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『ハチミツとクローバー』に見る「天才」の呼ばれ方の話

前回の記事羽海野チカ作品の人称について触れましたが、今回はその流れで、『ハチミツとクローバー』のはぐの呼ばれ方の変化について考えてみます。

ハチミツとクローバー 10巻セット

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友人である山田や竹本、真山らからはぐは、基本的に「はぐちゃん」と呼ばれています。彼女にあまり近づいてこない他のクラスメートが「花本さん」と呼んでいるのと対照的な、友人としての気安い愛称です。
けれど、その基本が崩れるシーンもあります。

<神さま>
彼女は戦いに入っているのだ
<やりたいことってなんですか?>
神さま やりたい事があって泣くのと
<それはどうすれ見つかるんですか>
見つからなくて泣くのでは どっちが苦しいですか?
<それが見つかれば強くなれるんですか?>
<あんなに泣いている彼女からでさえ>
ただわかるのはひとつだけ 今僕の持っている言葉を総動員しても
<ぼくが感じたのは ただ果てしない>
彼女の涙は止められない
<つよさ だった>
(6巻 p85,86)

たとえばこれは、決まらない就職活動の中で、自分がやりたいことはなんなのか、自分はどういう人間なのかということを否応なく突きつけられて打ちひしがれる竹本が、自分がやりたいことを知りながらそれを得るためにもがいているはぐを物陰から見ているシーンです。<>付きの文(作中の表記では横書きの文字)と無しの文(同じく縦書きの文)で、複層的に竹本のモノローグが書かれていますが、その両方ではぐのことを「彼女」と表しています。その直前、はぐに声をかけようとしたときは「はぐちゃん」と口にしているのに。このモノローグで「はぐちゃん」ではなく「彼女」と呼んでいるのは、自分とはぐ、彼我の立ち位置の差を痛烈に竹本が意識しているからでしょう。心が折れかかっていることは共通していても、その理由が圧倒的に違う。はぐが立つステージに、竹本は上がれてすらいない。そのステージにどうやれば上がれるのかで悩んでいる。この心理的な距離が、竹本に「はぐちゃん」ではなく「彼女」という他人行儀な呼び方を使わせたのでしょう。

正直に言う
圧倒されていたのだ 山田さんも ボクも
彼女の中にある強さに 
痛みさえねじふせてしまえる程の 強い意志に
(9巻 p114,115)

わかんないんです… ホントは… 私なんかに………… 彼女にしてあげられる事なんてあるんでしょうか!?
<ずっと感じてた>
彼女を見ててふっと すごく遠く感じたんです 背負ってるものが違いすぎる… 覚悟っていうか…
<目の前にいても 彼女が ここじゃない何処かを見ているようで>
ありきたりなコトバなんだけど
<今はここにいるけれど>
ほんとうに 世界が違うんだって……って
<いつか ひらりと 通り過ぎていってしまうような気がして>
(9巻 p118)

大怪我をして、自分の手が再び動くかどうかの瀬戸際を痛みに耐えて知ろうとしていたはぐを目の当たりにした、竹本と山田の言葉です。特に山田の言葉は、以前書いた記事(漫画で天才はどう描かれるのか、「ハチクロ」と「バガボンド」を例に考えてみる話)でも触れたように、はぐの「天才」性を強く実感するものとして捉えられます。二人がはぐの強い意志に圧倒されるのは、「駆り立てるもの」に憑かれた者が見せる「狂気」(詳しくはこちらの記事 「駆り立てるもの」が繋ぐ「天才」と「狂気」の話)を感じたのもあるでしょう。自分にはない「駆り立てるもの」=「狂気」。この絶対的な有無に山田は「遠さ」を感じ、言葉の中で「彼女」と表現してしまったのだと思います。
このように、「天才」に対する「遠さ」を非「天才」が感じた時に心理的な距離が離れてしまうことが、愛称から他人行儀な三人称への変化と言う形で表れていると言えるのではないでしょうか。



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