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「へうげもの」に見る「箔」と「愛」の話 後編

前編はこちら 「へうげもの」に見る「箔」と「愛」の話 前編
さて、後編では改めて秀吉にスポットを当てていきます。
秀吉の立身出世を振り返れば、「百姓から渡りのもの」、「足軽から大名」「天下人」と、身分のピラミッドのほぼ最下層から頂まで一代で駆け上った希有な男。そんな人間は秀吉の他に「古今東西誰一人として」いない、と織部に言わしめています。
このように、「武」の面で見れば比類なき能力を持った秀吉ですが、数寄の面では目覚しいものはなく、むしろその目利きの無さを幾度となく他の数寄者に落胆されています。

…… むさい…… なんともモリッと冴えない茶碗だぞこりゃあ……
ザリッとした無釉の骨気が魅力の備前焼なのだがな…… 目かけてくれた羽柴さまには悪いが…… これは俺の蒐物集には加えられんの……
(第十八席)

「どうです 良くないでしょう……」
「や…… これはひどい……」
「かような器は黄金の茶室と渾然となって活きるもの……」
「恥を知らぬこの輝きがわび心を萎えさせますな……」
(第五十一席)

「この出で立ちを評してみよ 宗二 余がお気に入りの出で立ちを評してみよ」
「当世にはふさわしうないお召し物にて」
(第六十六席)

特にわび数寄に関しては、その師である利休の思惑とはまるで違う方向へ走ります。

空前絶後の大茶会を開くのだ!! 東西南北あらゆる階層のわび数寄者を京へ集め 南蛮趣味に現をぬかす者どもに真の美を見せつけてやろうぞ!!
支度を頼むぞ 利休!! 派手にな!! ドーンと派手に狼煙を上げよ!!
(第五十一席)

という秀吉に対し

詰まるところ 茶の湯には台子も何もないのです 全て各人それぞれの作法 趣向でもてなせば良いのです 決まり事などないというのが極意にございます
関白様はその本質がわからぬゆえ 台子点前を許可制になさり…… 茶の湯に格を付けておられる……
此度の大茶湯も感心いたしませぬ……
本質のない形だけの「わび」の美が流布するのは…… 何も広まらぬより質が悪うございます
(第五十三席)

と利休は眉を顰めるのです。
秀吉の半生において彼の数寄は、信長のように華を求めながらもそのセンスは壊滅的で、わびに傾こうともそこに本来不要のはずの「箔」=格を求めてしまう。
数寄に限った話ではないのですが、秀吉が「箔」を信長とは違う形で強く求めているというのは、作中で何度となく描かれています。信長にとっての「箔」は、前編でも書いたように

世を治むるには「武」のみならず「箔」がいる
織田にとって「箔」とは朝廷であり名物群よ 時には朝廷をも圧倒する「箔」が必要になる 今こそあらゆる力を織田に結集し全国を束ねねばならん
(第十九席)

というもので、いわば統治のための手段としてのものでした。
ですが秀吉にとっての「箔」はそうではなく、秀吉自身を飾り立てるための、まさに箔本来の役割としての「箔」であったと推測できます。
南蛮人が持ってきたレモンの味に度肝を抜かれながらも強がってみたり、「微小なる身より天下を獲った」者として自身と源頼朝とを引き比べた上で、自分のほうが上だと言ってみたり、天皇の後ろ盾を欲し、最高位の血統としての天皇を手にかけることができなかったりと、自分が生来「箔」を備えていない後ろめたさと、それを持っているものに対する劣等感が随所に見られるのですが、それはやはり、「百姓」「渡りのもの」「足軽」と非武家の存在から立身出世を為してきた立場ゆえでしょう。

武人が…… 生まれの良い者が茶道筆頭では……
俺を蔑むは目に見えておる……
(第五十七席)

戦国の世が如何に能力主義であろうと、それとは別に、厳として血筋、生まれの良さというものが観念されており、それは階層の上方へ行けば行くほど実感するものとなります。下克上の世は、誰にでも出世の道があるのかもしれませんが、それはあるというだけで、生まれの良い人間にはずっと楽な道があるのです。能力が同じなら、道が楽な方が出世できるのは道理。秀吉や利休のように「裸一貫から伸し上がって」その道のトップまで躍り出られる者は、一握りもいないのです。
秀吉は、立身出世を求めて武の世界に足を踏み入れてからずっと、己の「箔」のなさについて悩み続けていたでしょう。他人を見返す、そして他人に見返されることがないようにするという、ある種受動的ともいえる感情こそが彼の原動力、すなわち業だったと言えます。
しかし、それと同時に彼の胸にあったのは、自分を取り立ててくれた信長への敬愛です。天下人という「箔」欲しさに信長を殺すも葛藤は止むことなく、次第に彼の目指すものはただの天下人から、信長の後継としての天下人へと変わっていました。

