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漫画の話です。

『ど根性ガエルの娘』作品の外に実在する登場人物とそこから生まれる奇妙な面白さの話

1月20日の夜、にわかに私のtwitterのTLが騒がしくなりました。多くの人がある作品について語り、また感想のリツイートをしだしたのです。
その作品とは『ど根性ガエルの娘』。同日に第15話がアップされると、その内容に衝撃を受けた人が非常に多かったようです。
ヤングアニマルDensi ど根性ガエルの娘/大月悠祐子

同作は、70年代に一世を風靡した漫画『ど根性ガエル』の作者、吉沢やすみ先生を父に持つ、漫画家の大月悠祐子先生によるエッセイ漫画です。
「お父さんは大ヒット漫画家で、でも漫画で苦しんで荒れて、家族は…」という作品解説のページにあるように、若くして大ヒット漫画家になった吉沢先生ですが、『ど根性ガエル』連載終了後はヒットに恵まれず生活が低迷、周囲からのプレッシャーなどから筆を握ることすら困難になり、82年の秋には家族がいるにもかかわらず数か月間失踪してしまいました。もともと人格者と呼べるような人間ではなかった同氏、帰ってきた後も生活は楽ではなく、家族関係もボロボロ。それでも、家族は少しずつ再生していって……という過程を、娘である大月先生の視点を通して描いているものです。
初めに白状しておくと、私は連載媒体であるヤングアニマルDensiを見ていたので、同作の存在自体は知っていたものの読んだことはなく、『ど根性ガエル』の作者の娘の家族エッセイ漫画だという概要すら知りませんでした。TL上でのフィーバーを見て、既刊分はほとんど掲載終了となっていたものの1話から読めるだけ読み、最新話の15話を読んで、そしてまた1話を読みなおして、「こりゃあ騒ぎにもなるわ…」とため息をつきました。とびとびに読んだ私ですらそうなのですから、ずっと追っていた人にとってはさぞ衝撃的だったことでしょう。
さて、物語の内容についてここで具体的に述べることはしませんが、私が今回の件で興味深く感じたのは、本作がエッセイ漫画であるという点です。つまり、本作の登場人物は基本的に作者自身を含む実在の人物であり、描かれている出来事も、作り手の主観的なものであれ、実際にあった(と少なくとも作者は思っている)ものだということなのです。少なくとも読み手は、そう前提して読みます。それがどういう効果を生んでいるかといえば、読み手がエッセイ漫画を読んでその物語に衝撃を受けたとき、物語それ自体から受ける衝撃に加えて、そのモデルとなった実在の人物が、物語と同じ(少なくともそれに近い)目に遭っているということにも衝撃を受けていると思うのです。

作品の内側の登場人物と、外側に実在する登場人物=作者への、二重の感情移入

普通の作品であれば、明示されたり、あるいはあからさまにモデルとなっているのがわかる実際の事件や人物がいない限り、読み手はそれを架空の作品だと前提して読みます。もちろん作品の一から十まで作り手が生み出したと信じ込むことはせず、何かしらのヒントやモチーフはどこかで拾ってきたと思うでしょうが、作品内で起こった事件や登場人物に、そっくりあてはまるような実在のものがあるとまでは考えないでしょう。
そういう場合読み手は、楽しさであれ悲しさであれ怒りであれ名づけようのない何かであれ、読んでいて心の裡に強い感情が生じることもあるでしょうが、その感情自体は作品そのものにのみ向いています。たまたまある読み手の知識の中に、作品に類似した人物や出来事があれば、それに関連付けて感情が動くこともあります。ですが、言ってみればその感情は、作品とつながるものではあっても、作品に重なるものではありません。並列的に存在する感情です。
けれど、その作品に具体的なモデルがあるとわかる場合、しかもそれが作者自身やその周辺人物である場合、さらに言えば作品内の事件が悲劇的なものである場合、作品だけでなくそのモデルとなった実在の人物へも感情移入してしまうと思うのです。「この人は、私がこんなに衝撃を受けた事件に、実際に関わった人なんだ」と、感情移入が二重写しのように重なり、増幅してしまうのだと。少なくとも、私はそう感じてしまいました。そういうところに強い感情、ある種の楽しさを見いだしてしまうのは、いささか倒錯的という気がしないでもありませんが、してしまうのだから仕方がない。
もしこれが、たとえば史実をモデルにした作品や第三者による伝記などのように、描かれている作品にモデルと作者が直接的に関係がなければ、この感覚も薄いと思います。作った人と描かれた人が別人であれば、それはあくまで、具体的なモデルを出所のはっきりしたところからもってきた作品でしかありません。辛い出来事を辛い目に遭った人が他人に理解できるように自ら再構成する、というなにかのカウンセリングのような所業が内包する、切実さ、切迫感は、そこに存在しないのです。
これでふと思ったのが、もし仮に『ど根性ガエルの娘』を完全に架空のものだという前提で読んだらどう感じるだろうか、ということです。つまり、作中の主人公は作者自身でなく、主人公(=作者)の父とされる漫画家も現実には存在せず、その漫画家が描いた大ヒット作も存在しない、「漫画家を父に持った娘が自分の家族を自伝的に描いた架空の作品」だとして読んだら。おそらく、面白さや15話の衝撃は変わらずとも、感情移入の二重写しは起こらないでしょう。他の一般的な作品と同じ意味での、面白さであり、衝撃。もちろん、感情移入の二重写しが起こった方が上等だとかそういう意味はなく、あくまでそういうものだという話で。

