『ショート・ピース』監督の「想像の域を出」る魅力と、「本音」の肯定の話

前回の記事でレビューした『ショート・ピース』。
世界よ、この素晴らしき人間たちに喝采を 『ショート・ピース』の話 - ポンコツ山田.com
そこでの置き土産で、人が根っこのところで抱えている感情の肯定と、主人公キヨハルの「映画が俺の、想像の域を出ない」という言葉についての関連性についての話を残していました。今回はそれを掘り下げた話。
ショート・ピース(1) (ビッグコミックス)
さて、上でも挙げた「映画が俺の、想像の域を出ない」というキヨハルの言葉。この言葉は妙に私の心に刺さったのですが、これは第5話にて、写真家の父を持つ男子高校生にカメラを持たせて撮影をさせた後に出たセリフです。
その高校生・服部要は、著名な写真家である父を持っていますが、父は家庭を顧みることなく仕事仕事&仕事、妻や息子(すなわち要)が病気であろうと入院しようとかまわず仕事に出かけてしまう仕事一筋の人間で、それ以外の姿を見せぬまま客死し、そんな彼の背中しか見られないで育った要は父を憎み、将来人と変わらない仕事をしようと心に決めました。
けれど、たまたま林間学校で撮った写真をキヨハルに見られ、お前にはカメラの才能があると、強引に撮影に誘われました。写真家であった父を憎んでいる要のこと、当然勧誘を拒絶しますが、無理やり渡されたキヨハルの過去作品を見て心揺さぶられ、自分に才能があるといったキヨハルの真意を知りたく思い、撮影に参加することにしたのです。
撮影当初は、たった数枚の写真の出来がたまたま良かっただけなんじゃないかと、要の腕に半信半疑だった映研部員も、実際に彼の手によって撮られた作品のカメラワークに驚嘆し、誉めそやしますが、要を誘った当のキヨハルはなぜか気の抜けた顔。撮影中止をつまらなそうに宣言し、そそくさと帰り支度です。こうなったら聞かない彼の性格を知っている部員たちは、諦めて素直に撤収作業を始めますが、要だけは理解できません。「僕の撮った映像に何か文句があるのか」と食ってかかりますが、キヨハルは即座に絵コンテを切って、要も納得せざるを得ないほどのより良いカメラワーク案を溢れさせます。そして、ぐうの音も出ない要が悔しまぎれに言った「君が自分で撮ればいいじゃないか」というセリフを受けての、「映画が俺の、想像の域を出ない」なのです。
少し長くなりましたが、これがこの言葉が出た文脈です。この言葉がどうして、人が根っこのところで抱えている感情の肯定につながるのでしょうか。
そもそも映画とは、一つの作品を完成させるために非常に多くの人間がかかわる媒体です。脚本を作り、舞台に相応しい場所をロケハンし、許可が必要なら取り、登場人物にふさわしい役者をキャスティングし、スポンサーを集め、カメラマンや照明、録音など、表に出ずとも撮影に必要となるスタッフを集め、カメラの前に立つ役者には衣装をあつらえ髪形を整え、撮り終ればそれを編集し……と、ざっと思いつくだけでもこれだけ出てきますから、実際にかかわっている人から見れば、もっとはるかに膨大な人員が挙げられるのでしょう。それがプロではなくアマチュアでも、小説や漫画、音楽といった他の媒体に比べ、圧倒的に多くの人間が必要なことに変わりはありません。
多くの人間がかかわる以上、そこにはそれぞれの思惑というものが、意図したものであれ偶然であれ、顔を出します。脚本をどれだけ読みこんで、監督の指導を受け、その通りに演技し、カメラを回し、音をかぶせ、光を当てようとも、書いた脚本家やそれに基づいて作品を構成する監督当人でない以上その解釈には振る舞う人間の主観が混じります(そも、脚本家や監督当人でさえ自分の脚本や構成を全て理解しているわけではないでしょうし)。それゆえ、作られたものには、監督の意図していなかったものが必ず混じります。それはもう、複数人で制作している以上宿命的に。
意図しなかったものが混じる。にもかかわらず、キヨハルの想像の域は出ない。それはどういうことなのか。
思うに、人が想像できることとは、理の内側にあるものだけなのではないでしょうか。
