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鬼頭莫宏の描く「子ども」と「力」と「理念=倫理=正義」の話 後編

さて、後編です。前編はこちら。
鬼頭莫宏の描く「子ども」と「力」と「理念=倫理=正義」の話 前編
前編では『なるたる』について見ましたが、後編ではまずは『ぼくらの』から考えてみましょう。

ぼくらの 1 (IKKI COMIX)

ぼくらの 1 (IKKI COMIX)

『ぼくらの』の主人公である子どもたちは、当初はただの「子ども」でした。

中学生になった時、
ぼくらはもう一人前で自分でなんでもできると思った。
ぼくらは泣いたり笑ったり怒ったり もう、この世の中のことはほとんど知った気になっていた。
でも本当は父や母や社会に守られているただの子供だった。
本当の悲しみや喜びや怒りはそんな日常の中にはなかった。
(ぼくらの 1巻 p8)

自分がまだ「子ども」でしかないことを知らない子ども。己の不自由さを知らない「子ども」。そんな彼/彼女らには、もちろん悩みや願いはあったのですが、それは極めて個人的なもの。社会の変革を伴うような大きなものではありませんでした。
そんな彼らの元に「力」が転がり込んできました。ジアースという名の巨大ロボット。敵ロボットと戦うための、現代の地球のテクノロジーでは何一つ太刀打ちできないような、強大にして凶悪な「力」。それが、ただの「子ども」の手に入ってしまったのです。
彼らは契約によりジアースのパイロットとなり、初めはその「力」に酔いしれました。ジアースを駆って敵ロボットを倒す。実際に敵と相対してもそこに現実感がなく、まるでゲームのようでした。

親父がどうしてサッカーをやめたのかわからない。
ザセツしたのかあきたのか。
オレにもそれがやってくるのかもしれない。
でもそんなの今考えても仕方がない。
その時にそれを楽しめばいいじゃねーか。
今はただ、
気持ちがいい。
(1巻 p160,191)

最初にジアースのパイロットとなったワクが、戦闘後に皆でジアースに登った時にした独白です。ジアースによる戦闘は、彼の抱えていた悩みに対して風穴を開けてくれました。ジアースの「力」でなにをどうするという考えもなく、ただ、戦闘の勝利で生まれた爽快感を堪能しました。
ですが、ジアースの「力」は無制限に使えるわけではなく、行使できるタイミングは限られており、また行使に非常に大きな代償を必要とします。それを操縦する人間の生命です。ワクは、上で引用した独白の直後に生命活動を停止し、たまたまそのタイミングでウシロが彼を小突いたために、そのままジアースから落下しました。非常に衝撃的なシーンです。
「子ども」たちがこの代償を知ったのは、二戦目であるコダマ戦に勝利した直後、彼が操縦席内部で絶命した時です。既にしてしまった契約を取り消すことは出来ず、彼らが選ぶ道は、敵に勝利し地球を救った上で自らの命を落とすか、敵に敗北し地球と共に命を落とすか。どちらにせよ自らの命が助かる道は残っていませんでした。
どう足掻いてもこの運命から逃れられぬと知った彼らは、もちろん取り乱し、自棄になり、絶望に沈んだのですが、六戦目を戦ったモジの態度に心打たれ、彼を規範とすることを決めました。

自暴自棄にならない。
泣いて過ごさない。
人のせいにしない。
もちろん死ぬのはイヤだ。死にたくない。
でも、もうどうにもできないこの状況でどうするのがよいのか、
答えは明白だった。モジ君が規範だ。
だからそれまでは、精一杯生きる。
(5巻 p70,71)

自分は死ぬ。必ず死ぬ。でも、自分たちの頑張り次第では世界は残すことが出来る。それなら、残りの自分の人生と、残せる世界のためにどうするべきか。
「子ども」たちはまず「力」を得、自分らを待っている運命を知り、自分らの得た「力」の意味を知り、初めて「倫理」が構築できたのです。
無論、彼らは彼らだけで「倫理」を作り上げることが出来たわけではありません。「黒の子供会」と国家が接触したように、ジアースのパイロットたちにも途中から国家が介入ました。先にも触れたように、前者は自分たちの「理念」を遂行するため、手段としての能動的な接触でしたが、後者はむしろ「力」を抑制するために受動的に為された介入です。パイロットたちと主に折衝した関海尉と田中空尉は、日本という国家、ひいては地球というマクロな世界、あるいは自分たちの大事な人間というごくミクロな世界のために全精力を傾ける姿を「子ども」たちに示し、また先達としてパイロットらの悩みに接し、「子ども」たちが「倫理」を構築するのに一役買いました。彼らは「子ども」らの先達=メンターになったのです
メンターに要求されることは、「子ども」以上の能力ではなく、「子ども」以上の知識でもなく、「子ども」以上の「理念」でもありません。メンターとは、「自分にもまだわからないことがたくさんある。だから、まだまだ努力しなければいけない」という態度を示すことで、「子ども」の心的情動を駆動させるものなのです。もうちょっと簡単に言えば、「自分はまだ未熟者だ」と表明することで、「子ども」に「あの人が未熟者だというのなら、自分はもっと頑張らなければ」と思わせる人のことです。
それが象徴的なのは、キリエ戦でした。戦闘前夜、自分は戦うことが出来ないかもしれない、と打ち明けるキリエに対し田中は、諭すでもなく、忠告するでもなく、説教するでもなく、自説を展開するだけでした。そして迎えたキリエ戦。彼は戦闘開始直後、ジアースの外部に出て、自らの姿を敵に晒しました。そうするのがいいと、思ったから。
それを見た田中は言います。