真似で結構…… サル真似で結構よ……
俺は信長様をなぞりきる はるか天竺までも華で埋め尽くしてくれるわ
(第四十二席)

かの信長公の跡を継ぎしもののが…… 複数の国々を束ねる皇帝ではなく……
日本国王で十分と申すか……!?
(第百十七席)

このとき秀吉の欲す「箔」、己を飾る「箔」は、「天下人」と同時に、「敬愛する信長の後継」でもあったのです。
死の間際、秀吉が悔恨と共に吐露した言葉

左様な居心地の良い間柄であったものを…… 俺は……
俺は「箔」欲しさに野心を先じてしもうたのだ…… 「箔」がために最高の理解者をこの手に……
(中略)
俺の業は未だ「箔」を求めておる…………
朝鮮を…… 皇帝の座を……
(第百二十七席)

の中で、虚飾と敬愛が鬩ぎ合っているのがはっきりとわかるのです。
しかし、そんな秀吉が気づいたこと。それは

生涯を賭して求めた「箔」の最たるものとは…… 
愛すべき友だと
(第百二十七席)

でした。
「愛すべき友」という情緒的な言葉は、虚栄色の強い「箔」とは縁遠いような言葉に思えますが、その真意を解きほぐしてみましょう。
ここで秀吉の言う「愛」とは、敬愛する信長が彼と自身の関係を指していった言葉でした。

これまで数多の人間と関わってきたわ…… その都度一方的に奪い取り…… 惜しみなく与えてきた……
だがハゲ…… おまえとは「ダール・イ・レゼベール」だった
俺はあらゆる人間と その関係を築きたかったのだがな……
……意味を知っておるか?
「愛」よ
(第二十一席)

ここで信長は「愛」を否定の形で表現しており、すなわち「一方的に奪い取り」「惜しみなく与え」る関係は「愛」ではなく、唯一秀吉と結ぶことの出来た「ダール・イ・レゼベール(=ギブ・アンド・テイク)」の関係こそが「愛」なのだと言っています。
この「ダール・イ・レゼベール」を、その相手方だった秀吉はこう解釈しています。

本能寺にて手をかけし時…… 上様がこの俺に放った言葉よ……
俺と上様は互いに利を受け 与える遠慮なき間柄であったと…… それをダール・イ・レゼベール…… 「愛」と仰せになったのだ……
(第百二十七席)