理。それはたとえば科学のように、ある一定の条件下では常に適用できる法則や体系です。人はその法則や体系を構築することで、一定の知識や技術に一般性を持たせ不特定の多数の人間に同水準のものを学べるようにし、また学ぶ側は自分一人で考え編みだすよりも遥かに速いスピードで、一定の水準に達することができます。そのサイクルによって、人間は飛躍的な技術の発展を可能しました。
ですが、その理は、「常に適用できる法則や体系」であり、「不特定多数の人間が同水準のものを学べる」のであるため、その理を知っている者の間では、理にしか基づいていない産物はその形を容易に想像できるものとなってしまいます。つまりは、「想像の域を出ない」。
事実、キヨハルにダメ出しをされる直前の要は、他の部員がベタ褒めをしてくれている自分のカメラワークに対し、「何ミリ単位の工夫」「構図を記号化して最も美しく映える画を消去法で見つけ出す」とその要諦を述べていますが、それこそが理です。言語化された技術こそ、他者に伝達可能であり、共有可能な理なのです。そして、それが理であるがゆえに、キヨハルにはそれが「想像」できてしまいます。1巻時点で明確な描写はありませんが、第4話でひかりが演技を模した役者を即座にいくつも挙げているあたり、彼は自身の天賦の才だけでなく、既存の技法や作品、役者について人並み以上の勉強をした上で監督・脚本をしているのでしょう。だから、即座に言語化できる程度の勘やセンスに基づいた技巧(=理)だけで撮られた要のカメラワークなど、「想像の域を出ない」。自分の知っている理の範疇に収まってしまう。
ならば、「想像」を越えたものを生み出すにはどうすればいいのか。キヨハルを納得させるためにはどうすればいいのか。
理を越える。一言でいってしまえば、それです。
理。それは一般性を持たせたもの。不特定多数の人間が学べるもの。ならば理を越えるとは、一般性がない域、不特定多数の人間には共有できない域まで行くということです。
ここで、当初のテーマにリンクします。そう、「人が根っこのところで抱えている感情」です。作中の言葉で簡潔に言えば、「本音」ですか。
人が生きる中で、様々な人に会い、様々な目に遭い、様々な思いを抱く。そうして培われる、他の誰とも共有できない、他の誰にも模倣できない、芯となる感情、思い、「本音」。それが、理を越えたところで発露するものに、キヨハルは強く反応するのです。
たとえば要の、人間への執着。
たとえばひかりの、演技そのものへの好きという気持ち。
それらは理として他者に伝達可能なものでなく、当人の中で渦巻くしかない感情です。けれど、それらが演技やカメラワークという形で表出するときに、理と混ざり合い、理だけでは到達できないものが生み出されます。それこそが、「想像の域を出」るもの。キヨハルが求める、その人の「本音」であり、「そうさせた衝動」です。
こうして、キヨハルが「想像の域を出」るものを求めることと、人が根っこのところで抱えている感情への肯定がつながります。キヨハルの作品は、それにかかわる人間が根っこに抱えるものを衒わず怯まず発露し、「本音」をさらけだすことを求めるのです。
ここまで書いておいてなんですが、もちろん、ただ「本音」をさらけだしただけでいいものができるわけではありません。そのプリミティブな感情がどれだけオンリーワンであっても、それを他人が受け入れられる水準で形作るには、相応の理が必要となります。深く掘り下げれば掘り下げるほど、他者と共有できず模倣もできないのが「本音」というものである以上、演技やカメラワークなどの形で他者に向けて理解できるよう表現するためには、そのためのツールである理が不可欠です。理と「本音」の高度なマリアージュこそが、キヨハルをして「魅かれた」と言わしめるものなのです。
本作を読んだ後に湧いてくる爽快感は、人間へのこのような視線が大きく関係していると思うのですね。


さて、1巻時点では、フォーカスされたキャラクターは要にしろひかりにしろ、基本的に才能のある者、すなわち「本音」以外に理も備えた人間なのですが、映研にはそうではない(少なくともそういう描写のない)、普通の高校生レベルの高校生が所属しています。彼や彼女が今後どういう風に描かれるのかも、注目していきたいところです。2巻はいつになるんだろう……



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