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漫画の話です。

『わがままちえちゃん』歪んだちえの現実と彼女の理の話

先月発売された、志村貴子先生の『わがままちえちゃん』。

主人公の夢と妄想と幻想がシームレスに錯綜するこの作品は、一読してどう解釈していいかわからないものとなっています。それをどう読み取ればいいのか、私なりに考えてみたいと思います。当然読んでいること前提ネタバレ上等の記事となりますので、さあ未読の方は本屋に走るかamazonでポチるんだ。




さて本題。
唐突ですが、すべて人は合理的に行動するものだと私は思います。ただ問題なのは、その理が必ずしも万人に共有されるものではないことです。ある人の行為が、他の人間の目には不可解なものに映っても、その当人にとってはきちんとそうする理由や理屈がある。合理性がある。でも、それが他の人間には見えないから、不合理なもの、不可解なものと思ってしまう。
本作の主人公・ちえも、私たちの目にはそう映っているのだと思います。事実と妄想・願望が混淆し、幻想や幻聴に囚われ、浮世離れした行動に走るちえ。それを叔母やまい、久保田、幽霊のさほ、そして私たち読み手は、奇妙なものと感じますが、そこにはちえなりの理があるはずです。それに則ることで、他の誰でもなく彼女にとっての救いとなるような理が。
本稿では、彼女のその理を浮かび上がらせ、その上で、事実と妄想・願望の間に分節線を入れてみたいと思います。
まず、結論から言ってしまいましょう。
ちえの理とは何か。それは、「心の均衡を保つ」ことです。
ちえは、好きと嫌いが複雑に入り混じった相手である、自分の双子の妹・さほが死んでしまったことで、宙ぶらりんになってしまった自分の心が壊れてしまわないように、「ずるい人間」となって、「都合のいい夢」しか見ることをせず、また自分を苦しめ、「これからもずっと後悔し」続けることで、「心の均衡を保」とうとしているのです。
ちえのさほに対する感情は、愛憎入り混じる複雑なものだったはずです。好きと嫌いと、劣等感と優越感と、いつも一緒にいるのに一緒にいたくなくて、比べられたくないのに自分が一番比べちゃって。もう少し大人になれば、自分の中の感情に折り合いをつけられたのでしょう。でもそれができる前に、さほは死んでしまった。しかも、自分とケンカした直後に。
これがちえの心に大きなとげを残しました。せめて事故が楽しい出来事の直後であれば、こうもひどく思い悩むことも無かったのでしょう。けれど、最悪と言ってもいいタイミングでさほは死に、ちえはそれを引きずらざるを得ませんでした。
さほのことは、好きだけど嫌いだけど好き。さほもきっとそうだった。でも、さほは最後に自分とケンカをして、好きだけど嫌いだけど好きだけど、嫌い。そんな気持ちで死んでしまったんじゃないか。
そう思ったとき、ちえの中でさほへのねじくれた感情が固着し、そこから生まれる行動や記憶も歪んでしまったのではないかと私は考えるのです。
その歪みを見ていきましょう。
たとえば第四話冒頭の、さほが道を歩いていると、通りがかった車の中から声をかけられ、道案内を頼まれるシーン。そろばん塾帰りのちえは車に乗って去っていくさほをたまたま見かけ、帰宅してからさほにそのことを尋ねますが、さほはちえに口外を禁じ、忘れるよう言いました。
ここでは、さほが性的被害に遭ったことが暗示され、初めて読んだ読み手はそういうことが実際に起こったのだと考えますが、第8話で、幽霊のさほが独白するシーンではそこに食い違いが見られます。車から声をかけられたのはさほとちえが一緒にいるときで、声をかけてきた相手も老夫婦(ちえの回想では誰か明示されていません)。二人はよく似ていると言われ、まんざらでもない様子でした。そして、おそらくさほが事故に遭ったのはまた別の日で、ちえがさほとは別にそろばん塾から帰っていたのもその日でした。
ここでさほの回想が正しいとすると、ちえの回想は偽物であり、彼女の(無)意識によって歪められた記憶となります。
では、なぜちえはそのように記憶を歪めたのか。その答えの前に、また別のシーンを考えましょう。
第五話では、高校生になったちえが久保田と知り合い、彼と身体を重ねるシーンがありますが、その日の夜、ちえは夢の中でさほと会話をします。

