にするには、結局のところ、もっと多くの言葉をくっつける必要がありますし、多すぎれば多すぎるで、ごちゃごちゃしすぎてわかりづらい。塩梅が難しいです。

 漫画の感想もそうですよね。ただ面白いと言うだけなら簡単ですが、どこがどう面白かったか、というところを丁寧に言葉にしようと思うと、途端に難しくなる。揺さぶられた自分の感情と、その感情を冷徹に分析する目、それが同居してなきゃいけないんですから。私自身が熱情のままに何か書けるほど文才のある人間ではないので、どうしてもいったん冷静になったうえで、さっきまで昂っていた自分の感情を思い返して見つめなきゃいけない。そのうえで、しっくりくる言葉を見つける。
 かれこれ十何年もそんなことをやってるのに、なかなかうまくなる感じはしませんが、まあぼちぼちと続けていきたいものです。



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クラフトビールと、『琥珀の夢で酔いましょう』と、感覚の言語化による体験の区別の話

 今年の年始の目標に、ダイエットもかねて「雑なカロリーをとらない」を掲げまして、手始めに晩酌の回数を、週に2,3回だったのを1回に減らしました。
 私の晩酌は基本、TAKARAの100円の缶チューハイでつまみもスナック菓子と、いかにも雑なカロリー。その回数を減らして摂取カロリーを削減しつつ、浮いたお金で雑じゃないカロリーをとるべく、クラフトビールを飲んでみることにしました。前々から興味はありつつも、お店で飲むと普通のビールよりお高くなるので敬遠してしまっていたのですが、家で週一回飲むのならささやかな贅沢ってことでいいだろうと。

 今日時点でかれこれ5種類飲んでいるのですが、味わいが普段飲んでいるアサヒやサントリーのビールとだいぶ違います。普段口にするそれらのビールは、ラガーというカテゴリー*1の中のピルスナーという種類(スタイル)。キリっとしてのど越し爽やか、夏場にキンキンに冷やして飲むと最高なやつですが、そうではないスタイルのビールもたくさんあるのです。

 飲んだやつで言うと、「雷電 閂」(エチゴビール(株))と「LUCKY DOG」(黄桜(株))が、ホップが効いて香りの強いIPA(India Pale Ale)。
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 「LUCKY CAT」(黄桜(株))が、苦み少なく華やかな香りのホワイトエール。
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 「SORACHI1984」(サッポロビール(株))が、ラガーにも似た爽快感とエールの華やかさを持つゴールデンエール。
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 「BAEREN BEER/THE DAY」(ベアレン醸造所)が、赤い色が特徴の甘みのあるレッドラガー。
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 もちろん、同じIPAの雷電とLUCKY DOGでも味わいが違うので、いろいろ楽しめます。


 さて、ここからが本題なんですが、クラフトビールを飲み比べてみるのはいいものの、その味わいが多岐に広がっているため、なかなか特徴をつかまえづらいのです。
 いや、なにもわからないんじゃないんですよ。これは飲み口が甘いなとか、香りが華やかだなとか、苦みが強いけどすぐに引くなとか、言えるは言えるんですけど、どうにもふわっとしてしまう。
 そんなことを思っていたところに、クラフトビールに興味が出たこともあって買ったこの本。

 まさにクラフトビールをテーマにした作品なんですが、その2巻でペアリング(お酒と食べ物の組み合わせ)を試しているときに、三人の主人公の一人・七菜がこんなセリフを言っています。

「二人はいつもビールと料理 どうやって合わせゆう?」
「「なんとなく」」
「うーん野性」
「じゃあいつもの状況を再現して それを言語化してみようよ」
(2巻 p10)

 言語化。「なんとなく」でやっていたペアリングに、きちんと言葉を与えてみようというのです。
 普段やらないことに困惑していた主人公の一人、写真家の鉄雄ですが、なにはともあれと「瑠璃」(コエドブルワリー)を飲むと、まず出てきた言葉が「お! うま」。野生の感想ですね。ただ、それじゃあ話が進まないので、七菜から言語化してみろとせっつかれて、

えーと 色はクリアな金色 ホップの香りが瑞々しい
爽やかな苦みと後味の軽やかさ 個性派揃いのクラフトビールの中でも飲みやすいと思う
特に大手ビールに飲みなれた人には
(2巻 p12)

