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漫画の話です。

「NIGHTMARE MAKER」から考える、あいまいな記憶と現実の私の話

天才高校生・内田は、好きな子の夢を見るため、そして好きな子にいい夢を見せるため、望み通りの夢が見られる機械の発明に勤しんでいた。しかし、他のことについての夢ならいいのだが、どう改良を加えても、淫夢だけは途中で悪夢に変わってしまう。自分一人のデータだけでは限界があると考えた内田は、友人や保健の先生にも機械を貸して、データをフィードバックさせようとしたのだが、内田とは違い自分の思うがままの夢を見られた彼らは、次第に夢と現の境界が曖昧になっていく……

NIGHTMARE MAKER 1 (ヤングチャンピオン烈コミックス)

NIGHTMARE MAKER 1 (ヤングチャンピオン烈コミックス)

ということで、ヤングチャンピオン烈で連載中、Cuvie先生の『NIGHTMARE MAKER』です。今日はこの作品を読んでつらつら考えた、夢と記憶と認識について書こうと思います。
成人指定の作品ではないのですが、性交シーンは当たり前のように出てきますので、読んだり買ったりする時は注意してください。当記事では引用画像の掲載や強く性的な表現はしないつもりですが、一応隠しておきます。
この作品は、主人公・内田が作った夢見マシーンで見られる夢があまりにも生々しく、自らの抑圧していた願望に沿ってしまうため、夢と現実の区別がつかなくなってきたり、非倫理的な欲望の歯止めが利かなくなってしまう、という状況が生まれています。押さえ込んでいた欲望に気づいてしまったキャラクターたちが見せる性交中の表情は蕩けるようにエロいのですがそれはそれとして、こんなの所詮漫画だろう、お話の世界だろうと、私には笑えないのです。
しっかりしていると自分では思っていても、人間の記憶というのはひどく曖昧なもの。現在は過ぎ去った瞬間に過去になり、過去は最早記憶の中にしか存在しません。自分が今この瞬間に、作られた過去の記憶を持たされたうえで存在し始めた、という妄想は、原理的に完全な否定が出来ません。過去が記憶という情報でしかない以上、いくら自分の記憶を遡っても、過去の写真や知り合いに証拠を求めても、「そういうのも含めた捏造記憶だから」というメタ的な反論に言葉を返せないからです。なもので、そんなことを疑うとどうしようもないから、人間はそこらへんに蓋をしておいて日々を暮らしているのですが、それを疑わざるを得ない状況になってしまったらどうか。
夢の役割は色々言われていますし、まだわからないことが圧倒的ですが、どうやら夢の中で見ている情景、会う人、使っている物などは、何かしらの形で必ず一度は自分で目にしているものだとか。それは意識的に見たものでなく、視界の端に入ったもの程度でも夢に登場しうるそうですから、人間は自分で考えている以上に色々な情報を外界から知覚していて、その上で意識に上らせる情報の取捨選択を行っているようです。今まで得ていた情報を再構成して作られた夢という一つの世界。過去の情報で作られているという点で、それは現実に体験したことに基づく記憶と大差ないわけです。ならば、どうして過去の記憶、自分が実際に体験したと思っていることが、様々な情報から再構成された夢ではないと言い切れるのでしょう。「胡蝶の夢」という言葉があるように、夢と現実が曖昧になる恐怖は、古来から人間の心に潜んでいます。
内田の友人・隆也は、仲のいい女友達であった香奈に告白するも、もう彼氏がいるとふられ、落ち込んでいたところで内田から機械を借りました。そこで隆也が見た夢は、香奈が本当は自分のことが好きで、セックスまでするというもの。あまりにも自分の願望どおりに進んだ夢は、彼が現実から目を背けるには十分すぎるほどに生々しく、機械を使って憑かれたように夢に耽る彼の認識の中では、次第に夢が現実へと侵食するようになってきます。彼が香奈とセックスをしているのは夢の中でしかないのに、そんなことは知らない現実世界の本人に憚ることなく大声でそれを喋り、彼女にひっぱたかれるもなぜ怒られたのかすぐにはわからず、内田に忠告されてようやくあれは夢の話だったのだと思い出します。

