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『12月生まれの少年』大人びた子供と大人ではない子供の話

12月生まれの少年 ? (バンブーコミックス )

12月生まれの少年 ? (バンブーコミックス )

この度完結した施川ユウキ先生『12月生まれの少年』。小学生の柊が、日常のあれこれに空想(妄想)を馳せながら、誰に漏らすこともなく空想に忍び笑いをもらす、というのがベースのお話です。レビューはこちら
大人になって色々なことを知れば、「そんなことはありゃすんめい」と空想にも自然とブレーキがかかってしまい、縦横に広がっていく柊の空想についつい頬が緩んでしまうものです。
で、そんな柊の空想の仕方を、彼自身が作中で的確に言い表しています。

ああっ!
おでんに関する知識を全て失くして
おでんと向き合ってみたい!
(3巻 p54)

このネタで柊は、おでんを一切知らない海外の人間が、知らない人が見れば珍妙な姿ばかりの具材が煮込まれているおでんを見たらいったいどんな気持ちになるのか、と空想しているのですが、このような発想が、まさに柊の空想を覗き見ている読み手の気持ちなわけです。
人間、成長するにつれ様々なことを知り、それにつれ個々の事物や概念の間に合理的な関係性を見つけていきます。合理的な関係性は、推論や記憶などをするのに有益なものですが、時としてそれは発想の固定化を生みます。「こう関連付けると都合がいい」という合理性は、その有用さゆえに、それ以外の関係性の可能性を非合理なもの、無益なものと排除しうるのです。
知識や社会常識のない子供は、各事物・概念の関係性が身についていないために、大人からしてみればまるで合理的でない、それゆえまず思いつかないことを発想していきます。子供自身は自分の発想を突飛とは自覚しませんが、大人はそれを見てもう忘れてしまった空想の限りなさを思い出し、懐かしさに耽って、その上で突飛さについ噴き出すのです。突飛さは、それが突飛であるとわかる常識を踏まえて、初めて突飛だと感じるのです。
その意味で柊は、空想たくましいただの子供ではなく、その空想を常識的な視点で見つめることもできる、非常に大人びた面がある人間です。ませた子供、と言ってもいいでしょう。
でも、いくらませていても常識的な見方ができても、子供は子供。それが表れているのは、柊が彼の両親、特に母親と対した時です。本当の大人である親の発想を目の当たりにしたときに、汗すら垂らして慄いている。逆に親が柊の話を聞いた時は、普通の顔をしているのに。
実際、柊の親はかなりぶっ飛んだ発想をしているので、現実的に彼らの発想が「大人」の範疇に入るわけではないと思いますが、作品の中では、親の発想にびびる=大人の考えについていけない柊、という構図が出来上がっているのです。まだ子供である自分は、いくら大人ぶっても本当の「大人」には追いつけない、という柊の劣等感は、3巻収録の「エロ本と少年」に良く表れています。
エロ本と少年
施川先生のサイトで丁度その話を試し読みできるのですが、柊の早熟な自意識と、大人のクローズドな常識を知らないという引け目がありありと出ています。
ませた子供。でも子供でしかない子供。想像を逞しくして、世界の秘密を知ってしまったような気がしても、すぐに自分が設定した世界の小ささに気づいてしまう子供。それを繰り返して、少しずつ成長していく子供。
人間は、大きな衝撃を受けるだけでは成長しません。その衝撃を抱えてなお生きざるをえない日常を知って、初めて一回り大きくなるのです。日常と非日常の循環。最終話の最後の一コマ、人生の決定的なワンシーンを体験した直後に、すぐさま日常に回帰してくるという柊の世界の小ささが、それを強く印象付けます。
サナギさん』もそうでしたがこの作品も、続く日常の中の一つのピリオドという形で、非常にきれいな最終回を迎えました。またこのような味わいの施川先生の作品を読みたいものですわ。


その他の試し読み;12月生まれの少年



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