 自分の感じた印象にきちんと言葉を与えています。

 七菜から言われてやった言語化ですが、これってとても意味のあることだと思うんですよ。
 人間て不思議なもので、自分の感覚や感情に言葉を与えないと、記憶の引き出しに放り込んでいるうちに、他の似たようなものとごっちゃになっちゃうものです。ある異なる体験から異なる印象を持っても、その印象を表す言葉がおなじ「すげえ」や「パねえ」だと、「すげえ体験」「パねえ体験」でくくってしまう。その時感じた面白さや驚き、悲しさや怒りなど、微妙に異なるグラデーションがあるはずのものが、「すげえ」「パねえ」で塗りつぶされてしまう。
 そうしないためには、どこがどう面白かったか、他のどんなものと似ていたか、通じるところがあるか、それを感じとってどのようなことを考えたか、そんなことに、できる限りの言葉を与える必要があるのです。
 与える言葉は、特殊な語彙である必要はありません。凡百の言葉でいいのです。大事なのは、その言葉が自分の感じたものにフィットしているか、それだけでうまくフィットしなかったら他の言葉も組み合わせてフィットさせられるかです。
 こうすることで、自分の得た体験が、自分の中で、他と区別可能な特別の体験となるのです。
 実際、ある程度言葉を与えて区別しないと、本当に難しいんですよね、味覚の差別化って。

 また、そうすることで、他にもメリットがあります。
 瑠璃の言語化をした鉄雄は、飲み屋の主人にして最後の主人公・隆一から、そのビールにはどのおばんざいが合うと思うと問われ、蒸し鶏梅肉大葉和えを選ぶのですが、その理由はと重ねて問われると、こう答えました。

ホップってある種の薬味やん? 大葉も梅肉も薬味やし
あと『瑠璃』は香りも味も爽やかやし この中なら蒸し鶏かなと
(2巻 p14)

 鉄雄は瑠璃の特徴としてホップの香りやさわやかさを挙げていましたが、それを意識したからこそ、合いそうな蒸し鶏を選んだし。言葉にできたからこそそれを他人とも共有できました。

 言葉は自分一人で使うものでなく、同じ言語を使う人と共有できるものです。感情や感覚、体験は、究極的に個人にしか属せないものですが、それを言葉にすることで、他者と共有するチャンスが生まれます。感覚などをまったく同じように共有することは原理的に不可能ですが、それでも言葉にすれば、他者もそれを理解するよすがになるのです。
 この回では、他の二人もそれぞれにビールの味わいの言語化を行い、自分の思う今日のベストのペアリングを出しました。飲み屋の店主である隆一は、お店で紹介できるようにと試験的に二人をペアリングに誘ったのですが、七菜の提案で意識的に言語化したことで、勧めたペアリングをお客さんに説明するときにも、とても便利になるのです。
 
 また、この回では鉄雄が撮った写真のパネルが登場するのですが、隆一はそれを欲しがりました。料理とは関係のないビーチの写真でしたので、なんでそれがいいのかと鉄雄が聞くと

ん~~ なんちゅうかこの写真
ナマぽくてえい
こないだの取材ンとき思ったがって
お客さんはうまい!! ちゅうナマの衝動を求めてるんやなって
(2巻 p27)

 これもまた、自分の感覚の言語化です。味覚ではなく、視覚から得た印象の言語化
 鉄雄の写真を見て、美しいとも、独特とも、感動したとも表現できますが、そのようななんにでも使えそうな表現ではなく、「ナマぽくて」というのは、隆一がこの写真にはこの言葉がふさわしいと思い与えた言葉。自分が出す料理をお客さんが美味しいと思った瞬間を「ナマの衝動」と表現し、とてもよいものと捉えている彼は、鉄雄の写真にも同じものを感じました。その言葉を与えたことで、鉄雄の写真に対する評価と、お客さんが美味しいものを食べた瞬間の評価を、同じ言葉で表せるものとして結び付けることができたのです。感覚に貼り付けた「ナマ」というラベルが、自分の異なる感覚どうしにバイパスをつなげたのです。
 また、同時にこの言語化は、隆一は「この写真を『ナマっぽくていい』と評価する人間」という、彼自身のラベリングにもなります。言葉遣いは、その人自身を推し量る目安にもなりますから、通り一遍ではない言葉で評価をする対象は、その人にとって、特別なものだと言えるでしょう。
 
