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『魔法少女プリティ☆ベル』から考える、正論から時折漂うアレなにおいの消し方の話

王様の仕立て屋 サルトリア・ナポレターナ』1巻を買いに本屋へ行ったら、『魔法少女プリティ☆ベル』の7巻も売ってた。発売していたとは。

魔法少女プリティ☆ベル 7 (BLADE COMICS)

魔法少女プリティ☆ベル 7 (BLADE COMICS)

で、今日の話は後者の『プリティ☆ベル』。この作品、新刊を買うくらいに好きではあるのですが、それはそれとして気になるところもあります。それは何か。一言でいえば、時折ひどくにおうこと。一言で言い過ぎなのでもっと具体的に言えば、作り手の信条や理想が時折作中で素のまま、もしくは物語の文脈にうまく埋め込められないままに現れているように感じられることがあり、それが鼻につく、ということです。
たとえば、2巻第7話での東の魔王ジロウ・スズキによる「平和主義者」論。たとえば3巻第9話や5巻第18話での今代の真・プリティ☆ベル、エリちゃんによる経済論。たとえば5巻第18話での南軍総務大臣エミリオによる民主主義論。ここらへんの話を読んだ時、私は妙に鼻につくものを感じてしまいました。「におう」とか「くさい」とか「鼻につく」とか、なぜ嗅覚的にそういう印象が浮かび上がるのかは興味深い話なのですがそれはともかく、そこにひっかりを覚える理由はなんなのか考えてみたいと思います。
まず、上の三例を並べてぱっとわかるのが、どれも政治的な話だということです。この場合の政治的とは、ある人間や社会集団の動きが、その外部にある同格の人間や社会集団に、もしくは人間や社会集団それ自身の内部に影響を与える、ということですが、この三例はどれも、人間や社会集団がより効率的な政治的振る舞いをする為にどのような思想・理屈に基づけばいいかを述べています(引用すると長くなりすぎてしまうので、確認は各人でお願いします)。
他の見方をすれば、どれも文句のつけようのない正論だといえるでしょう。もうちょっと言えば、夢想的ではなく現実的な正論。「世界がこうあって欲しい」「こうあってくれたらな」という希望的観測ではなく、「世界はこんな具合に上手くいかない。だからそれを前提に話を始めようという」という現実性に基づいた正論です。
なら、政治的であれば、正論であれば鼻につくのかと言えば、そういうわけではない。作中には他にも政治的な話や正論は登場しますが、別段気にならないものもあります。たとえば2巻第7話での三魔王による軍事会談。たとえば3巻第10話でのジロウ・スズキによる平和論。たとえば7巻第26話での東軍魔王秘書イタカによる平和論あるいは国家論。それらについては、特に鼻につくことはない。物語の文脈に問題なく埋め込まれているように感じられる。
じゃあ、前者と後者の違いは何か。
思うに、私がアリだと感じるポイントは二つ。
一つ目は、ある論に競合しうる論が存在すること。言い換えれば、その論が他の論から特権的に優越する立場にいないことです。同じ話内(2巻第7話)で展開される、ジロウ・スズキによる「平和主義者」論と、三魔王による軍事会談が対照的で説明しやすいので、それを例にとりましょう。
ジロウ・スズキの「平和主義者」論は、彼とエリちゃんによる会話(というほどエリちゃんの言葉は多くないですが)によって展開されていますが、その形式は問答や対話ではなく、ジロウ・スズキからエリちゃんへの説法、あるいは教導と言えます。
このジロウ・スズキの話には十分理があります。理想に溺れることなく、現実的すぎるくらいに現実的、平和を維持するにはどれだけの代償が必要かを認識した上で、彼の言葉は語られています。だけどその時彼の言葉を担保するものは何もない。彼の言葉は現時点ではあくまでただの言葉、極論すれば机上の空論とさえ言っていいでしょう。(作中で語られた)現実に適用されたのを(まだ)見ていない、という意味で机上の空論なのですが、その点で言えば、それこそエリちゃんの語る「平和のために戦争するの? 変だよ」という言葉と変わらない(彼女の言葉もまた、現実に適用されてはいませんから)。なのに、彼の言葉は一方的に他の人間を説得している。重みをもつものとして扱われている。
もちろんジロウ・スズキ自身、作中ではその論を現実に適用した上で一軍の上にいる立場なのですから、作中でその事情を知っている人間が納得するのは問題ありません。でも、あいにく読み手はその論が現実に適用された過去をまだ知らない。だから、読み手は彼の論が特権的な力を帯びることに納得がいかない。まあ読み手って言うか私。
エリちゃんに一方的に正論である「平和主義者」論を語ったジロウ・スズキ。ある論が特権的な地位から他の人間に高説を垂れる姿には、言葉を選ばず言ってしまえば、「馬鹿にいいこと教えてやってる俺ってカッコイイでしょ?(ドヤァ」という気持ち悪さがあるのです。
翻って、軍事会談の中でジロウ・スズキは彼の「平和主義者」論に則った立場から種々の提案をしていきますが、それに対して他の二軍からも対抗しうる提案がなされます。結果的にはジロウ・スズキの思惑に沿った形で会談は進んでいきますが、その過程で東軍と同格の立場にあるそれぞれの軍からそれぞれの思惑に則った案が出て、それぞれがそれぞれ納得して折り合いをつけた上で話は進んだ。そこにはジロウ・スズキの論の特権的な優越性がない。この会談で各軍が主張する案(とそれが基づく思惑)について、やはり作中で読み手が納得できる(される)形での明確な裏付けはありませんが、代わりに同格の論との対抗があるために、一つのものだけが優遇されてる感じがせず、アレなにおいが消されるのです。
理念的な論を納得させうる現実の描写、あるいはある論と競合しうる同格の論が存在することで、政治的な正論のきな臭さは消失する。これが一つ目のポイントです。
二つ目。納得させる描写や対抗馬が無くとも、漫画としての、エンターテイメント作品としてのカタルシスがあれば、変なにおいはごまかせる、ということです。
これは7巻第26話でのイタカによる平和論が好個の例なのですが、彼女が反戦平和団体「明日への希望」(「愛さえあれば平和は来る!」的な団体)の副代表リリィと対談した時、それは対談と呼べるような対等のものではなく、愚昧な「平和主義者」であるりリリィに対してイタカが一方的に現実の厳しさを教える、というものでした。
上のジロウ・スズキの例と同じく、説教であり、教導です。やはりこのイタカの論にも十分理はあります。彼女の言っていることは概ね事実と言っていいでしょう。でも、どんな正論だろうと一方的に放言されて楽しいわけはない。それは、言われる側でも傍で見ている側でも同じです。特に見ている側にとっては、反論の余地のない正論は息苦しい。そして、反論の余地のない正論とは、実は現実的ではない論です。現実的ではないというよりは、あまりに広く言いすぎているため、それが適用されるべき具体的な現実には踏み込んでいない。当ブログでは何度かそんなことを書いていますが(この記事とか)、イタカの話はあくまで平和を考える(政治的に考える)前提であり、じゃあ実際に平和を追い求めるためにどうすればいいのか、という具体的実際的なポイントには触れていません。イタカ自身、リリィの話を「根本から間違えているのか」と言っていますが、まさにその根本の話なのであって、根本の話に終始し、具体的な話にポイントを移さないで正論を述べていれば、正論は正論であるために反論されようが無いのです。
でも、そんな彼女の話も、このシーンにおいては許される。少なくとも自分には許せた。なぜかと言えば、リリィの言葉を逆手に取り議論をドラマチックに終結させ、カタルシスを生むことができたから。

