『GIANT KILLING』椿が「好きにやる」ことの意味の話

最新巻が発売された『GIANT KILLING』。

天宮杯で緒戦の徳島を破ったチームをよそに、アジアカップの敗戦から椿は塞ぎこみ続けています。
靭帯をやってしまいしばらくサッカーから離れざるを得ない親友の窪田。自らのレッドカードで敗戦の決勝点となったPKを献上してしまったアジアカップ準決勝。ネットやメディアでの心無い批判。もともとメンタルが課題だった椿にとっては、どれをとっても重い負担になっています。
そんな状況で、椿のもとへ届いた窪田からのメッセージ。辛い状況でも明るく振舞っている窪田に申し訳ないとは思いつつも、取り繕う方がむしろ不誠実と、前へ進むことのできない己の弱さを椿は吐露しますが、それに対する窪田の返答は、慰めではなく、肯定。

それでいいよー。
椿くんがしたくないことは
しなくていいと思うよ。
(57巻 p76)

驚く椿なぞ気にせず(スマホ越しなので気づきようもないですが)、窪田は続けます。いわく、日本代表が敗退した責任は窪田自身も感じているし、志村も感じている、いや、代表のメンバー全員が感じているはず。それなのに椿一人に敗戦の責を負わせる形になってしまい、申し訳ない、と。だから、椿は好きにすればいい、と。
これまでの椿のサッカー人生は「誰かとつながるためのサッカー」でした。それは小学校時代にすでに表れており、過疎地にある廃校直前の小学校時代、小1から小6までの生徒に加えて、若い先生から定年間際の先生、老若男女が入り乱れてもちゃんとサッカーらしいサッカーができるよう、椿がシステムめいたものを考えだし、廃校になる最後の時まで皆でサッカーを楽しんでいました。中学生になって、プロになりたいと思った動機も、「プロになって活躍したら 廃校で離れ離れになった人達が自分を見てくれる そうしたらバラバラに生活してても 皆がつながっていられる」というものでした。プロになっても、言葉に出さないで自分のプレイで他の誰かに自分の気持ちを伝えようとする、そんなシーンが散見されます。
このように、誰かとつながるためのサッカーを続けてきた椿ですから、窪田から言われた「好きにしたらいいと思う」という言葉は、一つのメルクマールになると思います。
もちろん今までの椿だって、誰かに言われてつながるためのサッカーをやっていたわけではなく、自分自身の意思でもってそれを選んでいました。ですが、誰かとつながっているということは、そのつながりを通じて様々なことがやり取りされるということでもあり、それは今の椿にとって、明確に悪い要素として働いています。敗戦の責任も、日本中のバッシングも、つながりのせいで全部自分のところまで流れ込んできてしまうからです。
そこに言われた「好きにしたらいいと思う」。これは裏を返すと、皆を信頼しろ、ということだと思うのです。誰かとつながるためでなく、もうつながっていることを信頼して、好きにやれと。
特に代表に選ばれるような人間たちは、どいつもこいつも我が強く、自分にも他人にも厳しいプレーをしますが、それは他のメンバーにはそれができると思っているからです。自分の期待に応えられる人間ばかりのはずだと信じてるからです。他の奴らがいるから、自分も好きにやる。好きにやれる。
今までは、ある意味では周りの顔色を窺ってばかりだった椿に、もっと自分勝手に、selfishに、好きなようにやれ、と。それは椿が一皮むけるきっかけになるのではないでしょうか。
窪田は窪田で、自分が好きなようにやりたいこととして、また代表で椿とプレイすることを挙げていました。それを見て椿が考える、自分のしたいこと。まとまらないまま夜のグラウンドでボールを蹴っているときに、達海監督がかけた言葉は、「自分の中から沸き上がるものが出てくるまで 待つしかない」でした。今が雌伏の時として「待つ」椿。次巻には顔を上げフィールドに出てこられるのか。期待がビンビンです。



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おかしみを生み出すズレの話 ボケとツッコミ編2

前回に引き続き。
おかしみを生み出すズレの話 ボケとツッコミ編1 - ポンコツ山田.com
前回の記事の引きで、前回取り扱ったボケとツッコミの関係を「逸脱修正型」と名付け、それとは違うものを「逸脱発見型」としました。今回は、そちらについて。

逸脱発見型とは

まず、逸脱発見型を抽象的に表せば
ある文脈内において逸脱のない言動・事象に、別の文脈による解釈を当てはめることで、ズレを強制的に生み出すもの
と言えます。
つまり、ある文脈の中で、表面上は何も問題ないもの、ずれていないものに対して、ツッコミが、文脈とは異なる視点や解釈を導入することで、それがずれているようにも捉えられるようにする、ということです。もともと文脈内にズレは存在せず、ツッコミが「それはこう捉えるとズレになるのでは」と指摘することで、事後的にそこにボケが発見されるのです。
逸脱修正型においては、ツッコむ者は、元の文脈とそこから逸脱したボケの間に解釈の経路をつなぎますが、逸脱発見型においては、文脈に問題なく属していて、一見なんのズレもない言動や事象に、別の文脈に通じる経路を発見・付与することで、その言動・事象をボケと認識できるようにします。
この段階でもうわかるように、ここで言っているボケは、一般的な意味の、すなわち逸脱修正型でいう意味合いがボケとは異なっています。ここで述べているボケでは、ボケた人間は原則的にそれを意図しておらず、事後的にボケとされたもので、おかしみを生み出すことを狙ってはいません。あくまで、「これは別の解釈をできるのでは?」と思ったツッコミによる指摘が成功して初めて、そこにおかしみが生まれるのです。

逸脱発見型のおかしみの具体例

日常的な例でいえば、路上で目にした建物が窓やドアのデザインのせいで偶然キン肉ハウスのように見えたり、雑誌で目にした文章に意図せぬダブルミーニングを発見したり、というところでしょうか。
逸脱修正型に比べこのタイプは、普段の生活の中でツッコむ者がふとした瞬間に気づくものであり、ボケも意図してそれを行っていないので、自分一人で面白がったり、たまたま近くにいた人と面白がる、ということが多いです。ですので、芸人のネタという形で見られるものではありません。直接的な形では、トーク番組などの中で参加者が偶発的にツッコむケースが散見されるくらいでしょう。
ですが、たとえばモノマネは、マネされる対象が普段身を置いている文脈では見過ごされている言動を、別の文脈(モノマネを披露する場)で再現することでおかしみを生じさせているものなので、この逸脱発見型の一種だと言えるでしょう。
また、あるあるネタも同様に、日常の中でよく見かけるけど当たり前のものとして見過ごしている言動をピックアップし、「気づいていないけど皆よくやっていること」として別の場で指摘するものなので、やはりこのタイプの一種と言えそうです。

逸脱を発見できる人

このタイプのおかしみを生じさせられる人間(ツッコめる人間)、よく言えば、思考の瞬発力が高く、思考の回転方向を即座に変化させられるような人です。とても利発そうな人ですね。
これを悪く言うと、目の前のことに集中できず、すぐに思考が横滑りしてしまう人です。ダメそうな人ですね。
同じ物事でも捉え方ひとつでいかようにも表現できることがよくわかります。

