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『苺ましまろ』に見るシュールな笑いの話

前回のレビューを書くに当たり改めて『苺ましまろ』を読んで、その不思議なおかしみの感覚を再認識したのですが、果たしてその不思議さは何から来ているのかというのを、もうちょっと突っ込んで考えてみたいと思います。

苺ましまろ 6 (電撃コミックス)

苺ましまろ 6 (電撃コミックス)

まず一つには、やはり以前にも書いた、コマ送り技法からくるミニマルな変化による反復、すなわち「てんどん」的なおかしみがあります。

(5巻 p19)
「苺ましまろ」に見るコマ送り技法によるシュールな笑いの話
また、その記事では触れなかった(気づかなかった)のですが、コマ送り的に類似した構図のコマが並ぶと、そこにはパターンが発生すると同時に、ある種の間も発生すると思うのです。変化が少ないからこそ、その少ない変化に読み手は惹きつけられやすいと書きましたが、コマ送り的コマ群の情報総量そのものが少ないこともまた一つの側面です。より正確には、情報量の密度が低い、というところでしょうか。一つのコマの情報量は他のコマと大差ないでしょうが、類似したコマが並べば、それらからトータルで得る情報量は減少するからです。読み手が惹きつけられる微細な変化と、それと同時に存在する、情報密度が低いゆえの白々とした間。その間にもまた、破調のおかしみがあるでしょう。


続いては、前回のレビューの記事でもちょっと触れた、キャラクターが見せる場にそぐわない表情あるいは無表情です。

(6巻 p3)

(6巻 p71)
これについては以前の記事に詳しいのですが(漫画表現の中の、顔の見えない背中が語る内心の話)、ボケに対するリアクションやツッコミでは普通、キャラクターはそれに見合った大仰な反応を示すものですが、『苺ましまろ』ではその際、読み手に背中を向けることで表情を見せなかったり、あえて無表情にすることで、一般的な反応からは外れたものとなることがあります。行動自体が大袈裟でも、そこに感情のこもった表情が伴わなければ、キャラクターの心理を探るてがかりが減り、読み手はそこにある種の不安さを覚えるのです。見えない顔、心の読めない顔の不安感は、実生活を顧みれば誰しも思い当たる節があるのではないでしょうか。高校の時分、なぜか部室にブッシュ大統領(父)を模したチープなゴムマスクがあったのですが、体格のいい友人がそれをかぶってこちらに向かってくると、滑稽さと恐怖が猛烈な勢いで湧き上がってきたものです。いやホントに。

これが無表情のまま迫ってきたら怖いでしょう。
その不安感がギャグの中で用いられると、ボケとツッコミの構造はベタでも、一風変わったニュアンスが生まれるのではと思います。


最後に、ツッコミ不在のボケです。これはアナらのクラスメートである笹塚とその担任の掛け合いに顕著なのですが、担任が真顔でボケると、それを笹塚がツッコミというにはあまりにも素朴に疑問を呈し、それをさらに担任が一蹴する、という流れになっています。

(2巻 p73)

(4巻 p122)
笹塚はツッコミと言えばツッコミなのですが、それにかぶせる担任がボケの役割を再び担っているので、結果的にこの流れはボケで終わっています。ボケは文脈を乖乱し、ツッコミがその乖乱をもとの文脈と折り合いをつけさせることで、全体の文脈が維持される、というのがボケとツッコミの関係性ですが、ボケで終わるというのはその乖乱が放置されるということであり、読み手の放置でもあります。このある意味での不親切さが、読み手には新鮮に映るのではないでしょうか。
そういえば、ツッコミは日本独特のものという話ですが、海外のギャグはボケのみで成り立っているということでしょうか。それとも日本の「ボケとツッコミ」の中のボケとはまた別のボケになるのでしょうか。子供の頃に見ていた『アルフ』と『フルハウス』くらいしか海外のコメディには親しみがないので、そこらへんを掘り下げるには知識が足りませんが、興味のあるところです。


とまあ、『苺ましまろ』のシュールさ、一般のギャグとは趣の違ったところについて思いついたことをつらつらと書いてみました。


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