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作品への感情移入についてのちょっとした話 その2

前の記事の続きというわけではないけれど、別の観点がいくつか出てきたので。
前回のまとめの一つに
・作品への感情移入とは,あるキャラクターの内心について,一定程度以上の描写がなされたときに,読み手がそれを内面化すること
ということを書きましたが、もうちょっと自分なりに突き詰めるに、自分にとっての「感情移入」を定義すると、「あるキャラクターの情動の動きに、自分自身の情動が引きずられること」あるいは「あるシチュエーションについての情動の変化の基準が、自分自身のものではなく、そのキャラクターのものにすり替わること」とできました。
つまり、「誰の」感情が「どこに」移入するかと言えば、「私」の感情が「キャラクター」に移入するのです。
あるキャラクターが喜んだり怒ったり悲しんだり悩んだり感動したりカタルシスを感じたりしたとして、そう感じたシチュエーションを私自身の基準に照らし合わせればそのような情動を引き起こすものでなくとも、そのキャラクターを内面化していれば、自分自身の情動も同様に動くのです。
見方を変えればこれは、作品を読んで感情移入しないままに感動などすれば、そのときの情動の変化の基準は自分自身のものであるということです。たとえば『鋼の錬金術師』の最終決戦において、おそらく私はそこに感情移入はしていませんが、感動はしています。キャラクターらが感じた感動やカタルシスなどと同種のものが読んでいて湧き上がったとしても、それは私の心の中から湧き上がったもので、彼らのそれをなぞったわけではありません(その線引きもまた難しい話ですが、とりあえず今日はそこに深入りしません)。
そしてこれは、読んでいて、キャラクターが感じている情動とは違う情動を読み手(私)は感じうる、ということでもあります。あるキャラクターが悲しんでいるときに読み手は感動したり、その逆もまたしかり。ギャグマンガなどだとわかりやすいですが、あるキャラクターが泣いていたり痛がっていたりするのが面白い、というのはまさにそういうことだと思います。『苺ましまろ』とかそれが強い気がする。
むしろ、キャラクターが笑っているところで読み手も笑うというのは、特にコメディにおいて珍しいケースだと思うのですが、『ヒャッコ』はその例外と言えるでしょう(笑いが起こる「場」の構造と、そこから考える「ヒャッコ」の魅力の話) 。
とまあ、こんな具合に改めて考えたのですが、Twitter上でこの話をしたら、また別視点の意見も見かけました。つまり、感情移入とは、キャラクターの感情が読み手に移入されるのではなく、読み手の感情がキャラクターに移入されるものである、と。言い方を変えればそれは、読み手が自分の感情を登場人物に託すことだ、と。
まるっと引用させていただくなら、

こうありたいという感情が登場人物に移入されて、それが作中で報われたときに大きな心の動きが生まれて、それが自分の感情としての感動だと思っていて、だから託した感情が報われない形での、物語としてそれを強いる展開における感動は、もちろん理解をすることはできるけれど、自分の感情じゃない

とのこと。
これを私なりに解釈すれば、自分の情動の基準が先にあって、動いた情動がそれに沿うか否かが、感情移入か否かである、というところでしょうか。
それに対して、私にとっての感情移入は、既に基準をキャラクター側に預けてあるもので、それがどう動くかについて、自分自身は関与しない形になります。予想通りに進もうが、予想外の方向に進もうが、それはもうキャラクターの情動次第。
最終的に、自分の情動とキャラクターの情動が重なる点では同じなのですが、そこに至る過程が少々異なるというわけです。
「感情移入」、簡単に使っていた言葉のくせに、意外に各人で使い方の差異があるようです。
ついてにいうと、そもそも漫画を読むときには基本的に感情移入をしない、という意見もあって、それにはかなりびっくらしました。感情移入はもはや当為のものとして考えていたので。
自分で当たり前と思っていたものを見つめ直すと、実はそうでもなかったりすることがごろごろ転がっているようです。



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