逸脱の発見は、本当に発見なのか

ところで、笑いには攻撃性があるとはしばしば言われることですが、この逸脱発見型の関係性は、笑われた人間への攻撃を誘発しやすいものです。
たとえば、なんらかの理由で面白いとされる人、あるいは単純に発言力が大きい人が、ある人やモノやコトの特にズレのない言動に対して、いかにもそれがずれている風に指摘すると(すなわち、逸脱発見的にツッコむと)、問題ないはずの言動なのにずれているとされ、周りの人間から笑われることが起こりえます。簡単に言えば、「いじり」ですね(嫌いな言葉ですが)。
このとき当該言動が、実際に他の解釈によって捉えられる否かはあまり重要でなく、「そういうことを言える人」によって指摘される方が、笑いを起こすことにおいてよほど大事だったりします。
ですから、逸脱が発見されるのではなく、逸脱を押し付けられる、あるいは捏造される、ということもあります。落ち着いて考えれば、べつに何もうまい解釈ができていないのだから(ずれていないものを、別の解釈によればズレとなるとして適切に指摘できていないのだから)、笑う道理はないのですが、空気のようなもので笑うことを強制されてしまう感じ。いやですね。
笑いは、笑われるものを劣位に置く行為ですから、声の大きい人間によって「ずれてる」と指摘されることは、された人の意思とは無関係に、関係性の中で劣位に置かれることになりますので、その状況が常態化することで、いりじは容易にいじめの温床へと転化します。笑い自体は、コミュニケーションを円滑にするためにも有意なものですが、それが特定の人間の犠牲の上でのみ成り立つとしたら、まっとうな関係性とは呼べません。


と、なぜか子供のころの苦い記憶が思い出されたかのような終盤になってしまいましたが、とりあえずこれで、おかしみについて考えていたことをある程度まとめ切りました。
もちろんおかしみについてはまだまだたくさん考えられることはあるのですが(天丼ネタや、ダチョウ倶楽部のように、予期されているのに、予期されているからこそ笑ってしまうものなど)、それは思いついたらまたいずれ。



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おかしみを生み出すズレの話 ボケとツッコミ編1

前回の記事を承けて今回は、笑いの場でしばしば言及される、ボケとツッコミについて。
おかしみを生み出すズレについての話 - ポンコツ山田.com
ボケにしろツッコミにしろ、明確な定義があるわけではないと思いますが、ふんわりした捉え方としては、
ボケ:笑いを誘う、突飛であったり、奇矯であったりする言動
ツッコミ:ボケをボケだと指摘し、受け手に笑いどころを示す言動
という感じになるでしょうか。
では、この「ボケ」と「ツッコミ」を、おかしみを生み出す「ズレ」の仮説に基づいて考えてみます。
なおボケとツッコミは、漫才やコントなどのように、誰かに見せることが出発点となっている概念ですので、それを前提とした話となります。

「ボケ」と「ツッコミ」の定義

まず、ズレ仮説に基づいて「ボケ」を定義すると
・その場の文脈を逸脱する、あるいは受け手の解釈から外れる言動
となるでしょうか。
漫才にしろコントにしろ(あるいは、ボケとツッコミという言葉が当たり前に使われるようになった日常の場にしろ)、コミュニケーションがやり取りされているその場の当事者で共有している文脈があります。そこからズレる言動がボケです。
それに対して「ツッコミ」は
・文脈から外れた言動をもとの文脈に戻すせるよう、逸脱した当該言動に再解釈のヒントを与えること
と定義できるでしょう。
「さっきいきなり変なことが起こったけど、それは実はこういうことなんだぜ」と、説明やヒントを受け手に与えることで、ボケと文脈の間に、笑える程度の適切な距離を確保するのです。
さて、自分の思い込みからずれた言動や出来事に(例外はありますが)人はおかしみを感じるので、上記の定義によるボケは、まさにおかしみを生み出すものですが、では、なぜそこにツッコミが必要なのでしょう。冒頭であげた、ふんわりしたツッコミの捉え方でいうところの「ボケをボケだと指摘する」のは、ボケがズレであり、ずれていればおかしみを感じられる以上、あえて「笑いどころを示す」ために必要とされるわけではないはずです。

ツッコミの役割 把握と解釈のタイミング調節

一つには、受け手が笑うタイミングを揃えたいという狙いでしょう。
笑うタイミング。すなわち、ズレをズレだと認識するタイミングです。状況を把握したり解釈したりするスピードは受け手個々人で異なりますから、ボケをそれ単独で現前させると、受け手が笑うタイミングに差ができてしまいます。それは全体の流れを事前に想定して行う漫才やコントにとって、進行に不具合を生じさせることになるでしょう。受け手の盛り上がり方にムラがあると、やっている側ものりづらいですからね。
ですので、まずツッコミをすることそれ自体で、「今ボケが文脈からずれましたよ」と受け手にズレの存在を示し、さらにツッコミのセリフで、そのズレがどのようにそれまでの文脈からずれているか、あるいは元の文脈とのつながりを見つけるにはどう解釈すればいいかを、端的に教えます。そうすることで、受け手の笑いのタイミングを揃え、演者にとってもやりやすい状況を作れるのです。
簡潔な例でいえば、タカアンドトシの「○○か!」のようなものでしょうか。

タカアンドトシの傑作漫才 「特殊」
この動画では、タカが次々と繰り出すボケに、トシがテンポよく「〇〇か!」とつっこんでいます。それまでの文脈を無視するボケに対して、「カエルか!」「初夢か!」「特殊か!」と、その一瞬わけのわからんボケが何を言っているのか、直前の文脈からどうねじ曲がってしまったのかを理解できるよう、解釈のための経路を簡潔に作り上げているのです。

ツッコミの役割 ボケと文脈をつなぐ経路

また、そもそもボケがあまりにも突飛で、文脈から大きくはずれすぎてしまうと、受け手はおかしみを感じることができません。なぜなら、あまりに突飛なボケは、受け手が、それまで問題なかったはずの文脈を、実は自分は読み間違えていたのではないか、と疑念を抱いてしまうからです。ここまでボケが突飛に感じられ、意味が分からないのは、それまでの文脈を自分が誤読していたからではないか。正しく読めていれば、このボケもきちんとおかしみを感じられたのではないか。受け手はそう不安になってしまうのです。
おかしみを感じるにはある程度の安定や余裕が必要と前回書きましたが、まさにその安定性を揺るがしてしまうから、突飛すぎるボケは笑えないのです。
ですが、そこにツッコミがあると、そのボケが実はこのような道筋で元の文脈と関連するのですよ、こう解釈することで元の文脈に近づけるのですよ、と受け手は認識を改めることができます。そうすることで、それまでの自身の文脈の読解に自信を持つことができ、安定や余裕が復活し、面白がることができるのです。
ツッコミがあるからこそ、より突飛な、言い方を変えれば、より想像の余地が大きいボケを作れると言えるでしょう。

