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後天的才能は「贈り物」なのかという話

昨年末に内田樹先生のブログで書かれていた記事、「才能の枯渇について」で、昨日twitter上で呟いたことを改めてまとめてみたいと思います。
リンク先の記事で主に触れられている天賦の才能のことを、内田先生は「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」と表現しています。それは「外部からの贈り物」であると。でも、この記事の中ではそうではない才能、すなわち、元々上手くできなかったものが、何らかの過程を経てできるようになったもの」については特に触れていません。今、そのような才能のことを便宜的に後天的才能と表現しますが、果たしてこの後天的才能は、「外部からの贈り物」なのでしょうか。それとも自助努力の末に獲得した「自分の中にあるもの」なのでしょうか。そこらへんの話を考えてみましょう。
まずは、天賦の才能について私なりにまとめてみます。
天賦の才は「たまたま」自分の懐に転がり込んできたものであって、自分に存している確たる理由などなく、その利は「たまたま」得られているに過ぎない。その意味の不明瞭さゆえに、人は自分の才能はどのようなものであるか自分で考えなければならない。
「たまたま」転がり込んできている才能に対して、居心地の悪いもの=自分がこれをこのまま所持していていいのかという不安感=「反対給付義務」を覚え、「返礼」することで気分をとりあえず片付ける。しかし、その「返礼」は直接贈与者には向かない。向かえないのだ。なぜか。それは、才能を与えたものは「天」であり、自己とは直接関係し得ないものだからだ。
才能を天から賦与されたものは、その時点で「与えられたもの」という絶対的なビハインドを負っている。「与えられたもの」は、「最初に与えたもの」というアドバンテージをその与えた当人から取り返すことは出来ない。その両者の関係性は「原初の一撃」で既に決してしまっているからだ。
ではどうするのか。どのようにして、居心地の悪さを片付けるのか。
別の誰かに対して自分が「原初の一撃」を与える立場となる。そうすることで、暫定的にではあるが、「与えられたもの」でしかなかった自分の立場に別の形で報いることが出来る。ただし、別の形はあくまで別の形であって、そのものではない。自分に与えたものに対しての負債が返せたわけではなく、別の債権で負債を相殺しようとしたに過ぎないのだ。そして、現実の民法の関係とは違い、固有性のある人間間では、他者の債権同士を完全な形で相殺することは出来ない。それゆえ、人は反対給付義務から完全にのがれることは不可能なのだ。
ということで、才能=「贈与はドミノ倒しのように、最初に一人が始めると、あとは無限に連鎖してゆくプロセス」と言えるのだという。
さあ、ちょっと長くなりましたが、これが天賦の才能が「贈り物」であり、その保持者は他者に対して反対給付義務を負ってしまう、という話です。
では、後天的才能についてはどうでしょう。
たとえば音楽。音楽について、私に天賦の才はありませんでした。高校から吹奏楽でサックスを始めましたが、めきめきとした上達を見せるわけではなく、まあせいぜい人並み程度。それでも、大学でジャズに転向し、二年次から所属したサークルで必死こいて練習したおかげで、アマチュアとしてはそれなりの腕にはなれたと思います。まあそれなりですが。
さて、そこに到るまでは当然私自身の練習にかけた労力があり、時間があり、金銭があり、道具があります。それらをひねり出したのも他ならぬ私自身ですから、獲得した後天的才能は全て私自身のもの、私自身に内在しているものと言ってしまっていいのでしょうか。
答えは否です。私は私の後天的才能を、全て自分の力だけで得られたわけではないからです。
もちろん練習にかけた時間は私のものですが、その練習の中で使ったメソッド、つまりロングトーンのやり方やスケールのバリエーション、2・4の拍のとり方、フレーズのアーティキュレーションのつけ方などは、ほぼ全てが私より先に存在した誰かが生み出したもので、私はそれを参考に練習していたのです。いわば、先人が作ってくれた道を辿ったようなもの。また、実際に誰かから直接教わったこともありますから、それなどは先達に手を引いてもらったのとなんら変わりはありません。
後天的才能を開花させるには、必ずそこには先人の道があります。まったきオリジナル、100%自分のものであるものなど、存在しないと言い切ってしまっていいでしょう。
たとえば、産業革命の端緒として名高いワットの蒸気機関ですが、ワットは蒸気機関を発明したわけではありません。彼がしたのは蒸気機関の改良であり、蒸気機関そのものはそれ以前からあったのです。ワットの前にはニューコメンの蒸気機関が、その前にはセイヴァリの熱機関が、その前にはパパンの真空エンジンが。さらに歴史を紐解けば、1世紀の工学者・ヘロンによる蒸気機関があります。それとて、彼独自のものとは言い切れません。それを開発するためには力を円運動に変換する概念が必要であり、その考案者の名前など残ってはいません。名もなき時代からなんとなく使われていたものが、次第次第に改良されていって、ある時期のものが「たまたま」エポックメイキングなものとして名を残す。
この意味で、オリジナルなものなど存在しないと言えるのです。というような私の話も、「銃・病原菌・鉄」からの受け売りですので。


人は、生まれながらにしてなんらかの秀でた能力を持っていることもありますし、後天的な努力によって能力を獲得することも可能です。ですが、どちらであれ、その能力は「たまたま」自分に属すことになったもので、全て自分だけのものであると考えるのはお門違いなのです。
内田先生の言う、能力に対する返礼義務を怠ることで「人間的に悪いことが起こり、人間的に死ぬ」、という状態が起こると私には断言することが出来ませんが、それでも自らに属する能力に対して謙虚でありたいとは思います。
先天的才能であれ、後天的才能であれ、その能力は他人に対する「贈与」という形をとることで初めて、その才能が当人の中で血肉化し、社会をと繋がるサイクルになるのだと言う話でした。




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