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『ひばりの朝』ひばりを通して浮かび上がる人々の話 成年男子編

ヤマシタトモコ先生『ひばりの朝』についての感想文その2。

ひばりの朝 2 (Feelコミックス)

ひばりの朝 2 (Feelコミックス)

ちなみにその1はこちら。
『ひばりの朝』ひばりを通して浮かび上がる人々の話 富子編


今回は成年男子編と銘打って、ひばりの従叔父であり富子の恋人でもある完と、富子と完の大学時代からの友人である憲人にスポットを当ててみようと思います。
talk.1は完視点で描かれており、そこではひばりは、完に惚れている女の子、と見られています。これはつまり完がそう見ているということなのですが、その完の視点はひょっとして勘違いでは?ということが富子との関係性から示唆されます。いわく、「おれはいつもたいせつなものをみのがす」。
完はまず富子との会話で彼女の機嫌を損ね、「「そーだっけ」か――」と言った富子の表情に、その直前のひばりとの会話の中でひばりが「大丈夫」と言った時に見せた表情を重ね合わせます。明らかに気分を害している富子の表情と、自分に好意を滲ませている瞬間であろうはずのひばりの表情。なぜその二つが重なるのか。
この時の二人の表情に共通する言葉をつけるなら、完の言葉を借りて、「たいせつなものをみのが」された表情なのだろうと思います。富子についてもひばりについてもtalk.1以降を読んで初めて判明することですが、富子編でも書いたように「女の値段」が低いことを気に病んでいた富子にとって、初めて付き合った(少なくとも初めてセックスをした)相手が完であり、彼以外と経験がないということは、ある種のコンプレックスであり、同時に自分に「女の値段」をつけてくれた完に対するつながりの証でもあったのですが、そのことを「そーだっけ」とえらく軽々しく扱ってくれた。完の発言自体は、確かに軽々しくはあるものの、傍から見ればそこまで決定的にひどいものとは言えません。最終話まで読んでも、富子が自分のコンプレックスについて完(あるいは他の誰か)について漏らしたとも漏らしてないとも描かれていないので、後者であれば、そこまで察しろと完に要求するのは少々酷なことだと言えそうです。けれど、第三者的にはそうだとしても、恋人としての富子は察してほしかった。富子とにとってそれは、察してほしいくらいに「たいせつなもの」だった。けれどそれをしてくれない完に、悲しいまでの諦めの気持ちが込みあがってきた。
そしてひばりの言った「大丈夫」。talk.1だけではわからないものの、彼女が父親からセーテキギャクタイに類するものをされておりそれを誰に相談していいものかわからない、かつ学校でうまくいっていない現状があったのですが、その中で完は「なんかされたら言えよ―」と口にし(ただし、これは憲人を念頭に置いての発言だったわけですが)、学校の友達とも遊ぶよう言ったところの「大丈夫」だったわけです。ひばりが出していたSOSのサインをまるっと見落とし(p12で暗に家に帰りたくないことを主張していたのはそれだったわけですが、完はそれを自分への好意ととっていました)テキトーな調子で「なんかあったら言えよ―」と言ったために、ひばりは諦めの気持ちもこめて「大丈夫」と言ったのでしょう。
富子もひばりも、「たいせつなものをみのがさ」れて彼に対してある種の諦めを抱いた。他者に対する諦めの感情は人間関係におけるポイント・オブ・ノー・リターンです。もうこいつにこれ以上期待できないな、と思った瞬間、諦めは湧き出ます。そのポイントを越えられて、完は初めて取り返しのつかないことに気付く。「おれはいつもたいせつなものをみのがす」なのです。
完の無神経さはtalk.10でも如実に現れ、そこでも「俺は いつも たいせつな ものを …見逃す」と、見逃した後にそれを思っています。この二度の後悔を経てもなお、というより経た上で彼は、talk.13で最大の勇み足をかましているのですが、これは「たいせつなものをみのがす」云々ではなく、してはいけないことをしてしまった、という域のものです。受動的な失敗ではなく、能動的な大失敗。それが意味するのは、二度にわたって見逃してきた「たいせつなもの」について、完は結局なにが本当にたいせつなのかわかっていなかった、ということです。このtalk.13の大失敗で完の無神経さは決定的なものとなり、最終話のラスト数ページで、ひばりの母親とともに、なにもわかっていなかった二人という象徴的な組み合わせで物語は〆られています。