 味を言葉で表すのは難しいですけど、うまく似つかわしい言葉を見つけられるとちょっとうれしいんですよね。 
 まだしばらくはクラフトビールのマイブームは続きそうですから、できる限り言葉を考えて、楽しんでいけたらいいなと思っています。



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*1:発酵の仕方で、大きくエールとラガーに分けられます。発酵していくと酵母が上に浮かんでいく(上面発酵)のがエール、下に沈んでいく(下面発酵)のがラガーです。あと、その二つとは別枠で、野生の酵母を取り込んで発酵させるランビックというものもあります。

対立者を敵と呼ぶ現代世界と、『チ。』に見る相容れないものと歩む世界の話

 最近知った思想家で倉本圭造という方がいまして。
finders.me
 同氏を知ったのはこのネット記事でなんですが、『新聞記者』を見ていない私でも、その論旨には感じ入るところ多く、同サイト掲載の執筆記事も一通り読みました。
 経営コンサルタントであり経済思想家という方で、アメリカの大手コンサル・マッキンゼーに就職したものの、その理念と現実に矛盾を感じ数年で退職、ブラック企業や肉体労働、ホストクラブやカルト宗教団体などにも潜入して現場や末端レベルでのフィールドワークを展開し、船井総研を経て独立、会社規模のコンサルとあわせて、個人でも文通のような形でコンサル業をやっているそうです。
 
 で、そんな氏が種々の文章で繰り返し言っているのは、不毛な極論の対立はやめて、お互いをリスペクトしたうえで改善していこうぜ、ということ。
 敵を絶対悪、自分を絶対善と規定し、自分は正しいんだから相手は完膚なきまで滅ぼしてもいいと考えるのはやめようぜ、ということ。
 欧米、なかんずくアメリカ式の、一部のエリートによるインテリジェンスこそ正しく、それが理解できない奴は愚鈍な間抜けと考えて断絶を作るやり方はやめようぜということ。
 
 これだけ見るとただの穏健派で、極右極左の思想が先鋭化している人たちからは日和見主義者とかそんなんじゃ社会は変わらないとか突き上げられそうなスタンスですが、氏が何度となく強調しているのは、こうありたいこうあるべしという理念は大事だけれど、それを社会に実現していくためには、現場で問題に対応している人間の知見を吸い上げて分析し、それをまた現場にフィードバックさせる必要があり、また、その「正しい」理念に反対する人にも、反対するだけの(
(少なくともその人たちにとっては)合理的な理由があるのだから、その反対の理由を丁寧に解きほぐし、きちんとお互いの落としどころを探っていくべきだ、ということです。
 敵を敵のままにするのではなく、というか敵とみなすのではなく、同じ社会に生きる人間(集団)として敬意を払い、社会の同じ構成員としてともに問題点を改善していこうというのですな。

 氏の一連の文章を読んで、なんかそんな文章を自分でも書いたような気がしたのですが、それは年初に書いた次の記事でした。
yamada10-07.hateblo.jp

思うに彼の言う対話とは、「自らと相手の間で前提を共有し、妥協点を見つけること」なのでしょう。
一般的には「交渉」という言葉の方が近しいニュアンスでしょうが、この「対話」の目的は、非身内・非仲間・非同士、要は目的を共有できていない相手との間で、なんらかの落としどころを見つけて、そこまでについては争わないようにする、ということです。

 妥協点。
 落としどころ。
 それは「不毛な極論の対立はやめて、お互いをリスペクトしたうえで改善してい」こうということです。
 『チ。』の場合は、時限的な共同戦線を張るために行われた対話ですが、相手の言っていることを、受け入れられずとも理解しようとし、譲れるところ譲れないところの線引きをして、その線までは共に歩もうとしています。
 リンク先の記事でも書いたように、C教は異端審問という形で、自分たちが正統としたもの以外の信仰を排斥しています。それは「敵を絶対悪、自分を絶対善と規定し、自分は正しいんだから相手は完膚なきまで滅ぼしてもいいと考え」ているのです。氏が危惧している、世界の各地で起こっている暴走したイデオロギーそのものです。
 たとえばこの記事。
finders.me
 2020年の秋頃に発表されたナイキのCMを基に、ナイキの打ち出した反人種主義的な主張に諸手を挙げて賛同し、賛同しない人に対しては嘲笑する人たち(その人たちが、ナイキのCMの裏側にある、それをタネにした金儲けの思惑に自覚的かどうかはさておき)の態度は、決して人種差別の解決を進めないだろうと氏は言っています。