「なんにもみえてないじゃん あいつ」
「知ってた」
「知っててあんなやつのとこ行ったらダメだよ」
「うん」
「でも さほが昔されたのは あたしが久保田さんにされたことと同じでしょ?」
「バカだなちえ そんなとこまでなぞらなくていいのに」
(p80,81)

夢の中のさほは、ちえが久保田と性行為をすることを、「なぞる」と表現しました。なにをなぞるのかといえばそれは、「さほが昔された」こと。ちえは、さほがあの日性的被害に遭ったと思い込んでいるからこそ、久保田と、まるで自分に対する罰のように、身体を重ねるのです。
つまりちえにとってセックスは、苦しいもの・辛いものを象徴しているのです。では、なぜセックスが苦しいもの・辛いものの象徴となるのか。
それは、ちえとさほが幼いころ、両親の夜の営みを覗き見てしまったことに由来すると思われます。

いちどだけ
お父さんとお母さんがしているところを見ちゃったんだよね
夫婦だしおかしいことじゃないってのは知ってたけど
やっぱりちょっと気持ち悪いって思っちゃった
ちえも同じこと言ってたのにな
気まずいと思ったのは何日かだけで あんまり考えないことでやりすごせた
ちえには切り替えがむずかしかったみたい
「さほ」
「ん?」
「わたし お父さんとお母さんのこと ちょっと嫌いかも…………」
(p123,124)

ちえの中に深く刻み込まれたセックスに対する嫌悪感。それは、彼女が好きだけど嫌いだったさほが味わってほしいものだし、彼女が嫌いだけど好きだったさほに死んで欲しいと思ってしまったちえが味わわなければいけない苦痛なのです。
ここで最初の問いの答えに戻れば、ちえはさほのことが嫌いだからひどい目に遭ってほしいと思い、そしてさほのことが好きだからそう思ってしまった自分を罰しなければいけないのでした。


さきほどのp80,81の引用でさほのセリフの中に「そんなことまでなぞらなくていいのに」というものがありました。その言葉には、久保田との性行為以外にちえがなぞっているものがあるということです。ではそれはなにかといえば、ちえが最近よく笑うようになったことでしょう。同居している叔母に指摘されたように、高校生になったちえは「よく笑うようになった」ようです。このよく笑うという性格は、元々はさほに見られたものでした。
さほは素直で甘え上手で上手に笑える子、というのがちえによる認識で、性的被害に遭った(とちえが思い込んでいる)さほをなぞるには、そのような被害に遭うさほ、すなわち、よく笑うから愛嬌があり、素直な性格だから怪しい人の車にも疑わずに乗り込んでしまうさほにならなければいけません。だから、久保田とセックスをするちえは、かつてセックスをした(と思いこんでいる)さほと同じようによく笑わなくてはならないのです。


さて、さほが素直で甘え上手でよく笑う子だとすると、それと矛盾するシーンがあります。

わたしとさほは双子です
わたしの方がさほより少し早く生まれました
さほは笑うのが苦手な子でした でも本当はとてもやさしい子です
わたしは甘えるのが上手な子のようでした
(p64,65)

第四話に登場するこのシーンは、初めて読んだ段階では、前述のちえ及びさほについての説明がないために、二人の性格はそういうものなのだと思って読めてしまいます。ですが読み進めるにつれ、実はそうではないこと、つまりここで描写されているちえとさほの性格は正反対だということがわかるのです。
はて、ではこのシーン、いったいどのような意味合いを持っているシーンなのでしょうか。第四話は、全編を通して、これがいつのなのかが判然としません。現在と回想と、現実と妄想が混在しているのですが、ちえが嘘の話をするこのシーンは、いったいどういう視点として存在しているのでしょう。
私はこれは、ちえが書いた手紙の一部、それも誰にも見せていない手紙だと思います。
第四話で叔母は、ちえが書いた手紙の内容に驚き、彼女に会いに来ました。その手紙とは、第三話のものでしょう。

ななえおばさん お元気ですか? です。
わたしもいよいよ中学生になりまり いまは小学校の友達と離れてしまうのがさみしいです
みんなにはいつでも会えるよって言ってしまったけど 朝早く家を出なければならないし 勉強もむずかしくなるだろうし
部活を始めたら毎日くたくたで みんなと遊ぶ時間がなくなってしまうんじゃないかな? と思います
でも 本当なら青蘭にはさほも通っていたんですよね
わたしはさほの分も頑張って通わなくてはならないと思います さほは わたしのことを許してくれないと思うけど わたしはさほに きちんとあやまりたいのです
わたしはずるい人間です
(p45〜47)

