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荒木飛呂彦の語る即興演奏と創作行為の共通点を、もう少し膨らませた話

講談社現代新書物語論』に、荒木飛呂彦先生のこんな話が載っています。

物語論 (講談社現代新書)

物語論 (講談社現代新書)

ジョジョ』って、すごく構築した作品だとよく思われているんですけど、自分の中ではその時その場で考えたことをアドリブで描くジャズみたいなもので、ちょっと間違えてもその現場の一回限りの録音ならではの味が出ていたら面白いんじゃないの、という考え方でやっているんです。
(p131)

テーマも、バーンと打ち出している「人間讃歌」であるとか、「敵も味方も、肯定的にものを考える人しか出さない」であるとかいう、軸として追う部分は揺るがないようにしています。でも、肉づけの細かい部分については、事前に決めすぎると、たとえば「来週の読者」とか「今年の時代の空気」みたいな目の前にあるものとズレてきてしまうし、連載をしているうちに、どうしても自分ではコントロールできないところが出てくるんです。だから、日記やジャズのようなものだ、と納得するしかなかったんです。
(p132)

創作物をジャズのアドリブに例えることはしばしば見られますが、ブログなんかを書きつつ、しばらく前からじわじわとジャズのアドリブ、即興演奏を練習している人間として、どこらへんが似ているかっていうのをもうちょっと詰めて考えてみたいと思います。
とりあえず、多くの人が想像するであろうアドリブ、即興演奏とはどのようなものか、というところから。
たとえばこんなのがいわゆる即興演奏ですか。

簡単に言ってしまえば、初めにテーマと呼ばれる曲の主題となるメロディラインを演奏し、その後にアドリブスペースがテーマの小節数×n回。そしてまたテーマをに戻りエンディング。それがジャズの即興演奏、コンボと呼ばれるジャンルです。アドリブスペースは基本的に何をやってもかまいません。バックで演奏するドラム、ピアノ、ベースといったリズムセクションが刻む、テーマと同じ和音進行やリズムに乗って、あるいは敢えて逆らって、ソロプレイヤーはアドリブをとっていきます(リズムセクションの楽器がソロをとることもあります)。この和音進行、リズムが、荒木先生の言う「軸として追う部分は揺るがない」に当たるでしょう。アドリブプレイヤーが作る即興演奏は、それに乗るであれ外れるであれ、和音進行、リズムパターンを基準とします。

一回性の高さ=再現性の低さ

コンボと呼ばれる、アドリブ演奏を主眼とした少数の楽器による演奏は、アドリブスペースの譜面がない(和音進行のみ示される)場合が普通ですので、その演奏は一回性が非常に高いものとなります。演奏している真っ最中に次はどう演奏するかを考えなけれならないアドリブは、思考や気分のほんのわずかな揺らぎで次のプレイが変化するし、リズムセクションがアドリブを盛り上げるために入れるバッキング(合いの手)はアドリブプレイヤーの演奏次第で如何様にもなるし、さらにそのバッキングでアドリブがまた変化する。ことほど左様に、一度演奏したものをもう一度まったく同じように演奏することは難しいのです。ていうかそんなのまず不可能。
対して創作行為。
実はこれ、自分が作ろうとしているものは予め頭の中で出来上がっていて、あとはそれを形にするだけ、というものではありません。そんなメカニカルなものではなく、頭の中に漠として存在していたものが、絵なり文字なりに形を与えられていくその瞬間に、自分が何を作ろうとしているのかはっきりとしてくる、というファジーな性質のものです。
形になるまで頭の中に完全無欠な完成像がないということは、創作行為をしている状況、たとえばその時にかけている音楽だとか、流しているテレビだとか、直前に会った人間だとか、直前に行った場所だとか、直前に読んだ本だとか、直後に予定しているイベントだとか、そういうものの影響で、創作物がどのような形を与えられるかは変わりうるということ。楽しい気分の時と、悲しい気分の時と。日本画展に行った後と、ロックのライブに行った後と。一時間後に恋人と会う予定なのと、大嫌いな人に会う予定なのと。完全なイメージのないものを作る最中に、それらが引く線、選ぶ言葉に影響を及ぼさないわけがありません。
このような一回性の高さ、再現性の低さをして、荒木先生は創作行為をジャズのアドリブに例えたのでしょう。でも、それだけではありません。まだまだ多くの点で、アドリブと創作行為には共通点があります。

頭の中の理想像と、現実と

実際に即興演奏をやる前は、こうしようああしようということは考えるんですよ、いくら譜面が存在しないと言っても。このフレーズを使って、あのテーマを引用して、そのリズムパターンを使って、とか、演奏を始める前はもう一流プレイヤーなんです。想像の中だけでは。
で、いざ演奏が始まればすぐにずたぼろ。思った通りに動いてくれない指に、自分が何をしたかったかなんて最初の数小節で飛んでしまいます。「演奏している真っ最中に次はどう演奏するかを考えなけれならないアドリブ」と書きましたが、その思考が演奏に追いつかなければ、あとはリズムセクションに引きずられるように無我夢中で指を回すだけ。和音進行によるフレーズの選択どころか、小節数を間違えないようにという基本的なレベルでいっぱいいっぱい。自分のアドリブスペースが終わると、達成感より先に何とか終わったと肩の荷を下ろす感覚。そして深い絶望。始める前のかっこいい自分はどこへ行ってしまったのか。
このように、自分の想像の中のアドリブと実際に演奏されるアドリブには千里の径庭があります。誰もが名プレイヤー。ただし、想像の中では。
これは創作行為でもよく言われることです。頭の中にある内はどんな作品でも名作である、と。創作物の評価は、現実の作品になって初めてなされます。頭の中のアイデアだけでは、その発想の評価はできても作品の評価はできません。
即興演奏も創作行為も、それを現実の形にしないことには意味はないし、評価のしようもない。作品の良否は、なにはともあれ演奏してから、作ってから。全てはそこからなのです。