ツッコミの攻撃動作

ところで、ツッコミではしばしばボケに対する攻撃動作が見られます(上のタカアンドトシの動画もそうです)。これがなぜ存在しているのかも考えてみましょう。
攻撃動作それ自体には、基本的に、ずれたボケに対する解釈を促す要素はありません。ですが、ボケへの攻撃は、当該ボケがあまりにも大きく文脈から外れ、他者からの罰すら必要としていることを示します。
昔ながらの、「アホか」と言いながらボケの頭をひっぱたく行為が象徴的ですが、相手を罵り折檻を加えることは、端的に、悪者である相手を怒り罰する行為です。つまり、ボケは怒られるような悪の側であり、相対的に怒ったツッコミは正しい側となり、ツッコミが笑いどころを受け手に教えるという役割を負っている以上、受け手もツッコミと同じく正しい側となります。ツッコミ=笑う者はマジョリティであり、それは常識や当たり前を保持する側。対して笑われたボケはマイノリティであり、非常識やあり得ないとされる側。当然、マジョリティで常識で当たり前の側には、安定感や余裕があります。
このような理路で、ツッコミの攻撃動作には、おかしみを生じさせる機序が存在するのです。

逸脱修正型のボケ/ツッコミと、また別の型

以上、今回のようなボケとツッコミの関係に名前を付ければ、逸脱修正型、とできるでしょう。文脈から逸脱したボケを、元の文脈に修正できるよう再解釈を促すツッコミ、という関係性からのネーミングです。
この逸脱修正型は、本記事で取り扱ったように、漫才やコントのような、誰かに見せることを目的とし、事前にボケもツッコミも考案・検討・調整しておくタイプの笑いにおいて、主に見受けられるものです。何の打ち合わせもない状況で、適度な外れ方をするボケや、解釈を適切に促すツッコミを即座に考えつくのは、非常に難易度が高いですからね。
ですが、世の中にはこれとは違う、逸脱発見型ともいうべきボケとツッコミの関係も存在します。次回は、それについてまとめてみましょう。



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おかしみを生み出すズレについての話

笑いについて、過去から現代にいたるまで多くの地の巨人たちがさまざまな論考を残しており、もちろんその大半、どころか1%も読めてはいないだろうけど、その寡聞の中で私は、河合隼雄氏の、何かを対象化し、対象の中に見出したズレを楽しむ、というもの*1が、私の考えに近いのかなと思います。
同氏は、ホッブズやパニョルの「自分が対象に対して「突然の優越」を感じるときに笑いが生じる」という考えを踏まえた上で、「筆者としては「優越感」と言ってしまうのは少し限定が強すぎる感じもする」として、「優越とまでゆかなくても、対象の中に見出した「ズレ」の感じを楽しむ」ものが笑いであると主張しています。
念のため付言しておくと、より正確には、行動である「笑い」ではなく、多くの場合で「笑い」を発生させる元となる「おかしみ」という情動についてではありますが、「おかしみ」を生み出す「ズレ」について、私なりにまとめてみます。

ズレとは

まず、ズレという以上、ずれる前に存在したそもそもの何かがあるわけですが、それが何かというと、日常であったり、世間であったり、想定であったり、常識であったり、文脈であったり、そういうものですが、それらをまとめれば、「ある人が無意識のうちに、無自覚のうちに当たり前と思っていること」です。
ある人の主観の中で、当たり前に思っている状況の中で、それから逸脱することが起こる。それがズレです。思いもよらなかったことが思いもよらなかったところで起こる(存在する)から、おかしみが生まれるのです。
別の言い方をすれば、「(本当は)○○のはずなのに××」という認知が起こると、おかしみが生まれるともできます。
日常の例でいえば、学校の授業中にクラスメートのお腹が鳴るとか、道を歩いていたら前の人が滑って尻もちをつくとか。
前者は、みな真面目に授業を受けるべきときのはずなのに、勉強への集中という状況から外れる、腹ペコを意味する腹の虫の鳴き声が聞こえる。
後者は、通常の歩行をすべきはずの場所なのに、めったに見られない振る舞いが起こる。
いずれにせよ、「○○ではこうあるはず(べき)」という思い込み、当たり前と思っていることから逸脱した出来事が発生することで、おかしみを覚えます。

おかしみを消すもの1

ここで一つ付け加えるべきことは、そのズレが発生したとき、観測者には一定程度の余裕が必要である、という点です。観測者が過度の緊張状態にあったり、危険が迫っていたりすれば、おかしみを感じられる余裕はありません。
上の例でいえば、授業を受けている人間に近々重大なテストが待っていれば、腹の虫に笑うより、授業の邪魔をするなと怒るかもしれません。前を歩く人が突然包丁を振り回して叫びだせば、その行動がどれだけめったに見られない振る舞いであろうと、おかしみどころではなく、恐怖が湧きおこります。
ズレにおかしみを覚えるには、余裕がなければいけないのです。

おかしみを消すもの2

また、そのズレが一定程度を越えて大きい場合にも、おかしみを覚えることはできません。
ズレからおかしみが生まれるのは、観測者の思い込みという土台が十分に強固な状況だからで、そこから適度に外れるたものが出るから面白がれるのですが、もしこれがあまりにも大きなズレであれば、観測者の土台を根底から揺るがしてしまい、安定した精神活動を保つことができません。
たとえばツッコミの少ないシュール系のコント。最初はげらげら笑いながら見ることができていても、それがシュールの色を薄めぬまま進んでいくと、次第に笑いを通り越してうすら恐ろしくなったことはないでしょうか。クラスメートや友人がふざけている様子を、初めのうちは面白がっていたのに、それが長時間続くと、不気味に思えたことはないでしょうか。
自分の常識や日常(つまり思い込み)が安定しているからこそ、誰かや何かの思いもよらない振る舞いを、非常識なもの、非日常なものと面白がれるわけで、その思いもよらない振る舞いが延々と続き、あたかもその振る舞いこそが普通であるかのような思いが兆してしまうと途端に、自分の安定していたはずの常識や日常が不安定なものに感じられてしまうのです。
今まで自分が正常な側で異常なものを笑っていたはずなのに、ひょっとしたら自分こそが異常の側なのではないか。そう思えてしまったら、もう笑うことはできません(ちなみに、ズレた状況が続いても、自身の安定に脅威を感じない場合には、単純にそのズレに飽きが出てしまい、別の意味でおかしみを感じなくなります)。