「こういうCMを絶対やってはダメだ」って言いたいわけじゃなくて、問題提起として大事だとは思うけど、「反感を持つ層」だって当然出てくる課題だし、そういう人を徹底的に嘲笑するような仕草は、「善なること」につながるとは到底思えない、むしろ非常に醜悪な商業主義と言っても過言ではないと私は考えています。
(賛否両論ナイキCM「反対派は差別主義者」で片付けていいのか。思想が違う人を「ヒトラーだ!」と悪魔扱いするのはもう止めよう【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(9))

 相手の言うことに従えじゃないんです。言うべきことは言うべきなんです。でも、それには合目的的な言い方があるし、敵を敵のままにしておくような物言いは、物事を良い方に進めないんです。

 「対話」をしたドゥラカとシュミットは、言いたいことを言っています。受け入れられないことは受け入れられないと明言しています。そのうえで、今は手を組むことでお互いの目的に近づけるということで、呉越同舟と相なっているのです。
 最終的に二人(というかドゥラカと異端解放戦線)の関係がどうなるか、6巻までしか読んでいない私にはわかりません。本誌では最終回も近いようですが、ひょっとすれば必要な情報を得られた異端解放戦線によって、彼女は殺される(殺されている)かもしれません。時代や法や社会を考えればその可能性もなくはないですが、C教との対比という点で考えれば、そうはならないんじゃないかと予想しています。
 両者は「本の出版」という目的で歩みを共にしていますが、ドゥラカは事業としての出版による金儲け、異端解放戦線は出版により情報を解放し人々の理性を磨くことと、出版の先で得ようとするものが違います。究極的なところで神の存在の有無という相容れなさを抱えている両者、特に異端解放戦線が、神を信じないドゥラカを、神を信じないという理由で排除するのか。
 それが否であると言えるのは、そうしないのが理性だからです。相手を尊重するということだからです。
 もちろん『チ。』の舞台は現在より何百年も前ではありますが、C教という非寛容で強固な社会の枠組みと、地球を動かそうとしてきた人々を対比的に描いてきた作品ですから、現代世界にも通じるようななにかが見られるのではないかと期待しています。



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何もなくても楽しいはあるよ『とくにある日々』の話

 中学とか高校生の時って、意外と不自由だったと思うんですよ。
 まず、基本的に勉強しなきゃだから一日の半分は教室の中に拘束される。机の前に向かわされる。
 狭い教室に何十人と人がいて、入れ替わりが少ない。人間関係がどうしても濃密になる。友人ができるとも限らないし、その友人が本当に友人として付き合い続けられるかもわからない。
 部活や行事があるから、授業以外でもなにがしかやらなければいけない。自分の興味のない分野の行事でも、原則強制参加。
 楽しいことならいいですけど、そうじゃないことの方が多いと思うんですよね、やっぱり。朝起きて「やった今日も学校だ!」って人はあんまいないんじゃないでしょうか。
 
 そんな日々があったからなのか、楽しげな学生生活を描いた作品には心惹かれます。リアリティに濃淡あれど、学生だからできる、学生だから許されるような振る舞いで騒いでいる姿、いいですよね。
 『とくにある日々』もそんな姿を描いたコメディです。高校1年の高島黄緑・通称きみと、椎木しい・通称しい、そしてその他のクラスメートや先輩、先生たちが、学校という枠組みの中でなおフリーダムに日々を楽しんでいるのです。

