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漫画の話です。

『戦国妖狐』許すことの意味の話

14巻が発売された『戦国妖狐』。ネタバレある記事だよ。

戦国妖狐 14 (BLADE COMICS)

戦国妖狐 14 (BLADE COMICS)

灼岩を正気に戻した真介の男前感が往年のポップや横島君を彷彿とさせ、とてもよいですね。あれはいい男だ。
いい男と言えば、本作で屈指の男臭さを誇る、虎男こと道錬。長年の強敵(ライバルまたは「とも」と読む)である神雲、いやさ雲蔵との渾身の勝負がついに決着しました。ほぼ相討ちに近い形でとどめの一撃を見舞った際に、道錬、否、道介が心中で呟いていたのが、次の言葉です。

雲蔵
幼い頃 親が死んでも泣かなかった雲蔵
辛き修行にも弱音を吐かなかった雲蔵
幼子抱え 妻の死を淡々と語った雲蔵
そう強くあるな お前の弱さは
お前が許せなくとも わしが許してやる
(14巻 p172,173)

このセリフの中の「許してやる」というフレーズ。これが妙に私の中で引っかかりました。
誰かが誰かを許すとはどういうことなのか。どんな人間なら許すことができるのか。いったい何が許されるのか。
この二人の関係性からのみで読み取るのなら、道介が許すのは、雲蔵が自分では許せなかった彼自身の弱さです。
雲蔵は作中で一、二を争う強さを誇るキャラクターですが、実のところそれは、雲蔵というより神雲のもの。彼がその強さを得たのは、一旦抜けた断怪衆に戻ってきてからです。闇退治で赴いた先の村で一人の女性にほれ込んだ雲蔵は、断怪衆を抜けてその女性とともに暮らすことを決意しましたが、子も生まれた彼が村を留守にしている間に、かつて退治した闇の係累が恨みを晴らしに村を襲撃、彼の愛する妻を含む、ほぼすべての村人が闇に殺されました。唯一生き残ったまだ嬰児の息子、後の千夜を連れて断怪衆に戻った雲蔵は、今一度闇退治に身を投じ、「我が名を聞く全ての闇が竦み萎えるほどの力」を得ていったのです。
雲蔵が許せなかった弱さとは、妻を護れなかった己の力の不足。そしてその弱さを自分で許せなかったゆえに、雲蔵は神雲となって、無二の強さを得たのでした。
道介は、そんな雲蔵の弱さを許すという。それはどういうことなのか。
私はそれは、「弱くてもいい」と言ってやること、だと思いました。言い換えれば、雲蔵が許せないでいる弱さをそのまま肯定してあげること、認めてあげること。それでかまわないのだと言ってやること。
許す。肯定する。認める。それらは同じことなのかもしれません。
そう考えて本作を振り返ってみると、多くの許し、あるいはそれに類するシーンがありました。
たとえば同じ14巻には、灼岩の呪縛を解くための、真介による幽界干渉の中で、灼岩が己を苛む過去と向き合うシーンがあります。

「ぬおおおお許せん!! 許せん!! 我を封じた坊主も 我を赤髪と罵った村の連中も!!」
「違うんす!! 村のことは… 村のことは火岩じゃ…」
「許せぬ…!! よくも我が手を血に染めさせた……!! 殺してやる!!」
「わたすの手っす わたす達の手す…
わたすと火岩の 二人の業は 二人で背負うって決めたすよね…
わたすが火岩を許すから… 火岩もわたすを許して…」
(14巻 p22、23)

ここで火岩の口から出た「許せん」と、芍薬の口から出た「許す」。
前者が許せなかったのは、火岩を封じた坊主と芍薬を赤髪と罵った村の連中、そしてそいつらを手にかけてしまったこと。苦しめられた過去と、その過去を暴力でもって解決したことで上塗りしてしまった、また別の過去。それが火岩=芍薬=灼岩の「許せん」ことです。そして、芍薬=火岩=灼岩が「許す」のが、二人で背負うことを決めた業。お互いがお互いを許す。村の連中を手にかけてしまった過去が消えることはない。それは受け容れなければならない。そして受け容れた上で、誰かが「許す」と、それでいいと言ってあげなければならない。
そういう「許す」なのです。
そもそもこの許しは実は、1巻の時点で、彼女に幽界干渉を仕掛けた真介自身が言っていたことでした。
1巻で記憶を失っていた灼岩が、ふとした拍子に自分のしてしまったこと、すなわち故郷の村にした復讐を思いだし、真介らから離れようとしたシーン。逃げ出した彼女を捕まえて、真介は叫びました。

お前は人間だ!! どこに行く気だよ!?
どこに逃げたって自分からは逃げらんねえんだぞ!!
お前は力を手に入れたんだ 力がある奴はなにしてもいいんだ!!
なにしたっていいんだ!! 笑ったっていいはずなのに お前ッ… 泣いてんじゃねえかよ!!
お前は… バケモノなんかじゃねえ…
(1巻 p170,171)