個々人に拠るズレ

さて、「○○なのに××」の、「○○」にしろ「××」にしろ、それらの解釈は常にだれからも同一というわけではありません。「○○」が、観測者にとっての日常であったり、世間であったり、想定であったり、常識であったり、文脈であったりするわけですが、上述したように、それはどこまでいっても思い込み。もう少し穏当な言い方をすれば、主観でしかありません。もちろん「○○」に対する間主観的な一致は、日常のほとんどのシーンで見られますが、それはあくまで、すぐには問題が発生しない程度の一致に過ぎず、細大余すところなく完璧な一致ということはあり得ません。
個々人には知識や経験に差がありますから、同じモノやコトを観測しても、それそのものに対する、及びそれの周縁に付随する意味情報も少しずつ異なってきます。少し前にネットで見かけたイラストで、同じリンゴを見ても、「赤い」や「甘酸っぱい」としか思わない人もいれば、「Apple music」「椎名林檎」「青森県」「白雪姫」など、より多くの連想を働かせる人もいる、というものがありましたが、そんな具合です。
ですから、同じある状況に出くわしても、何らおかしくない普通の状況だと思う人もいれば、そこにズレを見出す人もいます。一般的には、ある状況やモノ・コトから、複数の解釈を導き出せる人の方が、おかしみを感じやすいと言えるでしょう。解釈に幅(選択肢)があれば、ズレを生じさせる解釈を見つけ出せる可能性が高まるからです。
たとえば『へうげもの』で、古田織部が和睦を進める羽柴の使者として徳川の歓待を受けるシーンがあります(4巻 第三十六席)。織部を連れた使者として宴席に同席した織田長益は、武辺者の徳川方よりも、数寄者の羽柴方に価値観を同じくしていたため、野暮な徳川方の歓待の仕方を苦々しく見ていたところ、織部は、途中までは長益同様、否、それどころか怒りさえ感じていたのですが、途中で腹を抱えた笑いに転じました。
彼は徳川方の振る舞いを「ただ阿呆になって騒いでおるのが滑稽なのではなく……余裕をひけらかさんと命懸けでひょうげているのがおかしいのだ」と分析します。そして「この笑いの質は斜めに見ずばわからぬもの」と内心でつぶやいていますが、「斜めに見る」とは、通常とは異なる解釈をするということです。つまり織部は、その場に負の感情を抱いていた、同じ羽柴方の長益とは異なる解釈を得たことで、おかしみを生じさせたのです。

笑いの攻撃性

ところで、笑いには攻撃性があるということはしばしば指摘されますが、それを、ズレがおかしみを生じるという観点からまとめてみます。
上述のように、観測者の思い込みからズレた事象を認知することでおかしみは生まれますが、それは、何かがあるべき状態から逸脱すると捉える、ということです。
あるべき状態。つまりは、正しい状態。正常な状態。そこから逸脱したということは、ズレたものは、正しくない状態、異常な状態に陥ったということです。
そして、当然、何かが異常な状態に陥ったと判断する側、すなわち観測者(=おかしみを感じる者)は、構造的に、正常な側にいることになります。少なくとも主観的には。
他者を異常と疎外し、自身を正常の側へ置くことは、自身を有利なポジションに置くことであり、おかしみを感じた対象を相対的に不利なポジションへ置くことになります。
つまり、何かを笑う(おかしみを覚える)ということは、正常な自身を優位に立たせ対象を異常と低める精神活動であり、その意味で、本質的に攻撃的であると言えるでしょう。ですから私は、冒頭で述べたホッブズやパニョルの「優越感」という意見も、おかしみの一側面を表しているものであると考えます。


とりあえずこんなところで。

*1:対話する生と死(1992)「笑いの心理」

『BLUE GIANT SUPREME』辿り着いた極点とゼロからの探求の話

続編の『BLUE GIANT EXPLORER』とともに、満を持して発売された『BLUE GIANT SUPREME』の最終巻。あまりにも最の高だったので、雑に感想を書こうと思います。

冒頭は、10巻から続く、成功を収めたロックフェスの後の、各メンバーの様子ブルーノ編。ヨーロッパドサ回りの後半から、大の成長ぶりにに自身との差を感じてきた他のメンバーが、一つの大きな山を越えた後に何を思うか。
抜きんでた大に追いつこうと焦るあまり、自分がどうありたいかを忘れかけていたけど、それを思い出したラファ。
家族からの期待やクラシックの過去というしがらみに区切りをつけられたハンナ。
大にも負けないはずの自分の成長を見せたかったブルーノ。
リーダーである大のレベルアップは三人とも認めるところですが、それに対してどう反応するか、自分はどうあるべきなのか、どうありたいのか、三者三様の姿が描かれ、バンドとしてではなく、個のプレイヤーとしての成長を感じさせるエピソードでした。
バンドがレベルアップするためには、個がレベルアップしなければいけない。それを考えても、NUNBER FIVEの今後のさらなる成長を思わせるエピソード群でしたが、当のリーダーである大は、現状に不満を感じていました。
いえ、不満というと正しくないのかもしれません。ライブの客足は好調。CDの売り上げは好調。バンドは登り調子。若手ジャズプレイヤーとしては誰もがうらやむような順風満帆の状況ではあるのですが、それでも大が抱いてしまったのは「解散したい」という思い。なぜか。それは、常に新しい音に触れていたいから。ラファやハンナやブルーノのプレイが好きという以上に、自分のプレーが好きだから。
この自分勝手さ。傲慢さ。残酷さ。
メンバーより自分の音楽が好きだなんていうあまりにもセルフィッシュなことを言いきる大の姿に、しびれます。
でも、それと同じくらいしびれるのは、メンバーたちが大の言葉に同意するところです。三人が三人とも、バンドの解散には不満だけど、それでも大のプレーが好きだということには同意する。大にはそうであってほしいと言う。
一つのものを同じステージで作り上げる仲間であり、同時に、自分こそという思いで切磋琢磨するライバル同士。とても美しい関係がここにあります。
そして、最大の山であるノースシージャズフェスティバル。
解散を賭けたステージに至るまでに、文字通り殴り合うような練習を重ねてきましたが、彼らはそのステージ上で、今までにないシンクロ感をもってプレーしました。出だしのほんのワンフレーズから、それぞれがそれぞれの具合を主張し、推し量り、そして通じ合う。
新しいリフに反応して次のリフを想像する。そのリフの勢いに吹きたいテンポを感じ取る。アドリブのボルテージが上がりきったところでソロを阿吽の呼吸で受け渡す。ソロが渡されるごとにボルテージは上がり、一瞬先は常に一瞬後を越えようとする。
何も言わずとも、一曲目が激しいソロからだったから、二曲目は静謐に始める。フレーズを展開させるリフを全員が了解する。倍速にしたそうなので倍速にする。横ノリのフレーズになりそうなので横ノリを付ける。
まるで言葉で会話しあっているかのように、否、テレパシーで通じ合っているかのように、お互いがお互いのプレーを、何をしたいかを、理解する。いわゆるゾーンに入ったような感覚。
NUMBER FIVEの面々がこの境地に至れたのは、本番での集中力もさることながら、そこに至るまでの長いライブ回りと、本番直前のお互いの我をぶつけあった練習が必要だったはずです。
ここではこう吹きたい。
ここではこう叩いてほしい。
合いの手はこう入れてほしい。
ソロにはこうつなげてほしい。
言葉どころか手も出るような激しい練習で、メンバーたちはそれぞれの希望を身体にしみこませているのです。それがあったから、この奇跡のようなステージが生まれたのです。プレーが素晴らしければ素晴らしいほど、終わりが切々と近づいてくる、アンビバレントなステージが。
まだこのバンドでやっていたい。
まだこのバンドで成長できるはずだ。
解散なんかしたくない。
そんな他のメンバーの思いをもちろん大は感じ取り、それでもなお彼は吹き上げます。「俺は行くんだ」と。
やっぱり、とてもわがまま。でも、そんなわがままな音こそが、自分なんだと。
メンバーの高揚に観客も巻き込まれ、会場全体が一つに融け合い、知らないうちに涙が流れるそのステージには、読んでるこちらの涙もこぼれるに十分な感動がありました。
そして、ノースシーを終え最終話。Dai Miyamoto NUMBER FIVEとして最後のライブとなるオスロ。有終の美を飾る演奏。大が抜けても続くことになったNUMBER FIVE。高台から望む開けた北極圏の地。大からの、ヨーロッパでのすべてに感謝を捧げるメンバー紹介。
最後の最後のメンバー紹介もいいんですけど、私はその直前の、五人で見た光景のシーンが好きなんですよね。単身ヨーロッパに乗り込んだ大が、一人で演奏し、ハンナに出会い、ラファに出会い、ブルーノに出会い、NUMBER FIVEとなり、四人でお互いを高め合い、バンドとしてどんどん強く、鋭く、研ぎ澄まされていった先で、解散というバンドの結末にたどり着いたところが、開けた地だというのが、アメリカに旅立つ大を象徴するようで、とてもいい。まさに、"supreme"の先に続くのが"explorer"なんですよね。極点の先で、またゼロから一人で新しいものを探し出すのです。
EXPLORER』1巻は、『SUPREME』の1巻とは違い、すでに一定の力量と海外慣れを身に着けた大の新たなスタートですから、後者ほどの緊張感まではないのですが、それでも新たな地で大がどんな新しいものを見つけるのか、期待させてくれる滑り出しです。無印で登場した雪祈の再登場フラグもたちましたし、それも楽しみです。
はよ。2巻はよ。


