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「鋼の錬金術師」が終わって・裏 「真理」と引き換えにした「それ」はなぜ「正解」だったのかという話

先ごろ最終巻が発売された『鋼の錬金術師』。今まで従兄弟の家で何度か途切れ途切れに読んでいたものを、ふと思い立って今年の九月に既刊を全て揃えたので、ヘビーリーダーとは言いがたい私ですが、骨太な王道少年漫画として出色の出来であるという意見には満腔の意で同意しましょう。
そして、それはそれとして、ちょっと「うーん」と思った箇所もないわけではないわけで。
てなもんで、『ハガレン』の個人的な総括を表面と裏面、二つに分けて書いてみたいと思います。今日は裏面。

鋼の錬金術師 27 (ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師 27 (ガンガンコミックス)

手始めに、『ハガレン』のどこがよかったか、どこに首を捻ったかをざっくり書いておきましょう。前者は、人間というものについて、その不可解で不合理などろどろした精神と、それと並立する地に足のついた地道な生活を描いている点。これについては次回の表面で詳しく書きます。
じゃあどこに首をひねったかと言うと、非人間的な部分。つまりは、「真理」とか「真理の扉」とか「神」とか「魂」とか「ホムンクルス」とか「錬金術」とか、そういう形而上に属するような概念について少々説明が弱く、最終決戦で「神とやら」に同化するホムンクルスフラスコの中の小人ですが、その「神とやら」が一体何なのか、なぜああいう形でなければ同化できないのか、逆にああいう形ならなぜ同化できるのか、そもそもホムンクルス<フラスコの中の小人/rt>とはなんだったのか、なぜあいつは生まれたときから錬金術について熟知していたのか等等、一旦考え出すとうむむと唸らざるを得ないような点が多々あると思うのですな。
で、個人的にその筆頭だったのがタイトルでも触れた、最終決戦の後、エドがアルの身体を練成しようとした「鋼の錬金術師 最後の練成」。錬金術を行い、真理の扉の前に赴いたエドは、アルの身体を練成するための代価を「真理」に問われ、自らの「真理の扉」を差し出すと宣言。

「代価ならここにあるだろ でけぇのがよ」
「真理の扉は全ての人間の内に在る それは全ての人間に錬金術を使う力があるという事だ
…………錬金術の使えないただの人間に成り下がるか?」
「成り下がるも何も 最初っからただの人間だよ 合成獣キメラにされた女の子ひとり助けられない小さな人間だ
真理とかいう物を見ちまってから それに頼って過信して失敗してのくり返し…
……踊らされたよなぁ」
「……もうこれ・・が無くても大丈夫か?」
錬金術が無くてもみんながいるさ」
「正解だ 錬金術
おまえは真理オレに勝った 持って行け 全てを」
(27巻 p127〜129)

なぜこの時「真理」は、エドの言う「みんな」、すなわち「仲間」こそが「正解だ」と言ったのでしょう。それが私にはどうにもひっかかったのですね。「仲間」が「真理」と等しく大事なものであるというのはわかりますが、なぜそれが同次元で等置され、かつ「真理」自身によって「仲間」こそが「正解」であると宣言されるのか。「真理」が述べる言葉としては少々バランスが悪いような、そんな違和感を覚えたのです。ついでに言えば、「世界」をずっと欲していたグリードが真実欲しがっていたものもまた「仲間」であるというのにも。ストーリーの流れの中の描写でそれが浮き上がってくるの自体はまだ納得できるんですが、なぜ「強欲グリード」という存在がそれを欲したのかについては、なんだか合点がいかなっかたのですな。
まあそれでもこの筆頭については、一応頭を捻って自分なりに納得できる論理はでっち上げたので、以下はそれを。
そもそもエドにとって、(ホムンクルスフラスコの中の小人とは違い)「真理」を得ることが最終目標ではありませんでした。彼にとって第一義は、自分と弟の肉体を取り戻すこと。そのための手段として「真理」を得ようとしていたのです。「真理」なるものが存在することを知ったのも、死んだ母親を蘇生させるための錬金術の過程で起きた偶発的なもの。まあエドらが肉体を奪われたのも「真理」に触れたためではあるのですが。
そんなものだから、肉体を取り戻すために彼が「真理」(=錬金術)と交換したのは、当然といえば当然のことではあります。
では、なぜ「真理」自身がそれを「正解」としたのか。
ここで、「真理の扉」に辿り着いたものの前に現れる「真理」について考えてみれば、それは

