ポンコツ山田.com

漫画やアニメ、小説などについて、思ったことを恬淡と。

「3月のライオン」他人と交わりだす零と、他人の理解の度量衡の話

自身との葛藤と、少しずつ他人に心を開きだしていく零の描写が心潤ませる『3月のライオン』です。
5巻では、前巻からの島田八段の流れに加え、学校では部活という居場所を作り上げることのできた零。元々彼の立場を知っていた林田教諭のみならず、ほんの縁があっただけの放課後科学部の面々とも、笑ってしゃべるという当たり前の行為をしたことに感動を覚える零に、彼の過去の孤独さが浮かび上がってくるのですが、そういう直接的なものとはまた違った形で彼の孤独さを示すエピソードが、この巻ではあったのですな。

3月のライオン 5 (ジェッツコミックス)

3月のライオン 5 (ジェッツコミックス)

それは、宗谷名人と隈倉九段の名人戦を零や二海堂が将棋会館の一室で観戦しているシーンです。最中、他の棋士が彼らの研究会のリーダーであるところの島田八段の陰口を叩き、零らがそれに文句を言おうとした矢先、入室してきた後藤九段が棋士らに皮肉を投げつけた、というエピソード。

ふぅん 気楽でいいなぁ タイトル戦に縁のないヤツは
棋士なら他人ヒトのアタマの心配より タイトル戦にも出れずに終わるかもしんな 自分の人生の心配でもしてろよ
(5巻 p93)

後藤九段は零にとって、義姉の香子を苦しめている張本人として明らかな仇。そんな憎むべき彼が、自分の尊敬する島田八段の名誉を守ったことについて、割り切れない思いを抱えるのです。

――わからない 僕には… 人間は混沌そのものだ
島田さんのために腹を立てた彼と 義姉あねを苦しめる彼が 一個の身体に棲んでいる
そいつを僕は…
憎めばいいのか それとも…
(5巻 p99)

このエピソードは零の人付き合いの少なさを、間接的にではありますが、如実に表しています。それはつまり、彼の他人を理解するための度量衡の少なさ。他人を計る手持ちの物差しが、零にはまだまだ少ないのです。
零にとって後藤は、憎むべき相手です。それゆえ、彼と勝負ができるかもしれない獅子王戦で、目の前の相手である島田八段を軽視し勝負の心得違いをするという軽挙に走ってしまったのですが、それはそれとして、そんな後藤は零にとって、ただ憎まれるだけの存在であって欲しいのです。そうすれば、憎むという行為に心理的負荷が少ないから。楽に憎めるから。
ですが後藤は、零の尊敬する島田八段のために腹を立てました。後藤は棋士としての性根が緩い人間たちに対しての怒り、零は純粋に島田が馬鹿にされたことに対する怒りという違いはあれど、少なくとも後藤は島田の実力、棋士としての心構えを信用しており(「ふん 島田なんてどうせほっときゃ 勝手にまた勝ちだすさ」)、その点で零と心情が一致していたのです。
そうなってしまうと、零としても怒りづらい。常にむき出しになっていた後藤への矛先が、どうしても鈍ってしまう。後藤を憎めばいいのか、それとも他の感情を持つべきなのか、混乱してしまう。
この混乱こそが、零の人付き合いの少なさの象徴なのです。
昔から零は友人がおらず、幸田家に引き取られてからは殊更「いい子」であろうと振る舞い、学校では「気配を消し」て「淡々と行動し」ていました。他人との過度な接触を怖がり、それをごまかすために将棋に打ち込んでいたのです。
人付き合いが少ないという事は、他人に対する認識の抽斗が少ないという事。他人の認識の抽斗が少ないという事は、他人を理解する尺度が少ないという事。だから彼は、後藤が、憎い相手がただ憎まれるだけの存在ではないことに、混乱を覚えるのです。彼の他人の度量衡には、「憎い人間にも認めるべき点がある」というものがまだ存在してなかったのです。
いい人は「いい人」。憎い人は「憎い人」。どうでもいい人は「どうでもいい人」。このような実に単純な物差ししかもっていなかった零に、「憎いけど認めるべき点もある人」というのは、手持ちの物差し、すなわち自分の理解を越えた混乱をもたらす存在なのです。このような、なんぼか複雑な物差しを持っている人間にとっては、憎しみが少しは緩和されたり、あるいは「そんなこと言っても憎いもんは憎い」と結局は憎いと思ったりで、認識に戸惑うことはありません。
この度量衡の少なさによる混乱、他人の理解の不得手は、零の、普段は表面的には物静かながらも時折みせる人並み以上の激情にも垣間見ることができます。
2巻の、安井六段との順位戦の直後での咆哮。

あああーーーーーーっっ −−っっ
みんなオレのせいかよ!? じゃどーすりゃ良かったんだよっっ
ふざけんなよ 弱いのが悪いんじゃんか 弱いから負けんだよっっ 勉強しろよ してねーのわかんだよ
解ってるけどできねーとか言うんならやめろよ!! 来んな!! こっちは全部賭けてんだよ
他には何も持てねーくらい将棋ばっかりだよ 酒呑んで逃げてんじゃねーよ 弱いヤツには用はねーんだよっっっ
(2巻 p185〜187)