お前のせいだ内田っ! あんまり生々しい夢だから現実とごっちゃになんだよっ!!
……………もういい…
今度こそリアルはもうゴメンだ!! 俺は夢の世界に生きるっ!!
(1巻p90)

人の行動規範は記憶の中に蓄積されています。出かけるときは鍵を閉めるのも、赤信号では立ち止まるのも、友人にあったら挨拶をするのも、そうした方がいいと(意識しないものであれ)知り、積み重ねた記憶のためです。どんなに自分が好きな子でも、そういう関係でなければ性的な話は控えた方がいい、というのも知ることで得た記憶の中の規範です。けれど、あまりにも生々しい夢がその記憶を塗り替えてしまったら。
保健の先生である茅野は、機械を借りて見た夢の中で、生徒に輪姦されひどく喜んでいて、それを見て初めて自分の中の願望に気づきました。強烈な生々しさを持つ夢に溺れた彼女は、場所を弁えずみだらな行為に耽るようになり、ついには現実の世界で生徒を誘惑し、青姦や複数プレイをするようになったのです。
いかなる願望でもそれを持つことは自由です。ですが、実行してはいけない願望は存在します。いわゆる「公共の福祉」に反するようなものですね。自分の願望は公共の福祉に反するものだからと無意識が蓋をして目を背けていたのに、夢の中で明確な形をとって意識に上ってしまった。自分が気づいてしまった。そして、生々しい夢があまりにも素晴らしいものだった。してはいけないことだから興奮するというのは人類普遍と言ってもいいようなものですが、禁断の果実の味を知ってしまった彼女は、現実でもそれをかじらずに入られなかったのです。


