『君が肉になっても』「君」の名は……の話

先日レビューした、とこみち先生の『君が肉になっても』。
yamada10-07.hateblo.jp
その中では触れなかったんですが、このタイトルについて、ちょっと考えたことがあります。
それは、この「君」ってだれのこと?という疑問です。
普通に考えれば「君」は、肉の塊になったまきで、そう呼びかけているのがひななのでしょう。君がたとえ肉に、バケモノになってもそれでも私は一緒にいる、最後までずっと一緒にいるよ、という、物語の終盤をひなから見たタイトルです。グロくも悲しく美しいタイトルですね。
ですが、これを逆転させることもできそうだと思うのです。すなわち、まきがひなを「君」と呼び掛けているのではないかと。
そうすると、君にが肉になるとは、ひなが肉に、つまり、バケモノになったまきの食べ物になる、ということです。実はこの作品、タイトルの英訳も"Even if you become meat"で、"meat"とは、魚肉や鶏肉と区別した食用の肉を意味します。それを踏まえると、"become meat"とは、食べ物になるということ。たとえ君が食べ物になったとしても。このタイトルは、生命を貪り食うバケモノになったまきの視点であってもおかしくなさそうです。
であれば、「肉になっても」の続きはなんでしょう。ひなが食べ物に見えても私は食べない? ひなを食べてしまっても私たちは友達?
最終話で、もう私を食べてもいいよと言うひな。ひながいなくなったら生きていけないというまき。人間でいるときのまきの気持ちはそのとおりなのでしょう。ひなを食べるなんてとんでもない。でも、ひとたびバケモノになったとき、そこにひながいたら、まきは捕食を止められるのでしょうか。それはおそらく否。もっと小さく、飢えがそこまででなかったときでさえすんでのところでひなを助けたに過ぎないのに、しばらく生命を食べていない状態でひなを見つけたら、理性が仕事をするとは思えません。
だからきっと、もしそのときが訪れたらまきはひなを食べるでしょうし、それをしてしまったまきは、自分で言ったとおり、もう生きていくことはできないでしょう。
そしてたぶん、そのときが訪れるのは、ひな自身の考えによるもの。もう限界になったまきの前に、自らを差し出すひながありありと想像できます。ネコよりはまきで、他の友達よりはまきで、自分で誰かに手をかけるよりはまきで、と天秤を傾けてきたひなが、最後にもう片方の皿へ自分自身を乗せることは、物語の中の彼女を考えると実に自然です。
さらに言うなら、まきはそれすら想像してるんじゃないかなと思います。きっと、ひなは自分に彼女自身を食べさせる。自分は彼女を食べずにはいられない。そして元に戻れば後悔と自責(と実際的な食糧不足)でそのまま死ぬ。最後にひなを食べて、そのまま。
だから私は思います。まきから見たタイトルの続きは、「君が肉になっても」ずっと一緒だよ、なのだと。奇しくもそれは、ひなから見たタイトルの続きと同じです。少し違うのは時間軸。ひなが見ているのは物語の終り。まきが見ているのは物語が終わった後。
本編最後のページで、手をつないでこちらに背を向けて歩く二人。その歩みはたぶん同時に止まれないのですが、それでも二人は一緒に歩くし、最後まで一緒なんですよ。最後まで。
何度でも言いますけど、救いがないのに穏やかな終わりって、最高ですね。



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