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『水は海に向かって流れる』「いい子」の直達の怒りと大人への成長の話

前回の記事の最後で予告したくせに少し間が空いてしまいましたが、今回も『水は海に向かって流れる』の話です。前回一か月近くも前じゃん。
ともかく、予告どおりに今回は直達のお話。榊との出会いを通じて、子供のままでいようとする呪いを解いた直達の話です。

「いい子」の直達

高校進学を機に始めたルームシェア先で、自分の父がW不倫をしていた過去を知り、その不倫相手の娘と一つ屋根の下で暮らす羽目になった直達。思春期の少年にはあまりにも刺激の強い事態ですが、直達は、同じ家でルームシェアをしている母方の叔父のニゲミチを慮り、実家の両親を慮り、なにより不倫相手の娘である榊を慮り、特に騒ぎ立てることをせずそのまま暮らし続けることをひとまず選びました。

……この人は 俺が知ることを 望んじゃいないのか……
だったらもう深追いするのやめよう…
(1巻 p85)

このように、直達は何か問題が持ち上がったときに、波風を立てないことを選ぶ人間でした。別の見方をすればそれは、「わがままを言わない」こと。あるいは「聞き分けがいい」こと。それはつまり、「いい子」でいること。作中でいろいろな表現がされていますが、これが当初の彼の基本スタンスです。
それは一見大人びたようにも見えるものですが、実のところ、彼が幼少期の頃にかけられた(あるいは自らにかけた)呪いの表れなのです。
榊が直達の父の不倫相手の娘だとどちらがニゲミチに伝えるかということについて、直達と榊が問答をしているとき、直達の脳裏にはこんな言葉がよぎりました。

わがままを言ったら捨てられる…
捨てられる って 誰に?
(1巻 p189)

突如浮かんだ「捨てられる」という言葉。その不意打ちに自分でも驚いていると、連鎖的にあるシーンが思い出されました。それは、直達の父がまだ5歳の直達の頭をそっと撫で、困ったように笑いかけるところ。このシーンがいつのことなのか、おそらくは直達父が不倫で家を出る直前でしょう。まさにそのときの直達が何を考えていたかは描かれていませんが、15歳の直達の脳裏によぎったそれに結びついていることは想像に難くありません。
幼い直達が、自分がわがままを言ったから父に捨てられたと考えたのか、それともわがままを言わなければ父が帰ってくると考えたのか、それはわかりませんが、いずれにせよ、父の出奔は直達に、わがままを言ってはいけないという強い呪縛をもたらしたのです。
わがままを言わない子とは、端的に言えば「いい子」。それが直達です。

「いい子」からの脱却

そんな直達が、たとえわがままを言うことになろうとも、いい子じゃなくなろうとも、他人に向かって一歩踏み出したのは、榊に向かってでした。

〈わがまますら言えない子供のままじゃ〉
俺は
そーゆうのやです!
〈目の前のこの人が背負うモノを半分持つことも出来ない〉
(1巻 p190)

そもそも、直達の榊へのファーストインプレッションは、ポトラッチ丼にたぶらかされて禁断の恋に落ちかけるというものでした。もっともそれが「禁断」であったのは、ニゲミチの恋人だと勘違いしていたからですが、その印象が消える前に、榊が自分の父の不倫相手の娘だという事実を知り、ときめきを塗りつぶすような重たい何か、榊や泉谷妹言うところの罪悪感を背負う羽目になりました。
自分が直達の父親の不倫相手の娘だということを榊は直達に知ってほしくなく、直達は、その事実と知ってほしくないという榊の思い、両方を知っている。前回のブログで書いたように、榊は直達を、かつての自分がそうしてほしかったかのように、彼を庇護すべき子供として扱おうとするのですが、そんな榊の思惑は、いい子であろうとする直達と合致するものでした。
だから彼は、「深追いするのやめよう」としたし、言いたいことがあったも「言ってどーするんだ… どーなることでもないのに」と諦めたりしていました。
でも、直達はそれをやめようとした。わがままを言おうとした。いい子じゃなくなろうとした。子供じゃなくなろうとした。
その具体的な行動として、ニゲミチに、自分と榊の関係性を告白することで、こんがらがってる事態をどうにかしようと思ったのですが、そんな思い付きでなにがどうなるわけもなく、結局自分の無知と無力さを思い知るだけでした。

…後悔してるの?
いい子でいる方を選んでたら こんな無力さを味わわずに済んだのにって思ってる?
(2巻 p19,20)