 若さには過剰があります。過剰な体力。過剰な想像力。少しの空き時間でも楽しめる過剰な濃密さ。
 とかく持て余しがちな過剰さですが、なにかの拍子にそれが爆発して、面白いことを見つけ出す。面白いことを考え出す。面白いことをし始める。
 自由を求めてフリーダムな靴下をはいたり、大人のマジ土下座を見てドキドキが止まらなかったり、団地くらい大きくなった自分に数字が刻印されているのを想像したり、新しい10回クイズを考案したり、目的のない部活で目的なく面白いことを探したり。
 特に何もない日々でも、持て余したものがちょいとどこかへ向けば、なにかが楽しいとくにある日々に様変わり。毎日が楽しいですね。

 きみとしいの二人は、基本的に思ったことは口に出していて、内心が書かれることはほとんどないんですが、そのためかすごくあっけらかんとした関係に映ります。
 これやったらいいんじゃないって思ったらすぐに行動するし、これ言った方がいいんじゃないって思ったことはすぐ口に出す。それが楽しい。楽しいから一緒にいる。とっても気楽。まるで子犬同士のような純粋さ。くどくどしくない空気がよいのです。

 くすっと笑ってにやっと笑ってほっと一息ついて。そんなゆるくてなんだか風通しのいい作品なのです。
viewer.heros-web.com



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『ワンダンス』『ブルーピリオド』『メダリスト』言葉を与えられた感覚とその影響力の強さの話

 『ワンダンス』。『ブルーピリオド』。『メダリスト』。
 ダンス、絵画、フィギュアスケートと、どれも芸術(表現)をテーマにした、私の好きな漫画ですが、これらの作品には共通点があります。それは、感覚の言語化に強く意識的である点です。

 何かを見て、聴いて、どう感じるか。
 ある動きをするときに何をイメージするか。
 動きのイメージを伝えるために、どのような表現をすればいいか。
 目標を明確にするために、どのような言葉にすればいいか。

 私たちは日々言葉をしゃべり、聞き、書き、様々な形で触れていますが、その日常的な意識ではなかなかうまく形にできないのが、このような感覚的な部分に属する事柄です。
 形あるもの、理屈になっているもの、他者と共有できているものは、言葉によって説明することが比較的容易ですが、そうでないもの、すなわち、形のないもの、理屈にしがたいもの、他者との共有ができていないものは、それに言葉を与えて自分だけでなく他者にもわかるようにするのが、とても難しいのです。

 喜怒哀楽では分別しきれない感情。
 「おいしい」や「痛い」や「美しい」などの一般的な言葉では機微を説明しきれない情動。
 ある動作をスムーズにするために自分の中で浮かべているイメージ。

 これらはすべて、極めて主観的なものです。それらが発生するきっかけは外部からでも、生起するのは自身の内部であり、他者には捉えられないままに存在します。
 他者に観測できないものを、他者が理解できるよう言葉を与える。その難しさを身近な例で言えば、食レポなんかがそうですよね。
 
 ある料理を食べて、その味、香り、見た目、食感など、自分の中に生まれた複合的な感覚を言葉にして誰かに伝えるのは、テレビ番組などでもよく見られるものですが、それが真にわかりやすいこと、食べた人間の感覚が伝わってくることは決して多くありません。食べた時のリアクションや編集などの映像の力で番組としては成立させるかもしれませんが、表現された言葉だけをとりだせば、空疎なものばかりであることに気づくでしょう。
 それだけ難しいものですし、自分でやってみようと思えばその難しさも実感できます。「おいしい」以上の言葉をみつけて伝えようとするのって、本当に難しいんです。

 で、上に挙げた三作品は、それらがうまい。少なくとも、自分の心や体の中でしか発生していない感覚をなんとか他の人にも伝えようとしているのが、よくわかります。
 たとえば『ワンダンス』では、主人公のカボがワンダから裏のビートの取り方のコツを聞かれたときに、こう答えています。

…お… …俺
じ 自分の中でだけど… リズムをバスケボールとしてイメージしてて…
相手のドリブルが床につくのを表のビートとして捉えて…
跳ね返る中間でスティールする感覚が
部長の言う「&から入る」って感覚に近いなと思って…
(ワンダンス 1巻 p139,140)