しょうがないわね。本当はわかってるのよ。
もし生き残るためにその子供を自ら殺さなくてはいけないような世界は、間違っているって。
その子どもの選択や行動も私達がつくってきたんだものね。
(中略)
結局私達は、なんの役にもたたないわね。
(6巻 p78,79)

自分の無力を自覚する。前編から何度となく触れてきましたが、その態度こそ「子ども」が未だ持たざるものなのです。田中や関は、自らの無力さを「子ども」たちの前で宣言することで、「子ども」たちが「大人」になる標となったのです。
「黒の子供会」の抱いていた「理念」と、パイロットたちの理想と、その正否を論ずる意味はありませんが、同じ「子ども」が得た「力」と「理念=倫理」でも、その成立過程、因果関係において、『なるたる』と『ぼくらの』では違っているし、「子ども」が「大人」になる過程もまた違っているのです。


さあ、では『なにかもちがってますか』はどうでしょう。

なにかもちがってますか(1) (アフタヌーンKC)

なにかもちがってますか(1) (アフタヌーンKC)

詳しいレビューは先日書いたこちらの記事を参照して欲しいのですが、改めて乱暴に書けば、社会に相容れない「正義」を抱いた少年・一社高蔵と、社会に相容れない「力」を持った少年・日比野光が出会った、というものです。物心ついたときから日々に違和感を覚えていたものの、平々凡々と生きてきた日比野ですが、だからこそというべきか、一社の急進的な「正義」に強く抗うことが出来ず、なし崩しのように彼と行動を共にしていくのです。
一社には「正義」しかなく、日比野には「力」しかない。この「正義」と「力」の分離は、『なるたる』と『ぼくらの』には見られないものでした。『なるたる』では「理念」が「力」によって支えられ、『ぼくらの』では得た「力」の意味を知ることで「倫理」を構築しましたが、それらはグループ内で共通したものであっても、一人の人間の中に共存していたのです。『〜もちがってますか』の分離はどのような形をこれから見せるのでしょう。
また、今のところ「正義」だけを持った一社ですが、おそらく彼は、かなり意図的に「子ども」であることを強調して描かれています。「子ども」。すなわち、自分の限界を素直に認められない状態です。

「社会ってのはな 単純化すると 頭脳役と肉体役に分かれる
(中略)
でも バカ不良のようなやつは困る ああいう肉体側のやつは言われたことに逆らうようではダメだ
おまえだって 思ったとおりに手や足が動かなければ困るだろ
(中略)
労働力にしかなりえない人間は どんどん殺していい」
「で……でもさ
頭脳? 脳ミソだって 体があるから生きていられるんだよね」
「例えば の話だよ たとえ話で揚げ足とるなよ」
なにかもちがってますか 1巻 P51〜53)

日比野に揚げ足、というか至極まともな反論をされた一社は、一瞬の恥じらいを見せた後、激昂してごまかします。自分でも気づいていなかった考えの不備を突かれ、それを素直に認めることができず、怒鳴ることでそれ以上の追及を封じたのです。
また、同様に日比野も「子ども」です。意図せずとは言え自分の「力」によって犯したある事態に思い悩む彼は、その事態に心動じず強い言葉を吐く一社によって、ある意味で救われています。一社の言葉は別に優しいものではなく、彼を救うためにかけられたものでもありませんが、それでもその迷いのなさは、苦悩する日比野が目の前の事態から目を背ける助けになりました。自分に向き合いきることなく、また、目を逸らしたことそれ自体から目を逸らし、自分の行動基準を他者に依存する。
そして、二人が「子ども」であることをもっとも端的に表しているのが、1巻裏表紙折り返しの、作者コメントです。

「また、ささやかな世直しごっこを始めたいと思います」

二人がやっていることは世直し「ごっこ」。子どものするごっこ遊びでしかないのです。もちろん、一社も日比野もまだ中学三年になりたてで、「大人」であることが当たり前の年齢では決してありませんが。
「理念=正義」しかないものが「力」を手に入れるというのは、『なるたる』の「黒の子供会」がおそらくそうだったのですが、その獲得段階は作中で描かれることはなく彼らは、「力」を得てその内容を理解した上で、「理念」を持つ者、として登場しました。そこで『〜もちがってますか』の、「正義」しか持たないところへ「力」を持つ者が転がり込んできた一社というキャラクターが、その「正義」を適用しようとする際の現実との摩擦を経て、どのように自らの「正義」を対応させるかが、『なるたる』では描かれなかった面の補完となるかと思われます。また、降って湧いた「力」を日比野が社会に対してどう扱うべきか、自らの「力」を制御する「理念」をどう見出すかが、『ぼくらの』で描かれた「子ども」たちの変奏となるでしょう。「力」の強大さや意味、代償の面などで、『ぼくらの』の子ども達と日比野ではずいぶんと差がありますが、それも含めての変奏曲です。


とまあこんな感じの、鬼頭先生の描く「子ども」と「力」と「理念=倫理=正義」の話でした。同じテーマを別の形で何度も煮詰めるって言うのは、私はとても面白いものだと思うのですよ。
ところで鬼頭先生、『終わりと始まりのマイルス』の2巻発売はいつ頃になりますか?




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