けれど、たとえ自分自身に恥じ入る羽目になろうとも、直達が子供でいないことを選び取ろうとしたことは大きな一歩です。
そのあとも直達は、恋人を「いらない」と言った榊の事情に踏み込もうと、当時のことを教授から聞こうとしたり、榊本人から聞いてみたり、ついには自分も恋愛しないと謎の宣言をしたり。
宣言を聞いて思わず激高した榊は、「直達くんには関係ない」と突き放す態度をとりました。それまでの直達ならば、そう言われればそれ以上動かなかったはずです(それまでの直達なら、そもそもそんなこと言わなかったでしょうが)。ですが、彼は頑固に宣言を取り消さなかった。「自分にできることをしようと思って」と、榊にかかわることをやめなかった。
この、他人へ関わろうとする態度こそが、子供の殻を破ろうとしている直達の大きな変化なのだと思います。望まぬ他人への干渉は、相手の不興を容易に買うものであり、それはわがままを言わないいい子には到底できないことです。

怒れない直達の「怒り」

そして、殻を破るもう一つの象徴は、怒りです。
まだ榊へ一歩踏み出す前に直達は、こんな風に悩んでいました。

今さら母さんが怒ってるワケないし
榊さんは俺がこの件に関わることを望んでないし
俺がグレればおじさんが何回か死ぬし
手も足も口も出せない… 俺はこのままヘラヘラと知らないふりして生きていくのか?
怒ったりできればいいのに!!
(1巻 p103)

そう。直達は怒ることができませんでした。それがもっと小さいころからそうなのかはわかりませんが、きっとそのきっかけは、幼少期の父との別れ。つまり、いい子でいなきゃいけない呪い。いい子はわがままを言わない。いい子は怒らない。だっていい子は手がかからないから。手がかからなければ、きっと嫌われないから。
ですが、怒らないというのは端的に不自然なことです。怒るべきときに怒らないのはとても不自然。
わがままを言わないことで、怒らないことで子供のままでいた直達は、自分でも気づかぬ間にその不自然さを拗らせていました。

それ言われて俺
怒れなかった
誰に対しても
そのおばちゃんになら 怒れるかもしれない 怒っていいと思う
〈あー 俺 ずっと怒りたかったんだな…〉
(2巻 p145,146)

思わず涙するほどに、彼の中で起これないストレスは大きなものになっていました。
引用中の「それ」とは、榊の「何もなかったことにして今まで通り暮らしたい」という発言ですが、その発言は、ニゲミチと三人で中華を食べた夜にも榊が言った言葉でした。
直達の父が家にやってきた一件でぎすぎすしていた榊とニゲミチの関係を修復すべく行われた会食ですが、「何もなかったことにして今まで通り暮らしたい」という榊の発言は、勇気を出して彼女に関わろうとした直達にとって明確な拒絶でした。子供であることをやめようとした矢先に言われた「何もなかったことにして」。榊にそのつもりはないでしょうが、まるで自分の決心を踏みにじるかのような発言に、本来なら直達は怒ってしかるべきでした。でも、直達は怒らなかった。怒れなかった。だって彼は、怒らないことを選んでいたから。

すいませ…
怒らないのを選んだのは自分なのに
(2巻 p147)

上で書いたように、直達にとって、怒らないことは子供(いい子)でいることと同義です。だから、大人になるためにも、彼は怒りたかったのです。

大人になる直達

でも、結局彼は、榊の母に会っても怒ることはできませんでした。

あの時… あのオバチャンの物語に付き合ってやる義理はないと思っちゃって
怒るのが面倒になったんです
いつもそうやって自分の感情からも相手の感情からも逃げて…
他人のためにエネルギーを使ってやれない
(3巻 p25)

そんな自分を「冷たい人間」と直達は評します。
怒れなかった彼は、子供の呪いを解くことに失敗したのでしょうか。
いえ、彼はすでに、怒りたい気持ちを榊に吐露した夜に、こんなことを思っていました。

何にもどうにもならないとわかっていても
知ってほしかった 怒りたかったこと
誰かが知っていてくれるだけできっと 生きていけるんだろう
(2巻 p147,149)

奇しくもこの感情は、母に会いに行った夜に榊が思ったこととリンクするものですが、怒りたい自分を知ってくれた=大人になりたい自分を知ってくれたことは、自分が生きていてもいいと思えるほどに心へ響くものだったようです。
それを榊に知ってもらえたから直達は、彼女が怒っていることは自分がずっとおぼえていると、約束したのでしょう。たとえ怒ることができなくても、未来に向けて他人のことをずっとおぼえていると誓えるほどに、他人に関わろうと思える。それくらい、直達は大人になれました。
そして、ついには榊への恋心を自覚し、彼女に告白。それから一年経ってもお互い頭が冷えていなかったので、ついに二人は恋人関係になるのですが、その直前の会話が、直達の変化を端的に表していていいなと思いました。

「…私は 直達くんが誰かと普通に幸せになってくれるなら それもいいと思ってるよ」
「……そうやって さもイイコトを言ってやってる体で俺をつきはなすの やめてほしいなって思ってますよ 俺は」
(3巻 p152)

榊が自分を突き放そうとしているのを理解していても、それにのらない、つまり聞き分けよくなく相手の言葉を拒む直達。出会った当初は、「子供は知らない方がいいんじゃないの」と彼女に言われれば、おとなしく引き下がっていたのに。これが成長……

以上、直達が子供から大人へと成長する姿を、「いい子」と「怒り」をキーワードに読み返してみました。
特に「怒り」については、あらためて榊のものと比較しても面白そうですがまあまあまあまあそれはそれとして。
とにかく最高に最高な最の高の作品だったので、田島列島先生にはまた新作を期待している所存でございます。



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『水は海に向かって流れる』榊の怒りと幸せのなり方の話

先ごろ最終巻が発売された、『水は海に向かって流れる』。

16歳の少年と26歳のお姉さんの、一つ屋根の下の複雑な関係もこれに終幕。軽妙な中にもさわやかさを忘れない、最高の終わりでした。2020年の完結ですが、20年代のマストバイに間違いないですね。
さて、前作の『子供はわかってあげない』もそうでしたが、田島列島先生の作品は細かい心理描写を説明的な言葉に任せずに、(漫画的な意味で*1)自然なセリフで登場人物たちの心の動きを巧みに活写していました。
しかし、その説明の少なさゆえに、読んでて登場人物たちの内面が十分わかった気にはなってるけど、じゃあ具体的に言葉にしてよといわれるとちょっと困る、そんな巧みさでもあります(まるで現実の人間みたいですね)。
主役の一人である26歳のOLこと榊さんの内面もまたとても複雑なのですが、それを言葉にすることの難しさは、端的に言えば「彼女は怒りたかったのかどうか」という疑問にあると思うのです。

母を怒りたい? 許したい?