 盆踊りの表拍リズム(「ドドンがドン」のあの太鼓のリズム))がDNAレベルで染みついている農耕民族の日本人は、HIPHOPなどの裏のビートに馴染みづらい、とはよく言われることですが、裏のビートにノるための捉え方として部長のオンちゃんが言ったのは、「ワン・トゥー・スリー・フォー」ではなく「ワン&トゥー&スリー&フォー&」の「&」の感覚を意識しろ、ということ。
 ワンやトゥーが表拍で、&が裏拍。要はビートを細かく分割して感じろってことで、その意味でこのオンちゃんの説明も裏拍の取り方の言語化ではあるんですが、それをさらにカボは、バスケボールという形で自分なりにイメージして、自分の中に浮かんだそのイメージをさらに自分の言葉にしてワンダに伝えているんです。
 バスケボールという明確なイメージがあることで、カボは裏のビートの取り方が向上したわけです。

 また、自分の動きがダサい気がするどうやったらかっこいいダンスになるのか、と他の部員から問われた次期部長の伊折は、こう答えました。

…手足で踊ろうとするからじゃない? バタバタして見えちゃうのは
…手足って体の末端なわけで 力が伝わるのは一番後なわけ
まず動くのは「体幹」 首と胸と腰
たとえば船の上でバランスとかとる時とか 何か避ける時 転びそうな時とか 考えなくても自然に手足動くっしょ
これはまず体幹ありきで ちょっと遅れて手足の位置が動く それの連続がダンスになるって感じ
自然なシルエットがカッコイイ 手足から動かすと不自然な形になる
(ワンダンス 4巻 p118~120)

 どうしたらかっこよくなるのか。めちゃくちゃ難しい質問です。どういうものがかっこいいのかという明確なイメージがないと答えようがありません。
 それを伊折は、「体幹」と末端をキーワードに説明をし、それが質問してきた部員(や近くで聞いていたカボ)にとてもわかりやすく染み入っていました。
 動きがバタバタしてしまうと悩んでいた部員たちには、それまで「体幹」や「手足は末端」という体のイメージがなかったのですが、その考え方をインストールして自分の動きを思い返すと、思い当たる節があったのです。なので彼女らは「なんか普通にタメになったんだけど」と感心していました。
 このように、感覚をうまく説明できている言葉は、それを聞いた他人にも同種の感覚、元々その人間にはなかった感覚を惹起するのです。


 『ブルーピリオド』では、「自分の好き」を知ろうとした八虎が、世田介と橋田と連れ立って美術館に行ったときに、名画の良さがわからない、美術館をどう楽しめばいいのかわからないと悩んでいると、橋田がこう言いました。

僕ねえ 芸術って”食べれへん食べ物”やと思うねん
スキ キライがんのは当たり前や 値段の高い料理が口に合うとは限らんし 逆に最初はそれほどでも産地や製法聞いてオイシイと思うこともある
テーブルマナーは大事やけど縛られすぎるのは変やなあ
興味がなくてもレビューサイトで話題やったら気になるし 世間的に一銭の価値がなくても大事な人が作ったもんなら宝物やろ
(ブルーピリオド 2巻 p72,73)

 この橋田の言葉は、名画や美術館という存在に気後れしていた八虎の肩の荷を下ろしてくれたようで、「買いつけごっこはどうや?」という鑑賞のアドバイスももらった八虎は、「「よくわかんない」で止まってた思考が ちょっと動き出した」と、自身の感受性が開かれたことを実感しました。
 世界をどう認識していいかわからないときも、他人の具体的な認識の仕方を教えられることで、物の見え方考え方が変わるのです。
 
 また、感覚を言語化した言葉は、それ自体が巧みに、適切に表されていても、その意味するところが必ずしもすぐにわかるわけではありません。しばらく時間をおいた後に、なにかの拍子で実感することもあります。
 たとえば、予備校講師の大葉は、絵画の構図について八虎にこう説明します。

すべての名画はね 構図がいいの
いい構図は
①大きな流れがある
②テーマに適している
③主役に目がいく
④四隅まで目がいく
(ブルーピリオド 2巻 p111,112)

 大葉はこの後に各項目の具体的な説明をし、まとめとして「模写しましょ」と八虎へ提案しました。「模写はただ真似するのとは違う 心を動かしながら模写すればいろんなことがわかるよ!」と。
 その後、橋田とも構図について話をした八虎は、実際に構図を意識しながら、絵の作者の意図をつかもうとしながら、すなわち「心を動かしながら」模写をしたことで、大葉が言っていた言葉の意味を実感しました。
 主役とそれ以外で配される反対色。主役以外のものによって四隅まで誘導される視線。たしかに、大葉の説明したとおり、構図には意味があったのです。
 大葉から説明されたときにある程度実感しながらも、自ら「心を動かしながら模写」したことで、時間差でより深く実感したのです。


