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漫画の話です。

星と隕石と引力と 『きみはスター』の話

ヤマシタトモコ先生の『運命の女の子』に収録されている『きみはスター』。タイトルにも用いられているスター=星をキーワードに,本作を読み込んでみたいと思います。

レビューは既に書いておりますので、未読の方はまずそちらで興味を持っていただけたらと思います。
彼女らはそれに乗るのか、抗うのか 『運命の女の子』の話 - ポンコツ山田.com
この作品のキーワードとなる「スター」。カタカナで「スター」と言えば、たいていの場合は人気者の意味を表しますが、作中ではそもそもの意味の天体としての星も、たとえ話の中で登場します。

……甲斐谷くんらしくないね
落ちたスターって感じ
元々 わたしなんかきみの足元にも及ばないのに わたしなんかにかまって変な真似してさ
星は
地に落ちた瞬間に自分が星だったことに気づく
(p104,105)

物語の主人公の一人、井上公子の言葉です。彼女にとって、これを言った相手である甲斐谷開は人気者の「スター」だったのですが、果たして、二つの意味で「スター」とはどういうものなのでしょうか。


この物語の体裁は、高校時代に同じ英語劇部だった甲斐谷開・小高ゆかり・井上公子の三人の当時の人間関係を、大人になって偶然再会した開とゆかりが回想する、というものになっています。三人は高校時代の成績トップ3で、卒業生代表となる成績優秀者に選ばれるほどでした。しかし、開とゆかりにあって、公子にはなかったものがありました。それは、他の生徒からの評判です。端的に言って容姿に優れていた二人と、そうではない公子。社交性が高いゆかりに、とっつきやすさはないけれどそれがむしろ孤高と見えた開と、他人への関心が薄く人当たりもきつくなってしまう公子。これだけを見れば、スターとは開とゆかりであり、公子は能力は高くともそう呼ぶことが出来ないように思えます。しかし、時間軸を過去の高校時代から大人になった現在に戻せば、スターと呼ばれるような立場になっているのは、女優として活躍している公子だけでした。
スター。
星は手が届かないから綺麗なのだ、なんて言葉もありますが、それと同様に、人気者の意のスターも、簡単に手が届かないからこそ価値があるのかもしれません。というか、ただの人気者とスターを分ける線は、まさにそこなのでしょう。他の人と同じ地平に立つ人気者と、皆の手の届かないところで輝いているスター。その意味で、高校時代の孤高な開はスターで、社交性の高いゆかりはあくまで人気者だったのでしょう。周囲からの評価が高いという点では同じでも、どこにいると思われているかで違いがあったのです。
さて、万物には万有引力(重力)があり、夜空に輝く星がそこにある(ように見える)のも、星(系)同士の引力と遠心力が釣り合っているからですが、その伝手で考えるとスターとその周りの人間の関係性は、性格や能力などなんらかの理由で他人から距離を置いている人間と、その人に近づいてみたいけどそれができない周囲の人間の間でバランスがとれていることだと言えそうです。
スターの輝きは、実際の恒星において、本当は一等星より輝きの強い恒星が地球からの距離のために六等星とされたりするように、スターの持つ魅力と、スターとファンの距離によって変わりえます。魅力が実はそれほど大きくないスターもファンからの距離が近ければ(でも同じ地平ではない)輝きが大きく見えたりするし、その逆もあるのです。これは見方を変えれば、魅力が大きければファンからの距離があっても、すなわちより広範囲のファンに対しても輝きを発せられると言えます。
もしスター側の離れる力が強くなれば光も見えないほどに遠くへ行ってしまうし、それが弱くなれば、あるいは周囲の人が積極的に寄っていっていれば、両者は近づいていき、同じ地平に立つことになります。高校時代の公子が前者であり、公子に惹かれた開が後者、すなわち「落ちたスター」なのだと思うのです。
多くの生徒にとってスターだった開は、彼らから距離があったのですが、公子に惹かれた開は、まさに惹(引)かれたわけで、それは星同士の釣り合いのとれた関係性を崩したことにほかなりません。隕石とは、ある星の重力に負けてその星へ落ちてしまった物体ですが、開は公子の重力に引きつけられすぎ、隕石となってしまったのです。