実際人の記憶なんて、全然信用ならないものです。ある出来事に対する印象が変わるのはもちろんの事、その場に誰がいたかとか何があったとか、そんなものまで時が経てば変わってしまいます。自分の記憶なのになぜか視界の中に自分がいる、第三者的に自分を見ている記憶がある人だってたくさんいるでしょう。人間は見たこと聞いたことをそっくりそのまま憶えておけるほど器用ではありません。思い出しやすくするために、あるいは自分の認識に協和的関係になるよう、自分でも知らない内に記憶をよく言えば編集、悪く言えば改竄しているのです。
それどころか、やっていないことさえやったように思ってしまうのが、情報でしかない記憶の怖さです。以前、私の友人Mが、サークルのOB総会に参加した時に現役の女の子に色目を使いまくっていたと、後日、別の場所で10人以上の人間からからかい半分のバッシングを浴びたそうです。酒を飲んではいたものの記憶はしっかりしていたと言うMは、そんなことはしていないと強固に否定したのですが、その場にいた人間全員が「いや、おまえはたしかにやっていた。スケベな目をしていた。○○ちゃんにねっとりとした視線を向けていたではないか」と声をそろえて主張したために、ついには自分でも「もしかしたら自分ではやっていないと思っているだけで、本当はやっていたのかもしれない」と思いなおすようになってしまいました。ですが、さらに後日、その場にいた後輩数名が、「あの時みんなが言って人って、Mさんのことじゃないですよね。別の人でしたよ。Mさんは、そんな風じゃなかったです。だって、○○ちゃんはMさんからずっと離れたテーブルでしたし」と意見を翻したのです。後輩ら曰く、「あの時は皆がMさんをいじる空気だったから、言うに言えなかった」と。
友人Mは言いました。「冤罪が生まれる理由がわかった」と。自分がいくらやっていないと言っても、他の人間が口をそろえてやったと主張すれば、自分の記憶なんて簡単に覆ります。自分は憶えていないだけで、やっていたのかもしれない。だって、こんなに多くの人間が堂々と主張するのだから。自分一人の記憶より、10人以上の記憶の方がよっぽど正しいのではないか。そう思ってしまうのです。
「それでも僕はやってない」と言うのは簡単ですが、周りが一斉に責め立てる中で言い続けるのはめちゃくちゃ難しいことなのです。
また、このエピソードで怖いのは、じゃあ後日意見を翻した後輩以外のバッシングした人間たちは、その時何を見ていたのか、ということです。OB総会にいなかった私は伝聞で状況を想像するしかないのですが、Mが後輩に色目を使った/使っていないという、完全に矛盾する状況がそこにはあります。Mと数名の後輩の意見を信用すれば、他の人間が何を見たのかという事ですし、他の人間の意見を信用すれば、Mと後輩たちは何を記憶していたのでしょう。友人として私はMの意見を信用する立場ですが、彼と後輩の意見が正しければ、他の人間は存在していないものを見たと言っているわけです。彼らが嘘をついているのか、それとも勘違いしたことを信じ込んでいるのかわかりませんが、彼らの記憶の中には後輩に色目を使うMが存在しているのです。
Mがバッシングを浴びた場では彼らこそがマジョリティでしたが、これで場が変わって、Mと意見を同じくする人間が圧倒的マジョリティである場で、「Mはそんなことしてねえよ。おまえら適当なこと言って人を侮辱するなよ」と詰め寄られれば、あっさり意見を翻すことが容易に想像できます。他人のゴシップなんて自分と仲間内で面白がるために知りたがるものですから、そのゴシップが面白味を生まないのであれば、簡単に放棄するでしょう。ゴシップで記憶を自ら捏造する羽目に陥ったMにしてみれば、果てしなく過大な迷惑ですが。
大勢でMに言い立てた彼らにしてみても、全員が全員ともありもしないものを見たとは考えづらいです。誰か一人が思い違いをして、それと似たようなものを見た気のする人間が追従して、何も見てないけど流れに乗った方が面白いと思った人間が尻馬に乗って、結果M以外の全員が、ありもしないものを見たと大合唱するのです。明確にそれはデマだとわかっていても、本当は違うと知っていた後輩でさえ空気のせいで言うに言えなかったのですから、具体的な情報を持たない人間ならば、見たと大声で断じる者がいれば、何も見てなくてもそういうことがあったのだと勝手に思ってしまうのです。想像ですが、何も見ていないのに見たと言っている(OB総会で見間違いをしたのではなく、その場の空気に乗った)人間達の頭の中には、Mが現役の女の子に色目を使っている姿が生まれてしまっているのではないでしょうか。見ていないものを見たと思い始め、その発言に沿わせるように記憶を捏造していく。彼らが特別だというわけではなく、人間はそのくらいのこと、平気の平左でやってしまうと思います。


そしてこれは、記憶などという過去のことではなく、自分が意識を持っている現在進行中の時でさえ起こり得ます。

心理学の実験にこんなのがある。
10人のテスト集団のうち、一人を除いてあらかじめ打ち合わせをしておく。赤いカードを見てもX氏を除く9人は一致して「ピンク」と答える。青いカードを見せられても団結して「グリーン」と答える。つまり、ことごとくX氏とは異なる答えを言うように仕組むのだ。最初は自分の認識に自信を持っていたX氏も、やがて不安になる。そして、ついには、自分の対象認識能力に不安を感じ始め、他の人々がなんと答えるかについて顔色をうかがうようになる。時には9人に迎合して、心にもない答えを口走ることさえあり得るのだ。
(不思議現象の正体を見破る/安斎育郎/KAWADE夢新書 p52)

自分が今まさに認識しているものさえ信じられなくなる。「この赤は本当に『赤』なのか、自分が見ている『赤』は他の人が見ている『赤』と同じものなのか」のようなクオリアの問題にも見られるように、感覚は根本的に主観的なもので、自分にとっての正解と世間の正解が同一だという確証はないのです。
自分の主観的な記憶・認識よりも、多数の客観的にそれを信用するようになるというのは、人間が社会的動物であるがゆえなのかもしれませんが、記憶や認識なんて、これだけ当てにならないものです。全然、確たるものではありません。


