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『GIANT KILLING』ハレの場であるスタジアムの話

雪辱に燃える大阪ガンナーズとの、一進一退のアウェー戦が描かれる『GIANT KILLING』35巻。

GIANT KILLING(35) (モーニング KC)

GIANT KILLING(35) (モーニング KC)

既に35巻の長きにわたる連載ですが、相変わらず、読んでいて相手に点を許せば愕然とするし、こちらが点を入れれば興奮する。まるでスタジアムにいるかのような臨場感はいささかも衰えません。
スポーツ漫画を特段読むわけではないのですが、それでも本作の、ゴール決まってうれしい!ゴール決められて悔しい!という感情の強さは、頭一つ抜けているものだと感じます。では、本作の一体どのような点が、そのような臨場感をもたらすのでしょうか。
なにより重要なのは、特に点を決めたシーンですが、シュートをしたプレイヤー、周りのプレイヤー、監督やコーチ、そして観客らと、試合に関わっている人たちがみな、点が決まったその瞬間に、身も蓋も無く心からの大喜びをしているシーンをきっちり描いている、ということでしょう。やはり、漫画を読んでいてある感情が読み手の中に湧出するときというのは、作中でもそのような感情が描かれているときです。登場人物たちが思いっきり喜んでいるから、読んでいる私たちも喜べる。感動に身を打ちふるわせているから、私たちも思わず涙をこぼす。そのような感情の動きは、極めて自然なものです。
そして、また重要なことは、本作はサッカーの試合をまさに興業の試合として描いている点です。ただプレイヤーたちがボールを蹴り合うだけではなく、指導する人がいて、戦術を立てる人がいて、試合をセッティングする人がいて、取材をする人がいて、応援する人がいて、と、一つのボールの周りを十重二十重と取り囲んでいる人間たちがいて、その結晶として一つの試合が行われていることがわかるのです。
では、それらが何を意味するのか。
それは、サッカーの試合という興業が、日常から離れた、ハレの場であるということです。
現実では、人前で感情をおおっぴらにする機会はあまりありませんし、そもそもそうそう許されるものでもありません。泣くでも笑うでも怒るでも悔しがるでも喜ぶでも、それをするときにどうしても一目は気になりますし、場を弁えた感情の表出にならざるを得ないものです。連続性のある日常であるケの場では、その連続性を脅かすような、極端な感情表現は好まれません。
ですが、日常の生活の場から離れ、スタジアムという特別な場に赴き、普段の服を脱ぎ捨ててユニフォームを身に纏う。そこはもう、ハレの場、日常から乖離した祝祭の会場です。いくら大声を出しても、いくら感情を爆発させても、それがその場のルールに則ってさえいれば何も問題ありません。
頬にペイントを施し、見知らぬ人と肩を組み、大声で歌を歌う。そんな、日常ではありえない光景も、スタジアムに行けば容易にみられるものです。選手も観客も、決まったゴールには大声で歓声をあげていいし、相手に決められれば絶望に呻いてもよい。それが許されるのがスタジアムなのです。
ハレの場であるスタジアムを漫画の中で成立させているからこそ、選手やサポーターたちの感情の爆発が素直に受け入れられ、同時にその感情を我がものとして、あたかも自分もスタジアムの観客席にいるかのように感動する。他にもいろいろあるかとは思いますが、これが一つの要因として、『GIANT KILLING』の感情移入の大きさが生まれているのだと思います。シーズンも終盤に差し掛かり、どんな結末が待っているのかいよいよ期待が高まるところですが、きっとどのような結果であれ、私はそれに深く没入しているのでしょう。マジ楽しみ。


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