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日本橋ヨヲコ作品に見る人格としての天才の話

Something Orangeのkaienさんの記事を読んで思ったことを少々。
天才とは何か本気出して考えてみた。 - Something Orange

これらの文章を読んだうえにぼくなりの天才の定義をまとめるなら、あるものごとに対し、常時、どうしようもなく異常にハイコスト、ハイクオリティな努力をしてしまう人格、それが天才である、ということになる。
(略)
ベイビーステップ』に話を戻そう。もう、ぼくのいいたいことはわかってもらえると思う。エーちゃんは紛れもないテニスの天才である。しかし、それはかれの「眼」が特別だからそうだというのではない。エーちゃんのパーソナリティこそが天才的なのだ。

kaienさんの文章中で使われている「人格」「パーソナリティ」という言葉で私が思いだしたのが、「G戦場ヘヴンズドア」のワンシーンでした。

「……先生。」
「んー?」
「漫画家に必要なものって、何スか? 
 才能じゃなかったら、何なんスか?
 本物との差を決定的に分ける一線って、いったい何なんですか!?」
「人格だよ。」
(2巻 p156,157)

G戦場ヘヴンズドア 2集 (IKKI COMICS)

G戦場ヘヴンズドア 2集 (IKKI COMICS)

この現役の漫画家である町田都からこの言葉を言われた町蔵はショックを受けますが、この時点の彼は言葉の真意を誤解しています。それが解けるのが、最終話でした。

…私が言った「人格」って、優れた人柄や品性とかの意味じゃないよ。
どんなに才能があっても色んな事情でそれを続けられない人は大勢いる。でも運がいいのか悪いのか、町蔵君はマンガをやめなかった。
――いや、やめられなかった。
選んだというよりはそう生きるしかなかった。それこそが「人格」だよ。町蔵君はこれでしか生きられないんでしょ?
(3巻 p184,185)

この「選んだというよりはそう生きるしかなかった」は、kaienさんの記事中にある「そうせずにいられないからこそ天才は天才なのである」と対応するものでしょう(まあ「G戦」では「天才」という言葉を使ってはいませんが)。
そして、この自分ではどうすることも出来ない執着心の必要性は、既に「G戦」1巻の時点で指摘されていました。

君にこれから必要なのは絶望と焦燥感。何も知らずに生きていけたらこんなに楽なことはないのに、それでも来るか、君はこっちに。
(1巻 p152)

絶望と焦燥感。しなければいけない。せずにはいられない。終わりなんかない。そのメンタルこそが漫画家に必要なものだと、阿久田編集長は言うのです。
そして、「それでも来るか」という言葉からして、彼はこの絶望と焦燥を生来のものとは捉えていません。それはこちらからあちらに踏み出すもの、自分が変化するもの、「覚醒」するものなのです。

無駄な個性などいらない。君達は君達にしかなれない。
君達が描く必然がないマンガなどいらない。
マンガは練習するもんじゃない。覚醒するものだ。
(3巻 p28,29)

天才といえど、生まれたときから何かに執着することを見せるわけではありません。知らないものに執着することはできません。何かに執着する心、いわば天才の種と呼ぶべきものがあったとしても、その種が育つ土壌と出会わなければ芽は出ないのです。種がいかなる土壌で育つかは、後から振り返り育ったこと、もしくは育たなかったことでしか知ることはできず、自分でやりたいことで芽が出るとは限らない。そもそも誰もが種を持ってるわけでもない。何かに執着するかどうかは、現に何かに執着するという事態が到来しなければわからない。
執着とはちょっと違いますが、覚醒ということでは「G戦」の前作「極東学園天国」でも似たような台詞が登場しています。

姫はヒマな人間が大好きさ ぐーたらのんべんだらりしてる奴見るとわくわくするね
いつか そいつらそれにも飽きたら 何かしでかす日が来るかもしれんじゃないか
(3巻 p179)

極東学園天国(3) (ヤンマガKCスペシャル)

極東学園天国(3) (ヤンマガKCスペシャル)

