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『ヴィンランドサガ』ヒルドの赦しと「孤独な寛容」の話

トルフィンが自らの犯した罪と向き合わなければいけなかった『ヴィンランドサガ』17巻。

かつてバイキングに家族を皆殺しにされた娘・ヒルドが、両足を撃ち抜かれ身動きの取れなくなったトルフィンの前に立ち、彼に殺された父の復讐を果たすべく、弩の引鉄に指をかけました。しかし、トルフィンの旅の同行者であるエイナルやグズリーズの必死の説得とトルフィン自身の嘆願を振り切るようにして撃った矢は、虚空を射抜いていました。撃った瞬間にあらぬ方向を向いた弩は、ヒルドの心の中に生きる父と狩りの師匠が狙いを逸らした。彼女にはそう感じられました。
ヒルドは彼らに問いかけるようにして、自問します。

「赦せ」とおっしゃるんですか……?
こいつを この最も赦し難い男を……
(17巻 p184)

彼女の見た父と師匠は、彼女が作り出した幻影です。彼らが示したものが彼女の自覚する意図と異っていようとも、その示したものとは彼女の無意識が求めているものに他ならないのです。幻視によって突き付けられた自問の後に、今度はトルフィンに問いかけました。

「………… …………
どうやって償うつもりだ」
「……!
国を……作ります 平和な国を
私が壊した平和よりも平和な国を作り そこで私が殺した人々より多くの人の命を育みます ヴィンランドという…… 未開の新天地に」
「………………バカバカしい 私の家族が生き返るわけじゃない そんなことが私達への償いになるのか?
…………………………………………やってみせろ
この怒りを憎しみを お前の平和の国とやらで打ち消せるというのなら やってみせろ
私は勝った お前の命は私のものだ だがしばらくお前に貸しておいてやる
今日からお前を監視する お前が口先だけの男だと私が判断した時 その頭に矢をブチ込む!! わかったか!!」
(17巻 p185〜189)

トルフィンを生かしておきたくはない。家族の敵を。父を目の前で殺した男を。でも、殺してしまうことに心の奥底で歯止めがかかる。それはいけないと何かが叫ぶ。そのぎりぎりの折衷として彼女は、トルフィンをとりあえず生かし、彼の目指すものが自分らへの償いになるのであれば赦すこととしました。
この、怒りの炎に燃やし尽くされそうになりながらも、トルフィンを仮にとは言え赦したヒルドの姿。ここに何かもやもやとしたものを感じていたのですが、昨日たまたまEテレで見た100分de平和論の再放送の中で発された、「寛容論は孤独な言葉」というセリフを耳にして、色々なことがパズルのピースのようにはまっていきました。
「寛容論は孤独な言葉」とは、ある加害行為に対して被害者やその身内・所属集団が報復を考えることは、社会的には自然なことであるので、被害の当事者である個人が理性でもって報復を止めるというのは、集団や社会の志向と外れることであり、それゆえに報復を止める寛容性とは孤独にならざるを得ないのだ、ということです。
罪に対する罰は、あらゆる先進国で刑法という名前で形式化されています。抑止力として、あるいは応報として、罪に対する罰は社会を適切に維持するのに必要であると、少なくともないよりある方が社会運営が良好に行えると判断されて、報復行為は正当化されているのです。無論その報復は、私人によるものではなく、国家による公的な暴力行為なのですが、行為の主体は違えど、罪に対する罰である以上、それは報復に違いありません。社会は報復を必要なものとして自らの内に取り込んでいます。ゆえに、個人が報復を止めることは、罪に対して寛容を発揮することは、社会の志向に背くことであり、孤独にならざるを得ないものなのだというのです。
番組中では、この言葉に続いて去年起きたパリ連続テロ事件にも触れていました。事件の後、妻を喪った男性がメッセージを発表しました。その中で彼は「決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。」と言い、復讐の連鎖を止めることを堂々と宣言するその声明が世界中で絶賛されたのはご存知の通りです。
しかし私は、当時からこの流れに違和感を覚えていました。男性のメッセージにではありません。メッセージを絶賛し、素晴らしいその通りだと騒ぎ立てる周囲の人たちにです。その違和感の正体が、今までずっとわからないままだったのですが、昨日わかりました。「寛容論は孤独な言葉」であるはずだからなのです。
男性が発したメッセージ、私は憎まない、復讐をしないというメッセージは、彼が妻を不条理に喪った怒りと悲しみに臓腑を捩じ切られそうになりながら、それでも歯を食いしばるようにして絞り出した言葉であるはずです。被害者が、集団が、社会が、凶行に対して報復をしようという激情のうねりが巻き起こる中、自らの内でも同様に燃え上がるそれを必死に理性でねじ伏せた末に、発された言葉なのです。
それを、直截的な被害に遭っていない周囲の人間が、素晴らしいその通りだとさも共感したかのように持て囃すのは、何かおかしいと思うのです。無関係な人間がほめそやしたその騒ぎは、ひどく無責任に感じられました。あなたのその寛容はどこから生まれたのか。瞬間的に感情が燃え上がった後に残った、吹けば飛ぶような灰ではないのか。その寛容に芯は通っているのか。あなたの親が、家族が、妻が、夫が、子供が、友人が殺されてもなお保つことのできる寛容なのか。男性の言葉の重さと、周囲の狂騒の軽さ。その対比はいっそグロテスクでさえありました。
身も心も燃やし尽くされそうな激情を抱えてなお理性で寛容を選びとることは、とてつもなく難しく、とてつもなく崇高なことであるだろうと思います。でもそれは、崇高で、そして孤高なのです。余人が迂闊に共感などできないし、ひょっとしたら共感しようとすること自体畏れ多いことなのかもしれません。
さて話は『ヴィンランドサガ』に戻って。
ヒルドは激情に駆られていました。殺意に駆られていました。それでも彼女は、トルフィンを(仮に)赦すことにしました。このときの彼女の寛容、それは孤独なものです。エイナルにも、グズリーズにも、もちろんトルフィンにも、矛を収めた彼女の内心をうかがい知ることは出来ません。彼女もまた、勝手に忖度されることを許さないでしょう。彼女の寛容は彼女だけのものです。誰かに認められるために、誰かと共有するために赦すわけではありません。その明確な理由はわからなくとも、赦さないわけにはいかないから、赦さざるを得なかったのです。
激情の果ての寛容。共感を求めない孤高の寛容。トルフィンを赦したヒルドは、まさに「寛容論は孤独」を体現していたのです。
さて、そんな彼女の姿とダブったのが、人間には愛がないことを悟ったときのクヌートでした。彼もまた、愛を失った人間に激しい怒りを覚えていたのです。

智を得て かわりに失ったもの
最も大切なもの そしてしれは
生ある限り私達の手には入らぬもの
手には入らぬ それでも
それでも追い求めよというのか! 天の父よ!
(6巻 82〜84)

毒キノコを食べて狂乱状態に陥ったビョルンでさえも怯ませた、クヌート王子の怒り。その怒りを受け容れて、地上に楽園を作ろうとした彼もまた「孤独な寛容」の道を進むものだと思うのです。
で、そんなクヌートと愛に関する話はまた次回ということで。



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