伊集院光氏の深夜ラジオ「深夜の馬鹿力」内の一コーナーに「空脳(そらのう)」というものがあります。ある言葉がまったく別の変な言葉に聞こえる「空耳」があるように、うっかりした脳が生み出した変な感覚や記憶を書いて送ってもらうというコーナーなのですが、2011/5/16の番組で、聞いてて頭がじんじんする投稿がありました。いくらか要約して書きます。
投稿者Aが、幼稚園生の頃の友人Bがスーファミを買ったというので、どんなソフトで遊べるのだろうと喜び勇んでBの家まで行きました。するとBは「画面いっぱいに映った白黒の渦をひたすら回す」という謎のゲームを、自分に背を向けて一心不乱にやっていて、こちらに一言も口を利かず何時間もゲームをプレイしているBを見ていたら、Aは気分が悪くなってしまいました。以来、そのゲームが何なのか不思議に思っていたAですが、高校生になってBに再会したので、あの時やってたゲームは何だったのかと聞くと、「そんなゲームは知らない。そもそも自分はスーファミを持っていない」と言ったのです。Aは首を捻りましたが、自分の夢か記憶違いかと一旦そのことは納得しました。ですがさらに数年後、幼稚園の時の別の友人Cに再会し、話をしているとCが「そういえばおまえ、幼稚園の頃、変なスーファミのゲームをやってたよな」と言ってきました。当時スーファミを持っていなかったAは否定しましたが、ふとBの例のゲームのことが頭を過ぎり、「でも、そのゲームって、画面いっぱいの白黒の渦を回すみたいなやつ?」と聞くと、「そうだよ、それそれ。やっぱり持ってるじゃん。俺が遊びに行ったのにおまえが何も言わずにずっとやってるから、気持ち悪くなっちゃったよ」と言うのです。Bがやっていた謎のゲームをAが見ていたという記憶がBにはなく、Aがやっていた謎のゲームをCが見ていたという記憶がAにはない。
電気を消した暗闇の中でうつらうつら聞いていたその話は、もう脳味噌にじんじんきました。自分の思い違い、変な記憶だというだけならまだしも、登場人物の構造が変わっただけで同じ記憶を別の人間が持っているというのが、もうぞくぞく。なんでこんなことが起こるのか、想像するだけで震えがきます。


人の意識なんてこれだけ簡単に境界が揺れます。実際私も、今頭を過ぎったこの記憶は、実際に過去にあったことだったか、それとも夢で見たものだったかと混乱することが、今まで何度かありました。それで大事になったことはないと信じているのですが、実際はどうかわかりませんし、もしかしたらある記憶も問題が表面化してはいないだけで、実は夢でしかなかった、ということも否定できません。
『NIGHTMARE MAKER』の主人公・内田は言います。

そもそも人の記憶なんて曖昧なものなんだ
時に自分の着いた嘘までも 事実と錯誤してしまうほどに
それが自分に好都合なことなら なおさら現実と思い込む
(2巻 p82,83)

内田の機械を勝手に模倣して拡散させた女子・渡会は言います。

夢は記憶に影響する…
経験が人を変えるならば 架空の記憶もまた人を変えていく
(2巻 p180,181)

夢や記憶のぞっとするような話を見聞きした自分としては、彼らのこの言葉をお話の世界のものだと笑い飛ばすことは出来ません。夢で記憶が改竄され、現実の認識が塗りつぶされていく登場人物たちのゆるやかな破滅は、ひたひたとこちらの心に忍び込んでくるのです。
エロエロしい漫画としてももちろんいいですが、この『NAIGHTMARE MAKER』、自分の現実をゆわんゆわんさせる危険な魅力も持っているのですよ。


余談ながら、私は茅野先生のエロさに別の意味でくらくらしています。




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