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『めめんと森』から考える、物語の過剰な解りやすさと読み手の楽しみの話

昨年発売された、ふみふみこ先生の『めめんと森』。

決して嫌いではない、というか最近の作品の中では好きな方なのですが、読んでてちょっと引っかかった点がありました。それはなんというか、設定がすっきり腑に落ちすぎる、ということです。腑に落ちるというのは普通はいいことを表しますが、それでも、なんか、ちょっと。
それはどういうことなのか。
まずは本作のストーリーを確認しておきます。
葬儀社でバイトを始めた「めめ」こと目野優子。口が悪く性格もきつい教育係、口癖が「殺すぞ」の黒川のせいでバイトはすぐ辞めていくのに、めめだけは一か月ももっていた。子供の頃に一緒に遊んでいた兄が失踪し、それをずっと引きずっているめめ。一方黒川は、稼業の葬儀屋に嫌悪感を抱き、普通というものにずっと憧れていながらも、地元を出た先で結婚した相手が彼とはまた別の傷を過去に持つ人間で、普通を求める黒川とは相容れず結局離婚、ぼろぼろになりきる寸前で家に戻り、家業を手伝っていた。
そんな二人が次第次第に近づいていく、というストーリーなのですが、その展開があまりにもできすぎて・・・・・いるな、と。本作のストーリーや設定には「生と死」とでもいえるものが強くビルトインされていますが、その埋め込まれ方がちょっとわかりやすすぎると思ってしまうのです。
めめの設定をもう少し突っ込んで説明しましょう。
兄の失踪という傷のせいか、めめは強く心を揺さぶられることがなく、葬儀の空気に中てられて涙を零しはしても、それは「うわっつら」で「感情が地すべりを起こしている」に過ぎない。空虚を心中に抱える彼女。セックスのときには恋人に首を絞めることをせがみ、そうされることで少しだけ満足を覚えていた。そんな彼女が出席した大叔母の葬儀がたまたま黒川の働く葬儀社で執り行われ、そこでの黒川の振る舞いにときめきを覚えた。それがきっかけになったのか始めた葬儀社のバイトが、たまたま同じ会社だった。
ここには、「生を虚ろにしか感じられないめめ=死を間近にして初めて生を感じられるめめ」という図式がありありと見てとれます。それゆえ、葬儀場、すなわち死が毎日そこにやってくる場所でまじめに働き、「殺すぞ」が口癖(そしてそれを言うとき実際に憎々しげな視線を送る)の黒川に惹かれるのも実に順当なのです。その関係性がちょっとあからさま。
また、めめが黒川に最初にときめいた、大叔母の棺に花を入れるシーン。小さいころには遊んでもらったような気もするよく覚えていない遠い親戚の葬儀に、どんな感情を持てばいいのか居心地の悪さを感じているめめが、棺に花を入れる段になっても人の輪から離れていたら、黒川が花を渡してくれ棺に入れるよう促す、というエピソードが第1話で語られるのですが、最終話では、祖父の葬儀で棺に花を入れるのをためらっていた少年に、めめが花を渡して促す、という、第1話のエピソードの形を変えての反復となるシーンが登場します。そして、そのことについて「ちゃんと祖父とお別れができてよかった」と少年から礼を言われるのですが、それを聞いてめめは

全部自分のためなんだもの
人のお式を通して 
できなかった兄との別れを繰り返している
(p168)