さて、今までずっと開視点で考えてきましたが、ここで公子サイドへ目を向けてみましょう。
彼女は自身を、能力に対して客観的に高い評価を与えられているにも関わらず、「まわりを見ると」「いつもみじめ」になってしまい、開の「足元にも及ばない」と考えています。だから、他の人は無論のこと、開にも関心を向けようとはしませんでした。告白された後でさえ、彼女の開への態度に(少なくとも傍目からは)変化はなかったのです。
ですが、内心はそうではありませんでした。彼女は卒業式の翌々日にデートをした開に対して、「きみはね わたしがきみを好きになったら失望するよ」と言いました。開はそれを否定しますが、公子は重ねて強調するのです。「きみはする ――きみはじぶんを好きにならない人が好きなんだ」
その言葉は、一見開への拒絶のようにもみえますが、彼女の本心は次の台詞にありました。「でも きみを ・・・好きにならないやつなんていない 誰も ・・・・・・ごめん カイ」
ひどく遠回しな公子の告白。この時初めて彼女は、開のことを下の名前で呼びました。彼女らのいた英語劇部では、親密さを増進させるために下の名前で呼び合うことを奨励していましたが、公子は男女問わず頑なに名字で呼び続けていました。そんな彼女が初めて呼んだ開の名前。彼女が初めて開に見せた親密さ、そして好意。ですがそこには、同時に謝罪の言葉もありました。
なぜ公子は、告白と同時に謝罪をしたのでしょう。
それはきっと、自分の告白が開を失望させてしまったと公子は考えたから。
彼女の考えが正しいとすれば、自分が開のことを知らなかったから、興味を持たなかったから彼は公子に興味を持っていたことになります。しかし、彼女が開に好意を持ったことで、その前提が崩れてしまった。開が公子を好きになる理由がなくなってしまった。
彼女が彼を好きにならないから彼は彼女を好きだったのに、ようやく彼女が彼を好きになると彼はもう彼女を好きではなくなってしまう。彼の好意はそれが実った瞬間に意味のないものとなってしまう。
公子は開を好きになってしまった。でも、それは開の好意を無為にしてしまうことを意味していた。自分が好意を持つことで開の好意を駄目にしてしまう。でも、彼を好きに待った自分の気持ちを言わないわけにはいかなかった。だから公子は謝ったのだと思うのです。
開は「落ちたスター」であると公子は以前言いました。それは、私の解釈では公子の重力に引きつけられすぎたということなのですが、相対的に見ればそれは、公子が開の側に引きつけられたとも言えるものです。少なくとも、現にそうなりました。公子もまた開の重力に引きつけられ、距離を近づけすぎてしまったのです。
開は公子に向かって落ちた隕石となり、公子もまたそうなりました。果たして、開は公子に告白された後も彼女を好きでいたのでしょうか。それはわかりません。作中でそれは明言されていないのです。私の考え、というより印象では、公子の言葉通り、開の中から公子への恋心は失われてしまったのではないかと思います。敬意は残っても、もうそれは恋ではない。ラスト3ページの開による地の文の独白は、公子が今まさにスターではなくなってしまっていく過程を目の当たりにしている開の悲痛な叫びだったのではないかと、私は思うのです。


開と公子の以上のような関係に、さらに複雑さを添えるのが、もう一人の登場人物・小高ゆかりです。
作中において彼女は、開や公子のような孤高(あるいは高潔)な存在ではありませんでした。言ってしまえば凡才。スターならざる者。周囲の人間から好かれはしても、憧れられ、手が届かない存在だとは思われていなかった(少なくともそのような描写はなかった)。けれど、例外が一人だけ。それが公子だったのです。
公子はゆかりに向かって言いました。
「こ 小高さんみたいな人になりたいと思っ… ……だけで……」(p112)
容姿に自信がなく、人当たりも悪かった公子にとって、その真逆であるようなゆかりは憧れの対象であったのでしょう。公子にとってゆかりは、スターでした。
しかしここで、たちが悪いことにと言うべきか、ゆかりは公子が開に好かれていることを知っており、公子の才能を知っており、そして自分が公子に好かれていることに自覚的であったのです。
周囲からのスターである開にスターと思われている公子にスターだと思われている自分。
その事実は、自身を「つまんない人間」と評するゆかりにとってひどく魅力的だったはずです。以前の記事(『君はスター』『ひばりの朝』ヤマシタトモコの描く二つの優越感の話)でも触れましたが、自分より上にいる(であろう)人間が自分のことを見上げてくれる(星という比喩から考えれば、ある星からある星を見上げるというのは、相対的なものではあるのですが)という状況は、彼女に優越感を与えてくれるのです。
大人になり「いろいろあって」公子と二人で暮らしているゆかりは、開にこう言います。

わたしはね 平凡で つまらなくて で 
…公子ちゃんといっしょにいることはわたしを特別にしてくれるの 
カイくんみたいな才能のある人に好かれてた… 今は本人も才能にあふれてる そんな人のそばにいられるんだもの
……カイくんにはわからないわね
(p113,114)

高い能力を持ちながら、否、そのなまじ高い能力のために開と公子というスターにはかなわないことを思い知っていたゆかりは、二人に強い劣等感を抱いていました。上記のセリフはもちろんのこと、カイとの会話の中で、自身を卑下するようなことを言った開のセリフを食うようにして、「カイくんは存在自体がドラマチックだったもの 違う?」(p101)と言い放ったのも、その証左と思われます。
公子と一緒に暮らしているゆかりの内心に、公子への愛情があるのかどうか、それはわかりません。上の開の恋心の場合と違い、私の中ではどちらとも解釈しうると思っています。


「星は 宇宙を巡っているときには きっと自分が星だと気づかない」(p96,97)
最後にこの言葉を考えてみましょう。
星が宇宙を巡っているというのは、人間関係において適切な距離がとられていることを意味していると私は考えます。人間同士が他者の魅力に対して引きつけられすぎず、興味を失いすぎず、バランスを保った関係性を維持できている状態。そのバランスが保たれている限り、人は自身の感情に特別な思いを馳せる必要がありません。他者に対して、その距離はどうあれごく自然に振る舞えます。ですが、宇宙を巡れなくなったとき、すなわち、引力運動エネルギーのバランスが崩れ、相手に引きつけられて隕石になってしまうと、今までの自然さを忘れてしまう。今までの自然さが実は絶妙なバランスの上で成り立っていたものだと気づいてしまう。適切な距離を失って初めて、自分が星だった=適切な距離を保てていたと気づくのだと思うのです。
隕石がそうであるように、星はバランスを崩して即消滅するわけではありません。他の星に引きつけられて、地面に激突するかあるいは大気圏で燃え尽きるかするまで、タイムラグがあります。他の星へ近づいている最中は、まだ自分がバランスを崩していることに自覚的ではありません。燃え尽きる、地面に激突する寸前に、自分が今落ちていることに気がつくのでしょう。それが、公子に告白される開であり、開に告白する公子なのだと思います。


『きみはスター』、半年後くらいに読み返すと、また別の何かが汲み取れそうな気がします。そして、そういう作品を名作と私は呼びたいです。



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