「互いに利を受け 与える遠慮なき間柄」、それが「愛」。
信長と秀吉、二人の言葉を引き合わせれば、「ダール・イ・レゼベール」の核が見えてきます。
信長が秀吉以外と築いてきた関係は、信長が主体であり、能動的な存在です。自分にも他者にも利益は生まれますが、自分の利益は相手から奪ったものであり、相手の利益は自分から与えられたものとなる。この関係は、常に信長が主体となる一方的、非対称的なものです。信長は相手を常に見下し、相手は常に信長を仰ぎ見る。これが覆ることがありません。
ですが、信長と秀吉が築いた関係は、互いが利を受け、互いが与える双方向的なもの、対称的なものです。そして、お互いその双方向性に遠慮がない。信長は主君で秀吉が家臣であるにも関わらず、そう言っているのです。
この「遠慮のなさ」と「ダール・イ・レゼベール=ギブ・アンド・テイク」が結びつき、「愛」の肝になっていると言えるでしょう。ただ「愛」というだけではいかにも甘くなってしまいますが、能力主義的な「ギブ・アンド・テイク」というワーディングを用いることでクールさを醸し、「遠慮のなさ」でお互いがその関係性に納得している了解をがとれます。「ギブ・アンド・テイク」の関係性に納得しているがゆえに、社会的立場の差を越えて、精神的な平等性が生まれてくるのです。
さて、ではなぜこの「愛」の関係が、あれだけ肩書きを求めた秀吉の「箔」となりうるのでしょう。
そもそも秀吉が「箔」を求めたのは、自分の生まれに自信がなく、武家社会を上昇するにつれそれを強く実感するようになったことが大きい、と上で書きました。そして、最下層から最上層まで一代で出世の階段を上り詰め、またもともとの信長が如き華好みに加え、死が間近まで迫ったことで利休のわびも好むようになった秀吉。その立場の複雑さに、織部も「殿下ほど解し難き御方もございませぬ」と言っています。秀吉は、その人生が進むにつれ、三成のように心酔するものは出ようとも、己の理解者は減らざるを得なかったのです。
理解者が減るとなると、それでも理解してくれる人を増やすために、自分を知っている人間をもっと増やさなければならない。秀吉の欲しがった「皇帝の座」という「箔」は、非常にわかりやすく立派なものです。その座を手にすれば、秀吉を見たこともないものでも、「ああ、あの皇帝の」と思いつくでしょう。ですが、そのような安易なまでの明白さは、わかりやすくなればなるほど、当人についての理解を邪魔します。ぴかぴか輝く「皇帝」という「箔」は、その下にあるはずの個人を見えなくしてしまいます。誰にも自分の存在を知られる代わりに、誰にも自分の肚の底を理解されなくなる。秀吉が求め続けていた「箔」の行き着く先は、それなのです。
生まれの良いものは、自らの生まれの良さに疑問を持ちません。生まれの良さを当然のものとして享受し、気にかけず振る舞い、その衒いの無さゆえに「生まれの良いものらしい」振舞いがブーストされます。それは社会学者であるブルデュー言うところの社会資本なのですが、この社会資本は個人が自我を持つ前にアプリオリに決定されていて、社会資本をもたざる者が、自分がそれを持っていないことに気づいても、どうしようもないものなのです。ですから、生まれの良くない秀吉が、良い者との差に気づきそれに追いつこうとしても、本質的なところで差が埋まることはありません。差を埋めようとあらゆる努力をなし、「箔」をつけるだけつけても、飾れたのは外側だけで、本当に求めたい中身には届きません。
何度も書いているように、秀吉と信長の関係は「ダール・イ・レゼベール」でした。その関係は「遠慮な」く、「居心地の良い」ものだったと言っています。秀吉にはおねという正妻がいますし、彼女のことももちろん愛していますが、「ダール・イ・レゼベール」はそれとはまた別次元の関係でした。最期の最期にその関係性こそが「生涯を賭して求めた「箔」の最たるもの」と口にしたのは、「ダール・イ・レゼベール」の間柄に、自分の生まれを考えずに済む、能力主義的・実務的・実際的なものを見出したからではないでしょうか。「ダール・イ・レゼベール」ならば、どんなに生まれが良かろうとも能力がなければそれっきりだし、逆に、いかに生まれが卑しかろうとも能力さえあるなら(少なくとも精神的には)対等に接することが出来る。生まれの悪さを自覚するものがいくら「箔」をかき集めても築くことの出来ない関係が、そこにはあるのです。
また、秀吉は次第に信長の後継としての天下人という「箔」を求めた、と既に書きました。信長の後継。信長をなぞること。秀吉との末期の茶席で信長は言いました。
「おまえとは「ダール・イ・レゼベール」だった…… 俺はあらゆる人間とその関係を築きたかったのだがな……」
遺言にも等しいこの言葉は、信長をなぞろうとした秀吉の心に強く染み入っているはずです。誰かと(それもできるだけ多くの人と)「ダール・イ・レゼベール」の関係を築くことは、秀吉にとって信長の後継になることと同義なのです。
信長の跡を継ごうとしながら、晩年になって権勢と同時に孤独をもいや増していた秀吉。その彼が「ダール・イ・レゼベール」である愛すべき友に「「箔」の最たるもの」を見出したのは、必然の帰結なのかもしれません。


ということで、死期迫った秀吉の言葉、「生涯を賭して求めた「箔」の最たるものとは 愛すべき友」を私なりに解きほぐしてみた話でした。自分なりにちゃんと話が落着したことに、大きく安堵しています。
へうげもの」の中で、男女間での「愛」が主題的に描かれたことはほとんどなく、むしろそれがまるで描かれない茶々にスポットライトが当たることが多いのですが、おねやおせんなど、良妻賢母の鑑のようなキャラクターの描写がもっとあれば、この「愛」論もまた違った角度から考えられたかもしれません。まあ、そしたらあんまり「へうげもの」っぽくはならないかもだけど。




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