描写を考えれば、叔母はこの手紙を読んで驚き、ちえに会いに来たのでした。けれど、この箇所を読む限りでは、そこまで深刻なものであるとは思えません。もともと手紙を書くことは、気持ちの整理のためにと叔母がちえに勧めたことですが、それが「物騒なことも書くようにな」り、「かえって追いつめてる」ように思えたため、ちえと会って話をしたところ、彼女は以降手紙を書くことを辞めたようです。ですが、上で引用した手紙には「物騒なこと」は特段見られません。ならば、他に「物騒なこと」が書かれている箇所があるのではないか。
その「物騒なこと」が書かれている手紙が、第三話中盤の独白部だと考えます。

あのときさほに何が起こったの?
わたしは見てないからわからない
でもさほは私に助けを求めてると思った
子供のわたしにはどうすることもできなかったかもしれないけど
さほはもしかしてどこかに連れていかれて殺されてしまうんじゃないかな
一瞬でも考えてしまったから さほは殺されずに帰ってきたけど わたしが一度殺してしまったから
さほはきっとそれを知ってたよ
さほ わたしねえ
さほお葬式で泣かなかったの
ななえおばさんは「泣かなかったねちえ 偉いね」
わたしってえらかったの?
(p60〜62)

この箇所も叔母が読んだ手紙の一部だとすれば、「物騒なこと」という表現にかないます。
そして、叔母がこの手紙を読み、「こんなことを書いたらお父さんもお母さんも悲しむよ」と言うと、それ以降ちえが手紙を書くことはなくなりました。少なくとも、叔母が手紙を目にすることはなくなったのです。
しかしだとすると、p64からの、いかにも手紙風の独白はなんなのでしょう。p64から5ページにわたり、第四話の最後まで続く嘘の語りは、誰に聞かせるためのものなのでしょうか。
この語りの最中に、書いた作文についてちえが学校の先生から注意された、というくだりがありますが、その際のセリフが「こんなことを書いたらお父さまもお母さまも悲しむわ」でした。これは先の、叔母の「こんなことを書いたらお父さんもお母さんも悲しむよ」と符合します。
思うに、叔母から注意を受けたちえが、以降叔母に見せることなく書いた手紙、誰に見せるためでなく自分の気持ちを整理するために書いた手紙のなかで、叔母から言われた言葉の変奏ととして、そのような表現になったのではないでしょうか。
誰にも見せない手紙の中でちえは、自分はさほより愛らしい存在として描き、また両親もさほより自分を愛しているとしていました。そして、優しい自分は、両親に自分と同じようにさほを愛してほしい、そう思っていました。
けれどそれは現実の裏返し。本当のちえは、

わたしはさほみたいに上手に笑えないし
甘えるのも下手で
お母さんがいつ 
わたしね 正直に言うととえよりさほの方がかわいいと思ってる
て言い出さないか心配だった
(p180,181)

と不安に思っていたのでした。
第四話は、以下の独白(手紙)で結ばれています。

さほはなぜ死んだのでしょうか
お父さんやお母さんが殺したのだと思います
なのにいつまでたってもさほの悲しそうな姿を夢に見ません
やはりわたしもさほを殺したのだと思います
ほんとうのさほは わたしのことが大嫌いでした
(p67,68)