と思うのです。
あたかも、理屈が先行し、そこに設定を嵌め込んで、最後にエピソードをのっけている、とでもいうようなわかりやすさ。いや、それ自体は悪いことはないのですが、その構成が見える、あるいは見えるような気がしてしまうと、醒めてしまうのです。献花のエピソードにしても、第1話と最終話で反復することで意味を浮き上がらせるのはむしろいいのですが、その中身の説明をめめ自身がしてしまうのが、わかりやすすぎさを生んでしまっています。「ここが落ちるところですよ」と腑の位置を指し示してくれるような丁寧さ。それはちょっと、過剰。物語での説明のし過ぎは、読み手の想像を削いでしまうものです。
この場合の説明とは、特に言葉によるものを指します。言葉は絵に比べ、それが伝えようとするものを明確にしてくれますが、それは善かれ悪しかれで、ツボを押さえた説明は物語の解釈の優秀な導き手となりますが、それがやたらと増えてしまうと、見どころ紹介の看板が多すぎる観光地のようなもので、物語を味わうのにうるさくなってしまいます。いいからもっと落ち着いて見させてくれよと。
物語鑑賞の面白さの一つに、作り手が言葉少なにそっと忍ばせておいたものを受け手が読み取って、「他の誰でもなく自分がこれを気づけたのだ」と感じる点があります。小は他作品のパロディの小ネタから、大は作品の根幹をなすようなテーマまで、自分がどれだけ深くその作品を読み取れたかを証してくれるようなその感覚がもたらす満足感は、なかなかに強烈なものです。もちろん、作り手が意図してそれを忍ばせたわけではないということもあり得ますが、受け手にとってそれは問題ではなく、そう読み取れるつながりを見つけ出した、という事実そのものが大事なのです。弊ブログでやってることも大体そんなもんですし。で、それができるためには、想像の余地が残っていなくてはいけない。いわば物語の暗がり。「ここはこれこれこういう意味ですよ」と作品の方から説明されてしまっては、全方位に灯りを照射されているようなもので、ちょいと風情がないのですわ。
とまあ、少々説明が過剰と思われる本作ですが、それでも、言葉による説明が適度に少なく、想像の余地を感じさせるシーンがあります。それはまさにクライマックス、兄が失踪した森でめめが黒川に心からの告白をするシーン。普通に笑って普通に死んで普通に葬式ができる、そんな普通の人生を諦める黒川に、黒川さんの葬式では私が泣きます、とめめは告白。それを聞いて黒川は「なんでオレが先に死ぬの前提なんだよ 殺すぞ」と笑います。その笑みにめめは失踪した兄を重ね合わせ、何かに気づいたような顔をしました。そして、それについて明確な説明はない。
私見を述べるに、そのときめめが気づいたこととは、「好きな人より先に死にたい」という抑圧されていた思いなのではないでしょうか。
めめのバックボーンにある、大好きな兄が自分の前から何も言わずに消えてしまった過去。それは、大好きな人が消えてしまうことに対する強い恐怖を彼女に抱かせ、そしてそこから二つのものが生まれました。
一つは、前述した「うわっつら」で「地すべり」するに過ぎない感情の動き。大事なものを失うくらいなら、初めから大事なものがなければいい。その思いはめめの生き方を強く規定し、彼女に虚ろな人生を歩ませました。
そしてもう一つが、一つ目のさらに向こうにあるもの。大事なものが出来たなら、それがなくなるのを待つのではなく、自らが先に消えてしまいたい、そうすれば最期まで好きなものと一緒にいられる、という思い。つまりは「好きな人に殺されたい」という思い。これは性行為中に首絞めをせがむことにもつながっていたのでしょうが、「殺すぞ」が口癖に黒川に惹かれた理由の一つに、「好きな人から殺されたい=好きな人より先に死ねる=好きな人と最期まで一緒にいられる」という気持ちがあったからだと思うのです。
ただ、そうだとすると「黒川の葬式で自分が泣く」というめめの言葉と矛盾するようですが、これはまさに彼女の気持ちが抑圧されていたことの証左と言えます。無意識のうちに抑圧されている感情は、その反動として、正反対のものを表向きには表すもので(それは、小学生の男の子が好きな子への好意を隠そうとして、逆にその子へいたずらをしてしまうのと同じことです)、黒川を前にしためめが口走ったそれは「正反対のもの」だったわけです。ですが、返す刀で言われた「殺すぞ」は、めめの抑圧された感情を真っ向から叶えてくれるようなもので、それが「正反対のもの」を通じて抑圧されていた感情に直に響いたために、めめはずっと目をそらしていた自分の気持ちに気づいたのです。
抑圧に気づいた解放感は、めめの世界を一変させます。

『お兄ちゃん』
…黒川さんにそう言われるの好き
『この世界は灰色で』
生きてても死んでてもおんなじで
『すきなものも ほしいものも』
黒川さんになら殺されてもいいなって
『何もなかった』
ずっといいかなって
『何も』
そう思ってました
でも今は
一緒に生きていたいって
そう思うんです
『ようやく色のついた この場所で』
(p177〜180)

こうして物語はエンディングを迎えます。
最後の最後にして、言葉少なにキャラクターの心の中を想像させるシーンが描かれたために評価が高くなったというのは否めないところです。途中ももうちょっと説明を抑えてくれたらなあ……。
今年はふみふみこ先生原作の映画が2本も公開されるとか。「女の穴」を映画化だなんて、いったいどのエピソードを使うのでしょう。『ぼくらのへんたい』は第2部に入ったし、来月には原作の一つである『恋につきもの』も発売されるしで、今年もふみふみこ先生からは目が離せませんな。



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