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『アウトレイジ最終章』『銀河の死なない子供たちへ』死ぬことの恐怖の話

つい先日、友人に誘われて、『アウトレイジ 最終章』を観てきました。実のところ、1も2も観ていないでいきなり最終章から観るという非常に罰当たりな観方をしたのですが、これが案外楽しめました。事前にウィキペディアで1と2のあらすじを読んでおいても人名や組名が羅列されているためにさっぱりわからず、上映直前に友人から改めてあらすじを教えてもらっても、説明している友人自身細部の記憶があやふやで、最終的には、関東のある組が関西のある組を事実上傘下に収めている、日本だけじゃなく韓国の人間や組織も登場する、ということだけが頭の中に入っていたにすぎないのですが、意外に楽しめました。もし1,2を観ずに最終章だけ観る奇特な人間が他にもいるならば、とりあえず上の2点だけ頭の中に入れておくといいと思います。いるかそんなやつ。
さて、承前をほとんど理解できていないストーリーに、複雑な人間関係、乱舞する人名や組名などの固有名詞などにもかかわらず、それなりに楽しめたのかといえば、一種爽快ですらあった粗暴さのためなのですな。暴力や罵詈雑言、権謀術数、金の力、特殊性癖、人間関係の確執などなど、人間が健全に生きようと思えば、存在することは否定できなくとも隠しておいた方がいい諸々を、なんの衒いもなく(あるいはこれでもかと衒って)描いている画面は、嫌悪を飛び越えていっそ爽快にまで針が振り切れたのです。
吹き荒れる暴力は平気の平左でやくざたちを殺しまくります。デリヘルで因縁をつけられたやくざは揉め事の末にアイスピックで刺し殺され、鉄砲玉になったチンピラは相手を撃ち殺した果てに自分も撃ち殺され、権謀術数に巻き込まれた下っ端はわけもわからず撃ち殺され、とあるパーティー会場に居並んだ大勢のやくざたちも前触れなく撃ち殺され。まあ人が死ぬんです。
で、人が死にまくるのを見て、思ったんです。死ぬってどうなることなんだろうって。
言ってみればそんなのは、はしかと同じで誰もが一度は罹る疑問。私だって子供の頃に、自分が死んだあと、こう考えている自分(の意識)はどうなってしまうのか、どこへ行ってしまうのか、無くなってしまうのか、無くなってしまうとはどういうことか、無くなってしまったら無くなってしまったこと自体がわからなくなるのではないか、無ってなんだ、そして自分が死んだあとの世界はどうなるのか、今と変わらず続いていくのか、自分が死んでも世界は変わらないのか、じゃあ自分が生きていても何も変わらないんじゃないか、自分が生まれた意味ってなんだ、などと考えて、どうしようもな恐怖に泣きそうになったことがあります。みんなもあるよね?
で、いい歳こいてまたはしかに罹ったわけでもないのですが、恐怖に震えはしなくても、やっぱり不思議に、というか、純粋に疑問に思ってしまったんです。死ぬって何だろうって。
劇中で死んだやくざたちは、痛みの中でじわじわ死んだ奴もいれば、直接的な死因は一瞬でもそれに至るまでにそれなりの時間、絶対に逃れられない死の恐怖を味わい続けた奴もいるし、逆に訳の分からないまま一瞬で死んだ奴もいる。なんであれ、その時に何を思っていたのだろうか、ということなんです。
致命傷を受けて助けを呼ぶこともかなわず、緩慢に近づいてくる死を実感している人間。
口の中に詰められた爆薬に繋がる導火線まで火が近づいてくるのを見つめることしかできない人間。
破裂音を聞いたと思ったら内臓が銃弾に貫かれていた人間。
もう死ぬと実感したときに。死ぬことから逃げたくても逃げられないときに。あれ、俺死ぬの?と思ったときに。いったい何を思うのか。
それが気になってしまうのは、死んだら、そう考えている自分の意識はどうなってしまうのか、という疑問が私自身にあるからで、意識が無になる=もうその先に何もない、ということがうまく呑みこめないのです。宇宙の始まりの前には何があったのか、というのと、ベクトルは正反対ですが、同じ性質の疑問かもしれません。その前/後なんかない、ということが、よくわからない。というか、やっぱりそれが怖いのかもしれない。
死ぬことが怖いんじゃない。死んだあとに何もないのが怖い。
死んだあとがない=そこで終わり=無という感覚が怖いから生み出されたのが宗教である、というのが私の雑な宗教観です。死後の審判も、天国や地獄も、輪廻転生も、死んだらそれで終わりじゃないことにしておきたい人間の恐怖から出たものだと思ってます。
つまり、裏を返せば、死なない人間には宗教が生じる余地はないとも言えます。死んだ後の恐怖を考えることがないから、死んだあとの救いを考えておく必要もない。そもそも死なないのだから、死後も天国も地獄も輪廻転生もなにもない。


さてここで、前回の記事 でレビューをした『銀河の死なない子供たちへ』に絡めてみましょう。
作中に登場するπ(パイ)、マッキ、そして二人の母親は、死にません。比喩でなく死にません。津波に呑まれても、クジラに呑まれても、首を吊っても、ハイエナに体中を喰いちぎられても、何万年時間が過ぎても、死にません。
そんな彼女らも「死とは何か」を考えるのですが、その疑問は死すべき私たちとは違うものです。

人間はあんなにたくさんのことを考えたり書いたり物を作ったり壊したりしていた… みんな例外なく死んでいるのに あるいは死んでいくからか
まだ死んでいない人間に会って直接聞いてみたいんだよ いずれ死ぬことについて 死なないことについて
(p52)

死なない人間(?)にとって、死は何ら恐怖ではない。自分にとって無縁だから、ただ単に、ひたすらに、わからないもの。それはたとえば、人間がトンボなどに複眼の見え方をきくようなものでしょうか。単眼二つで物を見る人間には、複眼の見え方は無縁なものです(バグズ手術でも受ければ別ですが)。わからない。ただ単に、ひたすらに、わからない。
死なないままに生き続ける彼女らは、永遠の観察者です。死というものに参与できないので、ひたすらそれを観察するしかない。もう他に人間がいない地球上で観察できるものは、言葉を交わせない(緻密な意思疎通ができない)野生の生物か、さもなければ人間が遺した書物だけです。
そんな人間が死についての疑問をどのように考えているのか、そもそもなぜ死を疑問に思っているのか。それもまた、死ぬべき私たちにとっての疑問です。
たぶん私は、根を詰めて考えたら尋常じゃなく怖いのに答えが絶対出ないことがどこかでわかってるから、死についてどっぷりと向き合うことから避けているのでしょう。でも、現実の出来事や、波長の合う創作物に出会ったときに、ふと考えてしまう時があります。まあ布団をかぶって震えない程度には、考えるべきときに考えておけたらなと。



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