だらだらすることに飽きたら、何かを見つけるかもしれない。まあ正直かなり楽天的で肯定的に過ぎる考えではありますが、これを言ったたまご姫は、誰かが覚醒するところを見たいのです。
さて、この「極東学園天国」にも天才と呼びうる登場人物がいます。一人は武藤利一。彼は、単純に画力という意味でも突き抜けていますが、その人格も絵から逃げられないものとなっています。

「・・おまえとずっと こうやってだらだらいやらしいことして逃げていたいんだよ ほんとは
おまえまみれになって何も考えずにいてえんだよ
黒子・・」
「――でも
それにも飽きたら 最後に選ぶのはやっぱり絵なんでしょう?」
(3巻 p154,155)

若くしてアル中になった利一は、問題児専門の高校である五色台学園にむりやり入学させられていて、そのお酒も何かから逃げるため(それが何か、作中で具体的に語られてはいませんが)に飲み始めたものでした。そして、3巻の段階で彼は、学園の廃校を防ぐために絵を描くことを要請されますが、学園の存続がかかったプレッシャーと、自分よりすごい人間がすぐ近くにいるという劣等感から、筆を握ろうとしません。そうして酒と女に逃げようとしました。
酒に、女に逃げ続けていた彼は、そうやって必死に逃げていないと、否が応でも絵と向き合わなければいけなかったかのです。変な言い方ですが、必死でだらだらしている。全力で無気力に過ごしている。そうやって必死に逃げていないと絵に真面目に向き合わざるを得なくなってしまう。逆に言えば、それだけの熱量を、本来絵に対して抱いているのです。でも、逃げるのに飽きれば、黒子の言うとおり絵に戻っていく。
黒子の言葉に心動かされた彼は、学園を守るためについに筆を握りましたが、本気になって絵を描いている最中の彼の様子は、恋人の黒子をして「化け物みたいな人」と言わしめるものでした。どんなにだらだらしていようと、結局彼は絵からは逃げられないのです。
そして、学園の総大将、城戸信長もこの意味で天才だと言えるでしょう。
生まれつき目の悪かった彼はその分を取り返そうと幼い頃からピアノに打ち込み、誰にも負けない自信を持っていましたが、中学の時に出会った一人の転校生の演奏を聴いて打ちのめされました。
「見栄と恨み節で身につけた技術のオレの演奏とは全く違って――あたたかかったんだ」
以来、信長はピアノと本格的に向き合うことから逃げ続け、必死で道化を演じ続け、五色台学園に逃げ込みましたが、利一と信号に自分の後を任せられると感じたことで、かつて自分を打ちのめした転校生のピアノを越えられないことから逃げ続けることにも飽き、音大に進学することを決意しました。
信長のピアノも十二分に上手いものですが、彼は自らを「凡才」と規定します。それは転校生のピアノを聴いてそう感じ、今まではそれを認めながらも、それを乗り越えてピアノに向かうことができなかった。しかし、彼は逃げ続けることにも飽き、覚醒しました。

「お前はピアノの才能などない」
それでもこの道を進むよ 父さん
己の身のほどを自覚して
凡人であることを肝に銘じて
オレは何者でもなく生きる
(4巻 p36,37)

自ら凡人であることを自覚する天才。なんとも自家撞着ではありますが、前者の「凡人」は人格ではなく才能についてのものであり、後者の「天才」は人格についてのもの。言葉の水準が違います。
先に書いたたまご姫の台詞は、この二人の「天才」を一面で説明しているようです。だらだらとしていた人間が、それに飽きたらでかいことをする。何かに真面目に向き合うことから逃げていた人間が、その逃亡にも飽きて、真面目に向き合うことになる。
二人ともどんなに逃げようとしても結局、絵から、ピアノから離れることができなかった。続けるしかなかった。それこそが、天才の人格だ、と。


また、最新作である「少女ファイト」でも、主人公の練は天才だと言えるでしょう。彼女の場合、どんなに嫌っても離れられなかったバレーへの執着ももちろん言えますが、ここではkaienさんの言う「平等に与えられた一瞬を、誰よりも濃密に生きることができる資質」に着目してみましょう。
合宿で断食中の練が模型作りで時間を潰しているのを見た同室の学は、彼女に問いかけます。