この零の激昂は「弱い」安井への怒りですが、その怒りの中には、安井の心情の不理解が明らかに入っています。零には、安井の振る舞いが理解できない。勉強しないのが理解できない。酒に逃げるのが理解できない。勝負を途中で諦めるのが理解できない。「弱い」ままでいるのが理解できない。不理解の苛立ちが、将棋にがんじがらめにされている自分の心を逆撫でする。だから零は、吼えたのです。


で、そんな零のことを心配する人間が、幸いなことに彼の周りには何人もいるのですが、その中の一人が零の永遠の心友ライバルである二海堂です。彼はことあるごとに零と接触し、ちょっかいをかけてるのですが、なぜそうするかといえば、零こそが二海堂の「アタマをかち割って」くれた人間だから。幼少の頃から病気がちだった二海堂は、将棋に強くなることだけが心の支えであり、だからこそ弱い相手が強くなるための努力を放棄した卑怯者に思えてしまっていました。そんな彼の前に現れた零は二海堂を破り、彼を一人将棋盤に向かう孤独から救いました。自分よりも努力をした人間がいる、自分は独りじゃない、と二海堂に気づかせたのです。
零が二海堂の「頭をかち割った」というのは、すなわち二海堂の度量衡を零が広げた、ということです。自分以外の同年代の人間を「努力を放棄した卑怯者」と認識していた二海堂の他人の理解の物差しを、「自分と同じくらい、あるいはそれ以上に努力している人間もいる」と広げたのです。
だからこそ、二海堂もまた零の「アタマをかち割って」やりたい。彼の自我の殻を打ち破ってやりたい。なぜなら、狭い殻の中に閉じこもっていることは寂しいことだと、二海堂は知っているから。
それで二海堂は兄弟子である島田に頼んだのですが、見事島田は自分を軽んじていて零を打ち負かし、彼の殻を叩き壊しました。スミス曰くの「経験値不足で 相手の力量を読み間違って フッ飛ばされて 丸裸にされたような気持ち」です。一言で言えば「若気の至り」。
自分の殻を打ち壊した島田が、自分が「目を背けていた世界」を「独り両足を踏みしめて往く人」であると知った零は、彼の研究会に入れてくれと頼みました。彼を人生のメンターだと認めた零の度量衡は、確実に一つ広がったのです。
その結果、獅子王戦に挑む島田を京都まで送り、将棋協会の会長にも「意外だ」と思われるくらいに変化したのです。

ふーん… 意外だなぁ 桐山
お前はもっと現代っ子で クールなのかと思ってたんだがな
(4巻 p128,129)

他人の度量衡は、他人と付き合わない限りは広がりません。それもただ付き合うだけでなく、ある程度以上の人となりを知らなければならない。人となりを知るうちに、手持ちの物差しでは計りきれないことに気づき、無理矢理にでもその物差しを増やしていく。そうしないと、相手が理解できない。理解できないけど、もっと知りたい。このような熱望こそ度量衡を広げる何よりのエンジンですが、零の物差しの少なさは、そのような付き合い方をした相手が少ないということを示す一つの証左なのです。
もちろん、初めから広い度量衡を持つ人間なんていません。誰しも、成長するにしたがって少しずつ、じりじりとその幅を広げていくのです。ですが本作では、零の度量衡の拡大を彼の成長とリンクして描いているために、特に彼の狭さが強調されているのです。彼の持っていない物差しを他の人間が持っている、というような形で。


度量衡には色々な種類のものがあり、多種多様に複雑化していくものですが、零はまだまだそれを広げ始めたばかり。島田に気遣いを見せられようにはなっても、「憎い」方面の尺度はまだまだ未熟な発達段階。だから後藤にも混乱します。
ですが、他人への度量衡が増えるという事は、自分への理解が深まることと同義です。他人は自分の鑑。自分の中に潜るだけでは自分のことを理解できません。他人という参照項があって初めて、今の自分がどういうものかわかるのです。自分の行為の意味(≠価値)は、それを周囲の世界に反射させたこだまを聴かないことにはわかりません。
5巻の最後のエピソードでは、零のこんなモノローグがあります。

不思議だ ひとは
こんなにも時が 過ぎた後で
全く違う方向から
嵐のように 救われることがある
(5巻 p172,173)

これもまた、他人との交わりの中で発見された自分への理解です。泣きじゃくりながらも力強く言い切ったひなの言葉が、まるで自分の過去を肯定してくれたように零には響きました。今まで持て余していた自分の過去・感情が、他人との交わりの中で、初めて明確に形をなしたのです。
自身の理解には、無論のこと深い自省が必要ですが、新たな光を投げかけてくれる他者との交わりは、絶対に欠かせないものなのです。
この作品には、「自分はなぜ将棋をし続けるのか」という零の疑念が一貫して流れています。ですが、その答えは将棋を指すだけではわかりません。零は人と交わることで、他人の度量衡を広げることで、そして自分への理解を深めることで、初めて自分が将棋を指す意味を見出すことができるのでしょう。


ところでひながやっぱりかわいいのと、あかりさんマジ巨乳。




お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