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『宇宙兄弟』「ムリしてね」の嬉しさの話

宇宙兄弟(16) (モーニング KC)

宇宙兄弟(16) (モーニング KC)

ついに月を目指すことを許された六太。次の訓練は、水深20mの海底に設置された“地球上で一番月面を再現できる場所”における、仮想月面基地でのシミュレーション生活、NEEMOでした。六太の代である23期生と、その先輩である22期生から6名ずつを選出し、各期2名ずつを1グループとした計3グル―プで、二週間の海底生活が行われます。
親友であるケンジと同じグル―プになったことを当初は喜んでいた六太でしたが、訓練の途中で、月に行ける新人は同グループ内ではどちらか一人だけ、という事実を知らされ、ケンジとの仲が一気に緊張します。一日の訓練が終わり、海中から居住空間へ戻ってきたケンジが、六太から差し出しされた手を敢えて取らなかったシーンは、非常に象徴的なものでした。
お互いが競争相手だと意識した二人からは和気藹々とした空気が消え、作業計画も変更を余儀なくされていきます。訓練から逃げ出したいとさえ考えた六太でしたが、グループの先輩であるアンディとの会話から、とにかく「今」に集中する、という結論を出しました。自分は月に行きたいし、ケンジももちろん行きたい。自分には事情があるし、ケンジにもある。じゃあどうすればいいのかなんて考えても満足する答えなんか出るわけがない、だから「今」に集中するしかないのだと。

アンディとここで話してさ……
目が覚めたよ 俺 それで……
先のこと考えるのやめたんだ わかってたけど… 大事なのは結局…
“今”だ
今この訓練がどうやったら最高のもんになるかだけを考えることにした
やったことはきっと俺らの力に変わるはず… だからケンジ…
ちょっとだけ 無理なことに挑戦してこうぜ
(16巻 p167,168)

六太のこの言葉に、ケンジはあることを思い出します。他ならぬ彼の愛娘、風佳のことでした。
宇宙飛行士に応募した時は言葉もままならなかった娘も、もう五歳。幼稚園に通い、自転車の練習もする。「かぺー」の代わりに、しっかりと意味の伝わる言葉で父親を励ますようになりました。

いつからか風佳は「かぺ」を言わなくなったかわりに
「ムリしてね」
――なんて言うようになった
不思議と 僕にはそれが うれしかった
(中略)
「ムリしてね」
「ムリしないでね」――って言われるよりも
何倍もやる気になる言葉だ
(16巻 p170〜173)

ご時勢いつの間にやら、他人に「がんばって」と声をかけることは忌むべきことであるような風潮が生まれている気がします。鬱の人に「がんばって」と言ってはならない、という言説が流れ、それがなぜかそうではない人にまで適用されているような。なんだ、そこまで鬱は浸透していたのかと驚くほどです。
けれどケンジが勇気づけられるのは、「がんばって」どころか「ムリしてね」。精神科医が聞けば卒倒しかねない言葉ですが、それでもケンジが奮い立つのは、その言葉の裏にある、娘からの全幅の期待を感じ取っているからでしょう。風佳が無邪気に「ムリ」を要求するのは、それをすることで父が月により近づけることを知っていて、そして父ならそれができると信じているからです。
「ムリしないでね」は、言葉を換えれば「ほどほどにね」。自愛してという思いやりももちろんありますが、ムリをすればその人がどうにかなってしまうのではないか、という恐れもあります。期待・信頼ではなく、心配・恐怖。向けられた相手の心が前を向ける感情がどちらかと言えば、圧倒的に前者でしょう。後者の感情は言われた人間の心を、前にではなく、言った人間へ向けます。心配してくれてありがとう。そんなに不安にならなくて大丈夫だよ。そう思う気持ちは、言われた人間が取り組んでいるものではなく、声をかけた当人に返ってくるのです。
「ムリしないでね」は言われた人を、誰かを想う優しい気持ちにはしても、やる気を奮い立たせはしない。
風佳は、父と会える時間が減っていることに大きな不満を抱いています。それでも彼女は、父親が月へ行くことを応援している。もし彼が月へ行けば会う時間がさらに減ってしまうことを理解していないからだとしても、心から、素直な気持ちで応援している。そのまっすぐさは、ケンジの心を前に向かせる。
「ムリしてね」が、いつでも誰が誰に言っても有効な言葉とは思いません。「がんばれ」が鬱の人にはまずいように、その言葉が合うTPOがあるはずです。でも、だからこそ、誰かに声をかける時は、その時のその人に似つかわしい言葉を考えてかけたいものです。
私は好きですけどね、「がんばれ」。すごく素朴に応援してくれてる感じがして。「ムリしてね」も、冗談三割本気七割くらいの笑顔で言われれば嬉しくなっちゃいそうです。
宇宙兄弟』は、こういう微妙に捻った言葉の使い方、そしてそれが活きるシチュエーションの作り方がとても秀逸だと思うのですよ。



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