2巻まで読んだ方ならおわかりのとおり、彼女は、自分を捨てた母に対してずっと怒ることをしていませんでした。正確に言えば、怒っている気持に蓋をし続けていました。目を逸らし続けていました。

…怒ってどうするの
怒ってもどうしょもないことばっかりじゃないの
(1巻 p43)

このセリフは、直達から自分らの親の関係(すなわち、榊の母と直達の父が不倫したこと)について知っているかのようなことを言われ、ドキッとしたものの、そうではないことを問われていたことに気づいて、かすかに安堵しながら吐いたものです。直接的には、直達からの、猫を見つけたことを言わなかったのを怒っているか、との問いに対する答えですが、その裏には上記の、両親の不倫についての答えが含意されていることも読み取れます。
わざわざこんなことを口にするのは、「怒ってもどうしょもない」けど怒りたいことがあるからに他なりません。それを自分に言い聞かせ、怒りに蓋をするためにも、彼女はそう口にしているのです。
このように、表面的には、本人の自覚的には、榊は母親について怒ってはいませんでした。しかし、3巻でその母を目の前にして、榊はこう言いました。

怒ってもどうしょもないことばっかりだけど
怒らないのは許しているのと同じよ
(3巻 p13,14)

はて、怒らないようにしていた榊は、母親を許そうとしていたのでしょうか。
彼女が母に対して、許しとは程遠い感情を抱いていたのは明白で、たとえば不倫の相手である直達の父と会った時の振る舞いや、そこから生じたニゲミチとのぎくしゃくも、母を許しているのであれば、少なくとも許そうとしているのであれば起こらないものだったはずです。
母を怒ってもどうしょもないと思っていたけれど、怒らないのは許してるのと同じ。じゃあ榊は母を許していたのかと言えば、そんなことはない様子。
さて、この榊の発言の齟齬は、どのように解釈すればよいのでしょう。

もう会わないから怒らない 消したい「母を好きだった自分」

私はこれを、榊が母と別れてからずっと自分に言い聞かせていた心構えから、対面したときの心構えの変化と解釈しました。
別の言い方をすれば、もう会うことはないと思っていたからこそとっていた心構えと、にもかかわらず会ってしまったときの心の在り方の違いです。
これを説明するには、母と別れる前の榊は、母のことが大好きだったという前提が重要になります。榊自身の口から、母のことが大好きだと直接言ったことはありませんが、それを思わせるセリフや、直達らがそう察する描写は随所にあります。

私が
直達くんみたいないい子だったら……
あの時 あんなヒドイこと言わなかったら
戻ってきたのかもしれなかった
(2巻 p107,108)

純粋ってなんて非生産的なんだろう
この人はお母さんが大好きだったんだ
なのに もう 怒ることでしか繋がれない
(3巻 p15)

でも千紗はかわいそうだなって思った…
お母さんのこと大好きだったのに
連れてってもらえなくて 俺なんかと二人きりにされて
(3巻 p20)

このように、榊が母のことを大好きだったことがはっきりとうかがわれます。
でも、そんな母は、突然理由も言わずに榊のもとを去っていった。それが起こって三日間ほどは、榊はそのことを受け止めることができませんでしたが、それでもなんとか日常に戻ろうとました。
それからしばらくして、出ていった母から呼び出しを受けました。きっと何かわけがあったはず。きっと戻ってきてくれるはず。そんな期待を抱いて母に会いに行った榊ですが、そこで聞かされたのは、別の男を好きになったから家族を捨てたという事実。実の親のW不倫という、多感な高校生にはあまりにも衝撃的な告白。母曰く、「お母さんは千紗のことがきらいで出ていったんじゃない」ということを、顔を見て伝えたかったゆえに設けられた会合ですが、それが榊の救いになるかと言えばそんなことはなく、むしろ彼女の神経を逆撫でし、

出てったらきらいと同じよ
ウンコみたいなキレイごと言ってんな この色キチ
(2巻 p86)

というTOP OF THE BARIZOGONを投げつけられる結果に終わりました。
このTOP OF THE BARIZOGONが榊にとってのポイントオブノーリターンであり、以降、今まで好きだった母親への感情がすべてひっくり返りました。大好きだったから大嫌い。かわいさ余って憎さ百倍の言葉どおりです。
母を嫌う感情の苛烈さは、榊を縛りつける呪いのごとく。
たとえば、「色キチ」な母のことなんか理解したくないから、「千紗も好きな人ができたらわかる」という母の言葉を、「私 一生恋愛しないから」と切って捨て、10年後まで延々と彼女の心をからめとっています(「榊さんて彼氏とかいるんですか?」「いらない」という直達との会話はその証左です)。
また、母への怒りが、かつて彼女を好きだった自分を消し去りたいと思うほどに苛烈だから、「怒ってた自分をいなかったことにし」、このマインドセットが、「怒ってもどうしょもないことばっかり」という心構えにつながりました。
そう、榊が母と別れてからずっと自分に言い聞かせていた心構えであり、もう会うことはないと思っていたからこそとっていた心構えです。

会ってしまったから怒るしかない 動き出す榊の時計

こうして榊は、「怒ってた自分をいなかったことにし」ました。でも、怒りが消えてなくなったわけではありません。だから言うなれば、母を怒った時からずっと、榊はいないまま。母に怒った16歳のその時から、今に至るまで。いるのは、母を怒る前の、子供の榊。
榊父の旧友である教授が榊について言った、「千紗ちゃんはいつまで16歳でいるつもり?」や「千紗ちゃんの止まっていた時計」という言葉は、そんな彼女の状況を指しています。
余談になりますが、榊が当初、直達を事態から遠ざけようとしていたのは、まさに彼女の心が16歳で止まっていたからでしょう。

あの子はいい子だよ …大体
子供には関係ないじゃない
(1巻 p57,58)

子供は知らない方がいいこともあるんじゃないの
(1巻 p85)

「あ でも直達くんから言ってくれるってさ」
「ああ!? コドモに何させてんの…」
(1巻 p183)

奇しくも直達は16歳。かつて榊が母から捨てられたときと同じ歳です。
あのときの自分は、こんな事態に直面して、大きな傷を負った。あのときの自分は、そんな目に遭いたくなかった。誰かに守ってほしかった。
そう榊は思ったから、かつての自分を助けたかった代償行為として、直達を守ろうとして、自分たちの親に関する不快な話から遠ざけたんじゃないかなと考えます。
閑話休題
榊の止まった時計は、母の不倫相手の息子である直達が現れたことで、周囲の歯車ごと軋み始めました。いくつもの歯車が少しずつ動いていったことで、ついに母親に会いに行くことにした榊。直達と二人、母と対面しました。
そしてこの時点で、これまでの榊の心構えの、「会うことはない」という前提が崩れました。崩れたからには、「怒ってた自分をなかったことにし」たままではいられません。「怒ってもどうしょもないことばっかり」なんて言ってられません。言い訳めいた母の言葉をこれ以上聞きたくなくなった直達が退出を促すも、「怒らないのは許してるのと同じよ」と、自分が今まさに怒っていることを表に出すのです。
そんな榊を見て直達は、「怒ることでしか繋がれない」と内心にこぼしました。これは、それまでの状況の裏返しで、すなわち、今までは繋がっていなかったから怒ることもできなかったけど、繋がった、現に対面してしまったからには、怒ることしかできないのです。
榊は今まで、母に怒っていた自分をずっといなかったことにしていましたし、それは、怒りの対象である母ももういないものとしていたことと同義です。でも、今目の前に母がいる。じゃあもう、怒るしかない。母と別れた時に止まった榊の時計が、母と再会したことで再び動き出したのなら、その針は、母に対して怒っているところから動き出すしかないからです。
子供の自分が怒っていた母が目の前にいる。怒る対象が目の前にいる。なのに怒りを放棄するのは「許すこと」にほかならないし、それはできないこと。
そんな心構えの変化が、対面したときの心構えの変化であり、もう会うことはないと思っていたにもかかわらず会ってしまったときの心の在り方なのです。
これが、一見矛盾するような榊の心の在り方に対する、私の解釈です。
ですから、「彼女は怒りたかったのかどうか」という問いには、「もう会うこともないと思っているときには怒るつもりはなかったが、いざ会ったからには怒るしかなかった」という答えになります。