第四話の最終ページ、「ほんとうのさほは わたしのことが大嫌いでした」の文字と共に描かれているさほは、笑うのが下手で、どこか眠そうな眼をしたさほ。けれど実のところ、いつもそのような顔をしているのは、ちえの方なのです。それを踏まえると、「わたしのことが大嫌い」なさほとは、わたし=ちえのことだと言えます。ちえをさほとして、さほをちえとして書いてきた嘘の手紙の締めは、本当のわたし=ちえはさほのことが大嫌いだった、ということを意味しているのではないでしょうか。
それが、誰にも見せず、自分の気持ちを整理するための手紙の中で、「そういうこと」にしたいから、そのような形をとった。気持ちの整理をするとは、あったことをありのままに吐き出すことではありません。自分の心の折り合いがつくように物事の認識をしなおすことです。むしろ、叔母に見せることを前提としていたものよりも、認識の調整、有体に言えば改竄はより顕著になっておかしくありません。自分の中だけで完結するのであれば、認識がいかに変わろうとも、それを変だという者はいないのですから。
叔母の目に触れている手紙では、事故前にちえとさほがケンカをしたくだりについて、やはり事実と異なる書き方がされていました。手紙の中では、ちえはさほは乾に告白したかどうかはっきりとは知らず、その結果についてもよくわかっていないように書いていて、後日乾と会った時の感情をして自分は「潔癖なところがある」と表現しています。
ですが実際のところちえは、さほが乾に告白をしようと階段を昇って行ったところを見ているし、隠れ聞いているところで乾がさほをふり、ちえの方が好きだと言っているのを確かに聞いていました。
叔母にとってこのことの真偽を確かめようがないために、ある程度まで額面通りに受け取るしかなく、ちえの「潔癖なところがある」も、そういうものかと考えます。叔母の目に触れることが前提とされる手紙である以上、あえて虚偽を書いたちえは、叔母に自分は「潔癖なところがある」と考えてほしいのです。


さほが乾に告白した事実の方のくだりで、乾が自分のことを好きだと言ったのを聞いたちえは、帰宅した後、さほにめったに見せない上手な笑顔で、さほに話しかけ、そして予想通りにべもなく会話を拒否されました。

知ってた
さほがいま一番会いたくないのは わたしなんだよね
「今日さほと話したくない」 そんな日 わたしにはしょっちゅうあったよ
(p178)

さほが抱いていたであろう劣等感は、ちえにとってなじみ深いものでした。「さほはわたしよりなんでもよくできたし テストの点数もちょっと上だった 友達をつくるのもうまかったから」、双子ということで比べられるたびに、ちえは劣等感を抱かずにはいられませんでした。だからこそ、自分がさほより誰かから好かれているという事実は、ちえを有頂天にさせないわけがなかったし、ついさほの心をささくれさせずにはいられなかったのです。
その結果が、ケンカしたままの、さほの事故死。
さほが自分のことを嫌いなまま死んでしまったことに大きなショックを受け、同時に、「もう比べられなくなるなって思ったら」「少しホッとした」。ちえはさほのことを「たくさん嫌い」だったし「でも好きだった」。「好きなのに さほが死んだとき 泣かなかった」。自分の中の矛盾が、彼女の心をひどく不安定にさせました。それを落ち着かせるため、「心の均衡を保つため」、彼女は様々な形で過去の認識を改竄し、他者に伝え、自分とさほを同一化し、自罰的な振る舞いをしてきたのでした。
さほのことが好きだから彼女にようになりたいし、彼女が自分のことを嫌いなまま死んでしまったから、罪を償うように彼女の味わった苦しさを自分も味わいたいし、でもそもそも彼女の味わった苦しさというものが、彼女のことが嫌いだったから彼女がそれを味わっていてほしかったと願ったものだし。
ことほどさように、ちえの心中は千々に乱れ、その振舞には不可解なことが多々見られますが、結局のところそうすることでしか彼女の心の均衡は得られない。他の人にはいかに不合理に見えても、そうすることが彼女にとっての理だったのです。
物語の最後、彼女は自分のわがまま、すなわち他者から見れば不可解に見える自分の理を自覚していたことを、仏壇の中のさほに向けて独白します。その上でなお、まだこれから先も自分はわがままなことを考えるであろうとも思っています。
人間は誰しも、自分の理に従って生きています。でもその理は、誰もが共有するものではありません。ちえちゃんはわがままだし、私たちも皆、わがままなのです。
私たちにとっての不合理、彼女にとっての理を、混淆する現実と妄想・願望の中で描き出される本作。私のこの解釈もあくまである前提に則った一解釈に過ぎませんし、仮説に仮説を重ねつづけたものでしかありません。そもそも、ちえの理は私たちの不合理でも、他の登場人物の理は私たちにとっても理であるとする根拠は何もないのですから。
彼女の理の中に潜り続けていると、酸素の薄さにくらっとしてしまう感覚が襲ってきます。
言葉が全然足りていない気はひしひしとしているのですが、今日のところはこのへんで。



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