 この、実感の時間差という点は、『メダリスト』でも見られます。
 スケートクラブに入れるよう、母親の前でいのりにコーチをする司が、コーチを受けながらも転んでしまって気落ちするいのりにこう言いました。

スケーティングは一日やそこらでものにはならない
美しい姿勢のまま一番スピードの出る自分だけの重心の一点を探して
何度も練習を重ねてずっと磨き続けていくものなんだ
(メダリスト 1巻 p49)

 この言葉は当初、いのりには、継続することの大事さ、簡単には上達しない忍耐の必要さとして染み入りました。
 それからしばらく経って、1級の大会の本番中、偶然できたスピードの乗ったスケーティングをもう一度やろうといのりが試行錯誤し、なんとか再現できたとき、今までの経験と、司の言葉がフラッシュバックしてきました。

(立ち止まらずに前に進む為には強い押し出しは必要ない 正しい位置に体重を乗せ続けることがポイントだ)
そうだ… 初めてバックができた時も バッジテストのハーフサークルができた時も…
それだけで氷とブレードが勝手に体を運んでくれる 
(美しい姿勢のまま一番スピードの出る自分だけの重心の一点を探して
何度も練習を重ねてずっと磨き続けていくものなんだ)
一点ってこういうことか…!
司先生がずっと教えてくれたことって こうやって押すとよく進む場所を細かく探すことだったんだ!
今しっかりわかった気がする…
(メダリスト 3巻 p78,79)

 試行錯誤し、スピードのあるスケーティングができたその時、いのりは「美しい姿勢のまま一番スピードの出る自分だけの重心の一点」の意味するところが理解できたのです。


 また、あいまいだった感覚が明確な言葉にされると、当然のことながら、他者だけでなく自分自身にも影響を及ぼします。
 いのりは、司のスケーティングが「指先が目に残って綺麗」なのが「魔法みたいで不思議」と感じていましたが、その理由を自分なりに言葉にできたとき、彼女自身の動きも劇的に変わりました。

最初は魔法みたいで不思議って思っていたけれども よく見たら
一番ゆっくり動いているものが目に残るんだ
だから腕を振るとき… 手の先から動かすんじゃなくて
肩から動かして最後に手を動かすようにすれば…
司先生みたいなキレイな動きになるんだ
(メダリスト 3巻 p86、87)

 奇しくも最初に挙げた『ワンダンス』と同じく、末端ではなく体幹から動かすことで動作がカッコよくなるということですが、本番中にこれに気づいたいのりの動作は、「振り付けの印象が変わった?」「ぐらつきが直ったな」「わあ…あの子綺麗に滑るねえ」と、目に見えて評価があがったのです。
 このように、漠然としていた感覚も明確な言葉にすることで、他人に伝えるのだけではなく自分自身に説明するのでも、強力に浸透するのです。


 以上で挙げてきたのはほんの一例で、3作品にはそれ以外にも多くの個所で、感覚に言葉を与えているシーンがあります。そしてそういうシーンは、作中のキャラクターと同じく、読んでいる私たちにも染み込みやすいのです。感覚的なものをテーマにしたこれら3作品の面白さには、この言語化のうまさも理由にあるのではないでしょうか。
 主観的な感覚を、他者にも(あるいはいのりのように自分自身にも)理解できるように言葉にする。何度も言っているように、これはとても難しいものであり、また言葉の選び方も十人十色になります。それゆえに、試行錯誤して生み出されたそれを耳目にするのは面白いし、それがこちらにも実感できた時はなお面白い。
 そういう作品、大好きです。



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主人公と自分の解釈違い、あるいは主人公の嫁と「俺の嫁」の話