「かっこよさ」の下積み

上で、アドリブスペースでは何をやっても構わない、と書きました。そこには但し書きがつきます。それがかっこよくさえあれば、という但し書きです。この「かっこよくさえあれば」というのが、即興演奏の曲者にして最大の懸案事項にして追い求めるべき大前提のものなんですが、好き勝手にやったものが即かっこよくある、というのはまずありえません。即興演奏に手を出す前は、リズムセクションに合わせて演奏すればいいんだろ?なんて考えていましたが、大甘。吹いた音が全然かっこよくない。どんな音を出せば上手く響くのか、のれるリズムになるのか、かっこいい演奏になるのか。何も知らないで、何もやらないでできるものではなかった。
かっこよい演奏にするためには色々考えなくてはならないことがあるし、その考えたことを実際に演奏できるようにするためには練習をしなければいけない。
自分の思った通りに指が動く。和音に上手く響く音を選ぶ。気持ちのいいタイミングで音を出す。巧みな即興演奏にはこれらの要素があり、これらを行えるようにするためには反復的な練習と、その練習を効果的に使える様にする理論面での勉強が必要になります。先達が遺してくれた理屈は大事なのですよ。
創作行為に練習という考えは馴染まないような気もしますが、要は自分が目指すものに近づくためにはどうすればいいか、という意識です。いきなり何かを作って、それが思った通りのものになるわけではありません。理想とかけ離れたものができて、膝から落ちて当たり前。そこから這い上がるために、自分に何が足りないか、自分の目指すものにはどうすれば近づけるか、どんな文献に当たればそれを学べるのか。そういうことを考え、実行していく必要があります。何の努力もせずに思った通りのものが生まれるほど、甘い話は無いのですな。

武器/足枷の「手なり」

即興演奏には「手なりフレーズ」と呼ばれるものがあります。これは、普段よく練習する、好きなプレイヤーがよく使っている、指が動かしやすいなどの理由で、何も考えずに演奏しているとつい出てしまうフレーズのことです。それがあることが悪いわけではありませんが、即興演奏においてそれしかしないのでは聴き映えがしません。なので、手なりフレーズに頼りすぎることなく、表現の幅を広げるためには、あえて手なりフレーズをしない練習が必要になるのです。無意識のうちに自分が避けていることをあえてする。得意技に安住しない。できること/できないことを意識する。
創作活動においても、自分の得意な絵、好む言い回し、やりやすい身振り手振りがあるでしょうが、そればかり使うというのでは能がありません。無意識のうちについつい使ってしまうそれらをまず意識し、それ以外のものを用いることで表現の幅を広げる。
これは、得意技を磨いて自分だけの武器にする、というのと同時に行うことが望ましいでしょう。強い武器と、それに頼りきらない応用力と。

やる自分/見る自分

即興演奏の最中、もちろん自分は演奏をしているプレイヤーです。ですがその演奏が上手くいっているかどうかを判断するために、客としての自分も同時にいなければなりません。独りよがりで演奏していては、リズムセクションとも噛み合わず、和音進行とも響かず、単独でどれだけ高度な技能を持っていたとしても、よい演奏とはなりません。プレイヤーにしてリスナー。主体として演奏する自分と、客体として演奏を聴く自分が必要になります。
創作物も、出来上がったそれが自分ではどれだけ素晴らしいものだと思っても、見る目が作り手としての先入観、予備知識で曇ってはいないか。まっさらな目で見る第三者にとっては、わけのわからない表現、設定であったりしないか。自分の知識、感覚を括弧に入れた上で自分の作品を評価する事ができるかどうかが、創作者としての一つのポイントでしょう。
同時に主体と客体であらねばならないか、時間差があっても構わないかでいくらか違いはありますが、即興演奏も創作行為も、主観を離れた審美眼は必要となります。

まとめ

創作行為の比喩によく即興演奏が引き合いに出されるのは、作り手は己の創作物について全知全能である、その成り立ちを完全に理解しているという風説に対して、創作行為の一回性の高さ/再現性の低さを強調したいからなのでしょう。ものを作るという行為は、一般に考えられている以上にドライブ感あふれるもので、その完成像は完成しなければ確定しないのです。
そして、頭の中のアイデアだけでは誰も評価してくれない。まずはそれを像として形にしなければならない。像の質を高めるためには、日ごろの練習、心がけが大事になってくる、などなど。まあ即興演奏も創作行為も広く芸術に括れるものではあるので、共通するところはそりゃあるわけですよ。上で挙げたもの以外にも、考えればいくらでも出てくるでしょう。
趣味が一つだけという人はそういないと思いますが、分野の異なるものでも煮詰めていくと、意外な共通点が見えてきて面白かったりするですね。



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