私はおまえ達が“世界”と呼ぶ存在 あるいは“宇宙” あるいは“神” あるいは“真理” あるいは“全” あるいは“一” そして 私は“おまえ”だ
(27巻 p106)

なのだそうな。ここでの台詞は、ホムンクルスフラスコの中の小人の前に現前した「真理」のものですが、ホムンクルスフラスコの中の小人の一人称は「私」。そして6巻でエドの前に現れた「真理」は、一人称が「オレ」になっています。
さらに、「真理」の形状がエドホムンクルスフラスコの中の小人に酷似していることを考えれば、「真理」は「真理の扉」の前に現れたものを仮象として現前するのでしょう。
「真理」の名乗りを逆から読めば、「私は“おまえ”であり、“一”であり、“全”であり、“真理”であり、“神”あり、“宇宙”であり、“世界”である」ということになります。これを私なりに解釈すれば、「神」なり「真理」なりという全超越的な存在がまずあり、それと出会える「真理の扉」の前に個々人が訪れた時にそれがとる形は、訪れた個々人に応じて変化する。個々人の前に現れた「真理」は確かに全超越的な存在であっても、その存在の意味(価値)は訪れた個々人によって変化する。私が“真理”であり、“真理”が私である。私は私であり、“真理”でもある。“一”の私が“全”の“真理”である。
つまり、エドの前に形を成した「真理」はエドにとっての「真理」であり、それゆえにエドの真の目的が「真理」ではなく「肉体を取り戻すこと」だと理解している。だからこそ、エドが「真理」(錬金術)と引き換えに肉体を取り戻そうとしたことを「正解だ」と評したのだと。
なので、もしグリードが同様に「真理」の前でそれを選んでも「正解」と言ったろうし、逆にホムンクルスフラスコの中の小人が選んだとしたら「正解」ではなかっただろう。「真理」は全超越的な存在でありながら、否、全超越的な存在だからこそ、その意味(価値)は個々人に委ねられるのかもしれない。


ということで、違和感筆頭であったはずの「仲間」が「正解」問題については一応(勝手に)解決したのですが、だからといってこの作品で形而下の概念の説明が十分に足りているとは思えないのですな。グラトニーの擬似「真理の扉」に飲み込まれた時に、本当の「真理の扉」を潜り抜ければ元の世界に戻れる、という理屈も「なんで?」と思わずにはいられませんでしたし。
このような形而上の概念を(広義の)マクガフィン的に扱って、あえて説明をせずにストーリーを進めるというのはありだと思いますが、その概念が余りにも多くなりすぎてしまうと、その概念の扱い方に「なるほど」と頷くよりは「はぁそうですか」とちょっと醒めてしまうことの方が多くなってしまいます。特に私のような理屈バカの場合。そこらへんをもう少し丁寧に描くか、あるいはばっさり減らすかがあれば、理屈バカの私が醒めてしまうことは少なかったろうなあと個人的には思います。


とはいえ、あらゆる作品には好きな点・これはちょっと……な点があるもので、それらをひっくるめて好き嫌いの判断があります。ひっくるめた上で、私は『鋼の錬金術師』が好きです。次回は、ひっくるめた上でにょきりと顔を出す、『鋼の錬金術師』の好きな点の話をしたいと思います。本当に次の記事がそれになるかはわかりませんが、「『鋼の錬金術師』が終わって・表」をよろしければ乞うご期待。




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