 友人と雑談していて考えた話その2。

 友人が
「基本ネタバレ絶対許さないウーマンだけど、いい感じになりそうな相手が複数いる恋愛ものだけは、先に主人公がどの男とくっつくか知ってからじゃないと読めない。私は恋愛ものを読むとき、自分ならどの男を好きになるか考えて読むから。もし主人公が別の男を選んだら、解釈違いが過ぎるのでもうダメ。そっ閉じ」
と言っていて、私にはそれがとても新鮮な意見に思えました。なのでそう言ったら、「え? 男の言う『俺の嫁』ってそういうことなんじゃないの?」と返すんですね。
 え、そう? 「俺の嫁」ってそういうことなのか? とちょっと違和感があったので、そこで立ち止まって考えました。

 私自身はキャラクターに執心する感覚がないので「俺の嫁」という感覚もないんですが、それがあると仮定して、恋愛もの(ハーレムもの)で男主人公が「俺の嫁」以外のキャラクターを選んでも、「解釈違い」とはならないと思うんですよね。
 そうか、君はその子を選ぶのか。みたいな。
 まあ俺の嫁の方がかわいいけどな、見る目がないな。みたいな。

 なぜそんな違いが出るかといったら、友人は本を読んでる自分が主人公に感情移入、というか憑依と言った方が正確でしょうか、それをしているから。
 主人公に憑依している(されている?)とき、友人は主人公を内面化しているわけではないのでしょう。主人公が憑りついてるけど、自分の意識(趣味嗜好)も残ってる。だから、自分の好きなキャラと主人公の好きなキャラがずれると気持ち悪い。今まで重なってきた自分と主人公が引き裂かれてしまう。そこで一気に覚めてしまう。
 なので友人は、恋愛ものを物語として最後まで楽しめるよう、自分と主人公を最後まで重ねておく必要があるし、そのためには主人公が誰とくっつくか知っておかねばならない。だから、くっつかない方の男は好きにならないよう努めねばならないそうです。難儀だなと思いました。

 翻って私の思う「俺の嫁」は、読んでる自分は物語の外にいて(主人公とは別のところにいて)、その上で「俺の嫁」を選びます。選んでいるのは俺で、主人公じゃない。だから、主人公が「俺の嫁」とは違うキャラクターを選んでも、解釈違いとかではない。主人公の嫁が誰であれ、「俺の嫁」は「『俺』の嫁」なんです。
 こんなようなことを友人に言ったら、「つまり夢男子*1ってこと?」と言われました。ただ、それも少し違うような気がします。
 「俺の嫁」と言っている人たちは、自分がそのキャラクターと付き合ったりすることを想像してはいないような気がするんです。いやもちろん人によるんでしょうが、相手(嫁)のことを愛していたとしても、相手が自分をどう思っているかはどうでもいいというか、別にそこを想像していないというか。次元の向こう側にいる相手がどう思っているかなんかわかりようがない、むしろ自分のことなんて知ってっこないという諦念がある。もしくは愛したから愛されたいという見返りを求めない。アガペー。そんな気がしています。いやもう誰に聞いたわけでもないただの偏見なんですけど。

 あるいは別のタイプとして、主人公に感情移入したとしても、そのとき主人公の感覚を内面化している=とりあえず自分の感覚をカッコに入れている。だから、そのカッコの外で(感情移入していないときに)自分が選んだキャラクターが、主人公が選んだキャラクターとずれていても気にならない。私自身はこのタイプですね。
 物語の中できちんと主人公の心の綾が描かれていれば、そのキャラクターが選んだヒロインが誰であれ、私自身の好みと違っていようとも、問題なく主人公の選択に納得できます。彼の解釈が私の解釈です。彼の嫁が俺の嫁であり、それとは別に「俺の嫁」がいる感じ。

 別に友人の読み方が女性一般の読み方ではないでしょうし、「俺の嫁」と言っている人(そもそも、そんな人もうだいぶ見なくなったけど)にもいろいろいるでしょう。この話は、「俺の嫁」なんて言わない私の推測です。
 ただ、友人の「恋愛ものでは時として主人公と自分で解釈違いが起こる(だから先にだれとくっつか知っておく)」という読み方がとても新鮮に聞こえたので、それがどういうものなのかなと考えてみた話でした。感情移入と憑依の違い、キャラクターを内面化するかしないか。そういう読み方の違いなのかなと。



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*1:あるキャラクターについて妄想する際、そのキャラクターの相手役として自分自身を配する女性を「夢女子」と言い、その男性版