対して憲人ですが、彼は初登場、および初主視点であるtalk.2においては、他人の幸福を妬む下種でプライドの高いアレな男、としてえらくひどい描かれ方をしています。彼がひばりと初めて面と向かうtalk.2でも、彼女と会話をする場を設けたのは完と富子に一泡吹かせるため、というろくでもない動機が語られていました。
そんな彼の自称は「なにしろおれはいつも他人の人生の脇役」。心の中で他人の文句ばかり言っている彼の姿を考えれば「それは本気にならねーからだろ」と四方から叱責が飛んできそうな自称なわけですが、そういうtalk.2での前振りがあるからこそ、talk.8で本気で狼狽する彼の姿が浮かび上がってくるのです。
父親からセーテキギャクタイを受けている、とひばりに告白された憲人(その描写は直接はありませんが)は、その言葉の重さからか気の利いた返答もできなかった自分に自己嫌悪し、それまでのひばりとの接触を回想します。そして気づくのです。自分が彼女を自分の見たいようにしか見ていなかったことを。

ちがう 「あんな顔」は一度もしていない おれの見てたのはだれだ
(2巻 p10,11)

憲人の言う「あんな顔」。それはいわば、男を誘う女の顔。けれど、ひばりはそんな顔は一度もしていない。憲人が本当に見ていたのは、ひばりの体。

だって 俺だって考えたよ あの体 見て
つっまんねー話聞きながらさ 想像したよ 胸の肉に指が沈む感じとか 股の間のシワをなぞる感じとか 中坊ってどんな声だすかなとかさ いろいろ いろいろ 考えたよ めちゃくちゃにしたって構わねーだろとかさあ
(2巻 p9)

中学生にしてはあまりにも肉感的なひばりの体を見て(加えて完と富子に対する嫉妬もあって)、憲人はひばりに対して、性的なものにしか見えなくなる色眼鏡をかけてしまった。けれどその眼鏡は、重苦しい言葉の衝撃によって吹っ飛んでしまった。そこで憲人が初めて見たのは、自身の現状に苦しんでいる一人の弱々しい女子中学生の姿だった。この瞬間憲人は、自分が見たいものを見たいようにしか見ていないことに気づいたわけです。
ひょっとしたら、talk.2での友人らの結婚話に見せた偏見満ち溢れる自身の思いにも気づいたのかもしれません。見たいようにしかものを見ないということは、見ているものに対して深くコミットしていないということです。テキトーな思いで軽く接しているから、見たいように見てもさしたる害はない。逆に言えば、なにかに深くコミットしようと思えば、見たいように見てはいられないということです。
その意味で、「おれだって一生に一回くらいは善いことしたって罰あたんねーだろ」と言った憲人は、ひばりに一歩踏み込もうとしているわけで、彼女への色眼鏡は外さざるを得なくなっていたのです。
大学時代、完と付き合う前の富子にひそかに片思いをしていたはずの憲人は、完に先を越されてしまい、自分の思いをごまかすように彼と彼女をけなし、「ま いんだけど べつに」と独白していました。けれどtalk.8で、ひばりに一歩踏み込もうとして富子に相談した憲人は、彼女に向かって「同じ女だろ」言いました。富子編での解釈に従えばこれは、ひばりも富子も憲人にとっては同じ女=庇護されるべき存在である、という告白なのです。憲人による、富子への初めての一歩踏み込んだ発言なのです。


ここで秀逸なのは、この発言で憲人視点であったtalk.8が終わり、富子視点のtalk.9に移ったことです。他者により深くコミットすることを選んだ憲人の内心は、この転換により富子の視点から推し量るしかできなくなります。憲人自身からは直接的に語られなくなったということです。
だから、憲人の「楽しそう」な様子も、富子にはひばり=庇護されるべき対象を庇護することに喜びを感じているおめでたい男と映っています。本当は、無意識のうちに富子にも一歩踏み込めたことが嬉しいのかもしれないのに。「こんなこと相談できる女友達いねえしさー」も、憲人にとっては親密さの表れかもしれないのに、富子にとっては、所詮友達どまり=「女」として見られていないことの表れです。
意図してのものなのかはわかりませんが、このように視点が転換したことで、憲人と富子のすれ違いは明示性が薄くなり、登場人物間の感情の交錯が不明瞭になっているのです。その不明瞭さこそが、この作品を読んでいて感じるぞくぞくにつなっているのでしょう。


とまれ、憲人はこうして、誰かに一歩踏み込める男、本気になれる男として変化を始めました。
改めて完と憲人を比較すれば、二人は「たいせつなもの」を見逃した者と見逃しかけていたところで踏みとどまった者、と対照できるでしょう。そしてそれは最終的に、富子にふられた男/付き合った男、という端的な対照にも現れています。なんというか、愚かであるとはどういうことか、というのを教えてくれるかのような二人の男性の描き方だと思いました。



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