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『岸辺露伴は動かない』と理不尽なルールの話

岸辺露伴は動かない』収録の『懺悔室』、本誌連載時に読んだ記憶があるので、十数年ぶりに読む短編というのは妙な感慨があります。

「人生」や「幸福」あるいは「絶望」や「運命」というものに対する考えは、当然と言えば当然ですが、十数年前とだいぶ変わっており、当時は特に起伏もなく「ふーんおもしれーなー」というくらいだったのですが、今現在では作品のゾクゾク度がずいぶんと増しました。
さて、そんな『岸辺露伴は動かない』。この短編集に共通しているのはルールの存在です。それは、収録されている作品に共通するルールが存在している、という意味ではなく、どの短編にもストーリーを構成するためになにがしかのルールが物語中にある、ということです。
『懺悔室』では、命が助かるためにはポップコーンを街灯の上まで放り投げ落ちてきたものを直接口でキャッチする×3をクリアしなけらばならない。『六壁坂』では、妖怪に憑りつかれた人間を殺してしまった者は、それの始末に一生を費やさねばならない。『富豪村』では、その村に住むためには正しいマナーを遵守しなければならない。『密漁海岸』では、あるアワビを密漁するためには一年のある特定の日を見計らわなくてはいけない。『岸辺露伴 グッチへ行く』では、鞄を有効に使うためには等価交換でなくてはならない。
基本的に、これらのルールは理不尽です。なぜそうなるのかということについて口をはさむことは不可能で、そのルールに触れたものはそのルールに否応なく従わなくてはなりません。『懺悔室』と『富豪村』にその特質は強く表れていますが、命を懸けてポップコーンを口でキャッチしなければならなくなった彼も、マナーを守らなかったばかりに大切なものを喪うことになった彼女も、そのルールに自身の意思を介在させる余地はありません。そうであるからそうするしかない。残酷なまでに不動のルールです(その残酷さゆえに、『懺悔室』ではどんでん返しが光るのですが)。
自分の外側にある、自分には関知し得ないルール。それは、『SBR』の大統領言うところの、「ナプキンを取れる者が決めている」ものでもあります。『懺悔室』の死人、『富豪村』の山の神が、「ナプキンを取れる者」です。大統領は「ナプキンを取れる者」を「万人から尊敬されていなくてはならない」と言いましたが、死人や山の神は、万人からの尊敬の対象ではなくとも、人間とは次元の階梯を違えている超自然的な存在であるがゆえに、それらが先んじて行ったナプキンの取り方に、人間は従うしかありませんでした(本作の狂言回しであるところの岸辺露伴はスタンドという名の裏技を持っていたために、そのルールに対して異議申立をし、辛くも窮地を逃れていますが)。
現在連載中の『ジョジョリオン』では、この、自分の与り知らぬところで決められているルールにどう対処るするのか、という点が見どころとなっています。もともとスタンド能力は、何かしら単一の能力を発揮するものであるために、戦闘も単純な力押しにはならないのがジョジョシリーズのいいところなのですが(まあ3部はともかく)、『ジョジョリオン』では、その傾向が一層顕著です。ファン・ファン・ファンも、kリフォルニア・キング・ベッドちゃんも、ボーン・ディス・ウェイも、カツアゲロードも、「自分が今何をされているのか」を考えるころから戦闘がスタートし、それの解析、反撃というのが基本ラインです。
ジョジョリオン』は『岸辺露伴は動かない』と違い、スタンド同士の対決ですから、「ナプキンを取った者」は、「万人から尊敬され」るわけでも、存在の次元が異なっているわけでもありません。それゆえ、相手方が仕掛けてきたルールにも同じ土俵で対応し、反撃が出来るのです。
この「ルール」と「それへの対応」という観点は、荒木飛呂彦先生の作品を考えるに、ちょっと面白いものだなあと思ったりなんだり。


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