怒ると負けよ 罪・悪・感

さて、そんな彼女の怒りに対するスタンスを確認したうえで、もう少し話を続けましょう。
母との対面で怒りが最高潮に達するその瞬間に、母の義理の娘が家に帰ってきたことで、なし崩しのうちに榊たちは退出せざるを得ませんでした。
近くの海で、感情の高ぶりを抑えられないまま、涙をこぼして榊は言います。

怒るつもりはなかった
私が怒ったら 負けだってわかってたのに…
(3巻 p23)

さて、ここで榊が言う「負け」とは何のことでしょう。不倫して出ていった母との再会に、勝ちも負けもありません。にもかかわらず、榊は「怒ったら負け」と考えていたのです。
これはきっと、三人で対面しているときに直達が言った言葉がカギになります。

帰りましょう
怒って暴れ回ったところで このオバチャンの罪悪感が軽くなるだけじゃないですか
(3巻 p13)

この「オバチャンの罪悪感が軽くなる」ことが、榊にとっての負けになってしまうことだったのだと思うのです。
直達がこれを言ったのは、直前の榊と母のやり取りで、こうやって榊に怒りをぶつけられることを望んでいるかのような言葉を母が吐いたからです。
16歳の榊に言ったように、母は好き好んで榊を捨てたわけではなかった。榊を捨てたことに(そしてあんな、TOP OF THE BARIZOGONをぶつけられるほど娘を怒らせたことに)少なからず以上の後悔をしていた。そしてきっと、榊自身もそれを察していた。だって、母のことが好きだったから。母が自分を好きだったことも知っていたから。だから榊は、怒りをぶつけられれば母は、実の娘からの怒りという罰を受けることで、罪悪感を減じるであろうことも想像できていたと思うのです。
かつて榊は母を好きだった。これは重要な事実なので何度でも言いますが、それ以上に重要な事実は、榊はそんな母に裏切られて、愛情以上の憎悪を抱いたのです。
好きだったけど、それ以上に嫌い。そんな人間の罪悪感を軽くなんてしてやりたくなかった。
だから、「怒ったら負け」だったのです。でも、それ以上に、こうして面と向かってしまったからには、「怒らないのは許してるのと同じ」だったのです。
とても根深く心がこじれています。

過去の肯定 未来の約束 時計の針は今進む

母を許せなかった榊は、母を理解したくないために恋愛をしないと宣言し、母の罪の意識を軽くしたくないために母を怒ろうとせず、そしてなにより、母の罪をなくさないために幸せになろうとしませんでした。16歳の、母に捨てられた不幸な子供でい続けることが、その罪を犯した母に十字架を背負わせ続ける最良の手段だと(おそらくは無意識に)考えたのです。
自分が幸せになることは、母への怒りを忘れること。少なくとも、それにとらわれなくなること。でも、そうしたら母の罪はなくなってしまう。母を怒っていた自分がいなくなってしまう。つまりは、母を好きだった自分が。
母が大好きだったからそれ以上に母を嫌いになったけど、母を嫌いになったけどそれでもまだそれを生むきっかけとなった好きは残ってる。
好きと嫌いは差し引きできるものではありません。90の好きと100の嫌いで、10の嫌いが残るわけではなく、あくまで90の好きと100の嫌い、両方が存在したうえで100の嫌いなのです。
母への怒りを忘れることは、自分が幸せになることは、母を免罪することであり、同時に母を好きだった自分も忘れること。100の嫌いと一緒に90の好きも手放すこと。榊はそう思い込み、幸せになろうとしてきませんでした。
でも、直達が言ってくれました。

榊さんが幸せになることで それが榊さんのお母さんの免罪符になるわけじゃないし
ずっとお母さんのことを怒ってた自分がいなかったことにされたりはしないです
俺がずっとおぼえておくので
榊さんが怒ってたことは ずっと俺がおぼえておくので大丈夫です
(3巻 p61,62)

榊は母への怒りを忘れていい。母を嫌いになったことを忘れていい。それで母を好きだったことはなくならない。なぜなら、自分がおぼえておくから。だから、榊は幸せになっていい。
私には、直達がこう言ったように思えました。
この直達の言葉に、榊は海でのものとはまた違う涙を流します。

ずっと 怒ってた自分をいなかったことにしてたのは私自身だったのに
こんな気持ちになるなんて思ってもみなかった
見つけてもらえてうれしい
(3巻 p64,65)

榊がずっと押し殺して目を逸らしてきた、母を嫌い、母を好きだった気持ち。それを見つけてくれた。それがあっていいと言ってくれた。認めてくれた。そのことが、涙が出るほどうれしかった。
「好きな人ができたらわかる」という母の言葉を榊は雑音と言い、それは一生消えないのかもと自嘲交じりに独白しますが、「雑音とともに生きてやる」と決意します。

右手に雑音 左手に約束
もう どこへもいけないような気分は おしまい
(3巻 p66)

雑音とは、過去に母から投げつけられた言葉。
約束とは、ずっとおぼえているといってくれた直達の未来への誓い。
過去と未来。両方を手にしたことで、母と別れたあの時にずっと縛りつけられ、どこへも行けなかった榊は、新しい一歩を踏み出せるようになったのです。

最高のハッピーエンドだな

こうして、榊の過去の清算はひとまず済み、彼女は子供から抜け出せるようになりました。
そしてさらに一年。お互いの思いの変わっていなかったことを確かめた榊と直達は、「最高の人生にしようぜ」と誓い合い、二人で幸せを作っていくことを決意しました。榊の裡でどこにもいけずに渦巻いていた水は、ここで外に海に向かって流れ始めたのです……。
最高のハッピーエンドだな。
こうして、母への愛情と怒りにとらわれていた榊の心が、未来に向けて流れだすまでを読み解いてみました。
先にも書いたように、説明的なセリフほとんどなしに、ここまで繊細に揺れ動く心理を描写することに、うっとりしてしまいます。
さて次回は、もう一人の主人公である直達について読み解いてみたいと思います。どうぞよしなに。



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*1:現実世界では不自然かもしれないけれど、物語の中で語られる分にはひっかからずに読める、ということです。