作品の外側で競合する、二つの異なる物語

また、本作が実在の人物による物語だという側面において、さらに話が複雑になるのは、作者の大月先生には実弟がいて、その彼にインタビューがなされた別の漫画家による作品では、大月先生が見ていた現実とは違う現実が語られている、という点です。
【田中圭一のペンと箸−漫画家の好物−】第八話:「ど根性ガエル」吉沢やすみと練馬の焼肉屋
これは田中圭一先生による、漫画家の家族に食にまつわる話をうかがうというインタビュー漫画の第八話なのですが、直接大月先生の作品と関係はないものの、そこで実弟の口を通して(さらに田中先生の筆を通して)語られている吉沢家の姿は、『ど根性ガエルの娘』と読み比べたときに混乱してしまうようなものです。
実在の二人の人物から語られる、一つの家族に関する二つの異なる姿。これを、どちらの語る家族像が正しいのか、と部外者が答えを見つけようとすることに意味はないでしょう。それを確かめる術はありませんし、仮にあったとしても確かめてよい筋合いはありません。
大月先生が語っていることも実弟が語った(田中先生が描いた)ことも、そこには当人の記憶というフィルターがかかり、さらにはそれを漫画として再構成するという作業も経ているのです。記憶には記銘(情報の入力)・認識(情報の保持)・想起(情報の出力)という三段階がありますが、そのどの過程でも容易に情報は変質し、さらには想起した先で漫画化するという、都合四つのフィルターを通して、二つの家庭像は描かれているのですから、どちらかは正確な家庭像で、もう片方は偽物だとは、とてもじゃないけど言えません。
それに、実際大月先生には家族がこう見えていて、実弟にはそう見えていた、という可能性もあります。人は無意識のうちに、現実を見たいように見て、見たくないものは視界に入れようとしない生き物です。ある一つの家族があって、その中にいた姉は自分の見たいように見た結果あのような家族像になり、弟もまた同様である、ということは十分にあり得ます。
まるで芥川の『藪の中』ですが、「真実の家族像」などというものも、部外者にとっては藪の中にとどめざるを得ないのです。
作品自体の外側で図らずも生まれた、エッセイ漫画がゆえの物語の重層化。異なる家族像が見えてしまったからこそ意識された、「真実の家族像」という不可触の答え。それが、本作に奇妙な味わいを与えています。お願いだからさらにお母さんに話を聞いて漫画化するのはやめような。

最後に

ともあれ、作品内部への作者自身の当事者性や、実在の登場人物による異なる物語の提示などの、『ど根性ガエルの娘』という作品それ自体から離れた要素によって、本作に、一般の作品ではありえない、ある種異様な楽しみ方が生まれていることは事実でしょう。ともすれば、文学理論や批評理論のモデルケースにもなりそうな、本作とそれを取り巻く状況。内容はもとより、その点でも非常な面白さのある作品だと思いました。



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