「でも練さんにこんな趣味があったとはちょっと意外でした」
「そう?」
「ええ バレーとは全然ベクトルが違うので……」
「…模型作りってさ 私の中ではバレーと遠からずなんだよ」
「え…?」
「この模型の完成がバレーの試合で勝つ事だとするじゃない?
この組み立て作業にもバレーにも「流れ」ってのがあってね 常に完成品をイメージしてどうやったら奇麗に無駄なく作れるか考えるんさ
これさ 1パーツでもおろそかにすると最終的には全部狂って完成しないのね
一生懸命作っても間違った努力をすると失敗しちゃうってとこが――
なんだかバレーの試合と似てる気がするんだよね」
『そうか 練さんは才能じゃないところでもこういう考え方ができるから プレーが突出してるんだ…』
(4巻 p50〜52)

少女ファイト(4) (KCデラックス イブニング)

少女ファイト(4) (KCデラックス イブニング)

何かを見たり聞いたり考えたりした時に「ああ、そういえばこれはバレーのこういうところに通じるかも」と意図せずとも考えてしまうそのメンタリティ。結果生まれる突出したプレー。
これを端的に表しているのが由良木コーチの言葉「自分がふがいないのを才能やセンスのせいにすんなよ 特別な人間なんていねえんだよ そいつが何をやってきたかが特別なだけだ」でしょう。まあメタ的に考えれば、その特別な何かをできることこそが才能だと言えるのでしょうが、それが生半にはできないからこそ、そのような才能(特別な何かをできるメンタリティ)を天才と呼べるのでしょう。
練のこのような態度は、「おおきく振りかぶって」の百枝監督の言葉を想起させます。

うちはかなり練習時間長い方だけど 授業のある時で正味6時間 休日グラウンドにいるのだってせいぜい12時間
なら まだ半分も余ってるね?
部活や野球のことを考えるのと同じように 残りの全部の時間 野球のことを考えてみて!
(略)
イメージして! 甲子園で優勝するためにはもう1分だってムダにできない 今から優勝まで全部の時間を野球のために使う!
それがそれ相応の覚悟・・・・・・・だよ!
(15巻 p119〜121)

おおきく振りかぶって(15) (アフタヌーンKC)

おおきく振りかぶって(15) (アフタヌーンKC)

百枝監督は、まだ硬式野球部になって一年目、一年生ばかりの野球部員に向かって檄を飛ばしました。部員たちにとって百枝のこの発言は新鮮なもので、それはつまり、部員たちにとってそれは当たり前のことではなかったという事です。百枝のこの言葉を実行することは、いわば外的な作用で天才を作り出すようなものですが、この状況で部員たちが甲子園優勝を果たすためにはそれだけのことが必要でしょう。
少女ファイト」に話を戻せば、練のこのようなメンタルを聞いた学は自分もそうあろうと心がけ、後には実力者である志乃やルミコにも感嘆されるほどの成長を見せるのです。


「自分にはないもの(才能)に対する若者の苦悩」は、日本橋先生の最初の連載である「プラスチック解体高校」から描かれ続けているものですが、そこに「メンタリティ・人格としての天才」という補助線を導入することで、また変わった読み方ができそうです。


ついでに、昔書いた天才についての記事も。
漫画で天才はどう描かれるのか、「ハチクロ」と「バガボンド」を例に考えてみる話 - ポンコツ山田.com
こちらは、客体としての天才を描くにはどうするか、という記事ですが、天才の「遠さ」について考えてます。


追記;twitterで呟いてたら、上遠野浩平の小説に出てきたこんな言葉を思い出しました。

人の心の中にはデーモンがいる。普通の人はそいつの存在など知らず一生を過ごすが、稀にそいつの姿を見てしまう人間がいる。そういう者たちは、もう二度と普通の生活はできない。彼らはそれに取り憑かれ、それ以外の何物にも魅力を感じなくなり、自らそれを表現するより他に生きる道を失う。人は、そういう者たちのことを芸術家と呼ぶ。
(p215)

海賊島事件 (講談社ノベルス)

海賊島事件 (講談社ノベルス)

これが何かの引用なのか、それとも上遠野先生のオリジナルなのかはわかりませんが、「芸術家」を「天才」に換えても、この記事の趣旨に則ればそれほど問題はないように思えます。



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