無理だよ だって…
お前はジロウの話しさえ聞かなかったじゃないか
(7巻 p123)

三段ぶち抜きの見返り姿で決め台詞を言い放ったイタカには、彼女の正論のアレなにおいを感じ取っていた私の嗅覚を一気に麻痺させるだけの力がありました。彼女の話が反論しようのない正論のごり押しだとしても、それを論じるシーン自体に一つのドラマ性があれば、においを帳消しにできるのです。
カタルシスという衝撃による嗅覚の麻痺。これがもう一つのポイントです。


アレなにおいが生まれやすいシーンは、おそらく作り手が理想とする、こうなったらいいなと思う論がぶたれているところだと思うんですよ。アレなにおいが出るタイミングの一つは、ある論が他と競合せず特権的な優位な位置にある時。つまり、その論が他より優れている位置づけにある事が作中で明白になっている時です。自分がこうなって欲しいと思う考えが他の意見に負かされることを望む人はいないでしょう。だから、そういう意見は作中で特権的な地位を得やすく、だからこそ読む人間、ていうか私の鼻につく。作り手はギャグやコメディ、あるいは真面目なものとして受け取られる範疇として描いたと意図していても、その特権性ゆえにアレな感じが浮き彫りになる。とりあえずは私はそう感じる。民主主義や平和というものについてKAKERU先生には一家言御有りなのでしょうが。


正論、あるいは理想や理念は、それ単体だけで考えるのなら無謬の美しさを持つものですが、一度それを現実に適用しようと思えば、当然適用不全が起こる。そういう不備を一つ一つ現実に対して対応し、あるいは現実の方を改変し、世界はちっとは政治的にましな方へ動く。その過程で、正論の正しさは薄れ、反論の余地が生まれる。だが、それがいい
冒頭に「政治的」についてちょろっと書きましたが、そもそも「政治」とは、主観合理でしか動かない個々の人間(集団)を、より高次の合理に基づいて総体として動かすことです。その意味で正論と政治の食い合わせは悪く、個々の人間(集団)の主観合理とはいわばそれらにとっての正論であり、それぞれ異なっている個々の正論を調整しまとめるのが政治の役割ならば、その過程で正論は必ず形を変えざるを得ません。理念としての机上の正論を現実に対応するもの、文句や反論の出うるものに変えるのが政治なのです。


最後の方はだいぶ話が脇にそれていきましたが、正論から漂うアレなにおいと、それの消し方の話でした。



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