どこへ逃げても自分からは逃げられない。村人を殺してしまった自分から逃げることはできない。生きてる以上は。だから、誰かがそれを許してあげなければならない。認めてあげなければならない。
無論の事ですが、この「許す」は、贖罪とは別のものです。贖うことは、罪を犯したもの自身が行うものであり、許すことは、罪を犯したものに他の誰かが向けるもの。自分ではない誰かが、自分はそれでいい、そうあるしかないと肯定してくれることです。
それをもっともわかりやすく伝えたのは、千夜にまつわる人々でしょう。
第二部の千夜編で彼は、戦いなどしたくないのにそれに巻き込まれ、あまつさえ人や地神の命を奪ってしまったことに苦悩していました。

戦ってしまった
土地神の血は土の匂いがする 紅い泥
記憶はないのに この身体は敵の殺し方をよく覚えている
おれは今まで何をしてきた?
やめろ 思いだすな いいじゃないか過去なんて
(8巻 p83,84)

自分の過去を許せないでいる千夜。自らの過去を強く否定しようとしています。
ですがたとえば、狂神と化した自らの分霊を千夜に止めてもらった、京の大土地神・華寅は、こう言います。

ご苦労様でした 幼き白き花
あなたが心を痛めているのは伝わっています
どうか自分を責めないで
…それを伝えたかった
(8巻 p98)

分霊を殺した自分を責めるな。それでよかったのだ。そう伝えました。
また、作中でも「極まった者」としてもはや別格の位置にいる、室町幕府13代将軍・足利義輝は、千夜とこう問答しました。

「白童子 お主 人になりたいのか? 人にしか見えぬが 闇?」
「おれはバケモノです」
「御前は人だ ただの力持ち」
「千体の闇を埋め込まれ 自在にバケモノに変わるこの身 もはや人では」
「千体の闇を埋め込まれ 自在にバケモノに変われる体質の 人であろう 何を言っておるのだ?」
(8巻 p101〜103)

過去がどうであれ、今のお前がそうであるなら、それをそのまま認めればいい。そう言いました。
そして、不可抗力とはいえ、千夜に自分の父を殺された月湖は、千夜にこんな言葉を手向けました。

「あたしの村を守ってくれてありがとう お礼 ずっと言えなくてごめん」
「違う おれが居たから狂神が 村も おじさんもおれも」
「千夜は悪くないよ 千夜の力も悪くない
だってあたしは知ってるから 千夜はいい子だって」
(8巻 p126,127)

千夜は悪くないという、許しの言葉。けれどそれは、その時の千夜にすべて受け入れられたわけではありませんでした。

おれ この娘のこと すごい好きだ
でも一生言えない 月湖が許してもおれはおれを許しちゃいけない おれが月湖のお父さんを殺したんだ
忘れるなおれ
(8巻 p129)

自分が自分を許せない。これは非常に難しい問題です。というよりは、自分で自分を許すことは不可能に近いのではないかと私は思います。この千夜のように、あるいは上の雲蔵のように、自分の過ちによる後悔は、自分が一番憶えているものです。
でも、だからこそ、誰かから許してもらうことが必要になるのではないでしょうか。それを経て初めて、なんとか自分でも許せるように、自分自身を認められるようになるのではないでしょうか。ムドとの死闘の後に気絶した千夜が、夢の中で未来視した彼自身のように。

きっと失ったものは何もない 皆が私に残していった温かい何かがある 時と共に積み重なった沢山の温かいものが
たとえ吹雪の中であろうとも いつでも私を笑わせてくれる
キミは今は泣け 
別れの後のキミの中に残された温かいものに気付くまで
やがて…
やがて また笑うために−−
(10巻 p6〜8)

戦国妖狐』第一部の迅火編で、主人公の迅火は、人間という存在が許せない人間でした。自分を捨てた山戸家も、友人である闇を討とうとする断怪衆も、そして弱い人間である自分自身も許せず、彼は闇になろうとしていたのです。そうして、一部の最後で望み通り闇になった迅火は、理性を失う羽目になりました。

覚えているか? ここに来る前に言ったこと
闇になれたら 夫婦になろう と
嬉しかった いいぞ 約束通り夫婦になろう
もう人の身に戻れなくても おれがずっと傍らに居る
おれがずっと愛してやる だからもう食うな お前は…
強くなんかならなくてもいいんだ
(6巻 p130〜132)

強くなんかならなくてもいい。そのままのお前でいい。たまによる迅火への許しの言葉は、もう迅火が自身の体のコントロールを失った後。それが届くには、一歩遅いのでした。
こうして、許せなかったものがすべてを失った第一部が終わり、千夜を主人公とする第二部が始まりました。今まで見てきたように、第二部の千夜は、自らの過去を誰かに許されてきました。第二部以降は千夜の成長譚でもあります。人が誰かに許されることとは、人が大人へと成長するということなのかもしれません。それはつまり、人が誰かから肯定され、認められるということなのですから。許すことは原理的に、許す側が許される側の同格以上の立場となります。それはつまり、自分より大人の人間によって人は許され、自分も大人になっていくということです。
物語はいよいよクライマックス。果たして、今まで誰かに許されてきた千夜は、誰かを許す大人になるのでしょうか。



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