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『へうげもの』歴史は繰り返す。同じ轍を踏む織部と利休の話

関ヶ原の戦いが終わった『へうげもの』15巻。

へうげもの(15) (モーニング KC)

へうげもの(15) (モーニング KC)

投石器で飛ばされる織部、ヤンキー小早川、昇天家康と数々の名場面がありましたが、それはそれとして興味深く読んだのが石田三成の最期とその遺品でした。
斬首を目前にして末期の水と白湯を望んだ三成に対して、徳川方の処刑吏は「白湯なぞない 干し柿ならあるぞ」と差し出す。それを見て、静かな笑みをこぼした後に三成が発した言葉が「干し柿は痰の「毒」ぞ」。今まさに死のうとするものが、干し柿は喉に悪いと身体をいたわる旨の発言をし、居並ぶ者たちは大いに失笑した。「まったくひょうげたことを申すわっ」と。
発言直前の三成の回想と笑顔から彼が意図的に失笑を買う発言をしたことは明らかですが、さんざん相容れないところを披露していた織部の「へうげ」という価値観に、三成は最期の最期で受け容れを表かにし、周囲の笑いに「へうげ」を噛み締めたのです。
この姿に重なるのは、秀吉の策謀により謀反を起こし、彼の天下統一の踏み台にされた明智光秀の最期です。比叡山へと逃れようとした道中で僧兵により致命傷を負わされた光秀は、利休に示唆された「わび」の境地を存分に噛み締め、下の句を排した歌を詠みました。「下の句など蛇足……」と、最期に言い遺して。光秀は、「へうげ」を受け容れることのできなかった三成と違い、もともと「わび」に憧れがあったのですが、それでも最期の最期に利休さえも到達していなかった「わび」の境地へと至り、それを噛み締めました。
死を目前とした中での(「へうげ」と「わび」という違いはあっても)「数寄」の実感。それが二人の共通点。ですが、それだけではありません。死んだ者だけではなく、残った者たちにも共通するものがあります。「へうげ」/「わび」という「数寄」の価値観を提唱していた、古田織部千利休という2人の宗匠。三成/光秀が遺したものを知った彼等は、非常によく似た念に駆られました。
捕縛される前の三成が、織部のもとに届けてくれと馴染みの商人に頼んだ品物。それは、織部からもらい、自らの手で砕いた小茄子茶入を寸分違わぬより細かい欠片に割りなおし金で継いだもの。遺品として届けられたそれを目にした織部は、明らかにやりすぎでありながらそうせずにはいられない如何にも三成らしいその細工に、たまらず金時を大いに怒らせ笑い転げました。それは織部の敬愛する秀吉いうところの「笑うたら負け」を地で行く姿。弟子の石田上田にそれを指摘され、咄嗟に怒鳴り返してごまかそうとしましたが、後で落ち着いて思い返せば、後悔の念が湧くばかり。「俺は図らずとも関ヶ原にて……… 「ひょうげ」の芽を摘んでおったのか……」と。
織部のこの後悔が重なるのが、光秀の辞世の句を家康から知らされた利休です。光秀の辞世の句が下の句を排すほどにわびたものだと知った利休は「さすれば私は…… 愚かにも…… 真のわびの芽を摘んでいたのだ………」と、光秀を死に追いやった自らの行いを心底悔いました。
奇しくも、自らが至高と崇める価値観を体現した者を死に追いやってしまった両宗匠。そのような状況に追い込まれなければ、三成も光秀も体現することは出来なかったかもしれませんが、両宗匠はそうは考えることをせず、後悔の念に駆られるばかり。
織部は、まだ利休が存命だったころ、彼の「石コロを蹴散らすが如く邪魔なものを排すその業」に恐れを抱き、「左様な道を通らずとも 数奇の玉座に座る術が」あるはずと己の道を決意しましたが(八巻第六十七席) 、図らずとも同じ轍を踏む羽目にはなってしまった。
関ヶ原も終わり、いよいよ開かれる江戸幕府Wikipediaをちょいと見れば、織部の残りの生涯もいくらか予想がついてしまいます(まあ「この漫画はフィクションにて候。実在の人物・団体等と無関係にて候」とあるんですけど)。己の業のために腹を切った前宗匠の利休。弟子であり次代の宗匠となった織部は果たして、如何に己の業と向き合い、その生涯を閉じるのでしょうか。


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