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漫画の話です。

「とめはねっ!」に見る、個性と努力の過剰な優劣の話

というわけで、前回の記事の最後でちょろっと触れたことについて。
望月が「書は人なり」を体現しているとはいささかの皮肉を交えて前回書きましたが、さらに気になるのがこの作品で、キャラクターたちの書道に対する取り組みに、善悪二元にも似たあからさまな対立構造を作っている点です。簡単に言えば、鈴里高校のやり方・考え方はよくて、他の鵠沼学園や豊後高校のものは劣っているんじゃないか、というような。

とめはねっ! 鈴里高校書道部 7 (ヤングサンデーコミックス)

とめはねっ! 鈴里高校書道部 7 (ヤングサンデーコミックス)

それが顕著に出たのが、6巻の「書の甲子園」編でのことです。
書の甲子園で優勝した豊後高校の部員と話をしていた望月が、「私たちも団体優勝を目指す」と宣言したところ、彼女らが一様に見下したような態度をとりました。それに憤慨した鈴里高校の面々は、豊後高校の部員で、望月の旧友でもあり文部科学大臣賞受賞者でもある一条に詰め寄ったると、彼は他の部員の失礼な態度を謝罪しながらも、自分たちがいかに寸暇を惜しんで練習しているかを説きました。書の甲子園で優勝するにはこれくらい練習する必要があるんだ、と。それに触発された望月は、かけもちで所属していた柔道部を辞め、書道部一本に絞ろうとしましたが、部長のひろみに諭され、思いなおしました。ひろみ曰く、「書は人なり」、書にはその人の個性が出る、書は練習量だけではなく、自分が書きたい言葉を見つけるのも大事なのだ、と。
それはおそらくその通りなのでしょう。昔から言い習わされてきた言葉には、それなりに理由があります。書についてはよくわかりませんが、同じ文化系と言うことで音楽畑の話ならば、あるプレイヤーがどんな音楽や先人が好きかなどの個性は、確実にその人の演奏に影響を与えます。音楽だけでなく、本やアイドル、思想、運動、料理など、あらゆることが演奏に有形無形の影響を与えるでしょう。その意味で、自分が何を好むか嫌うか、どんなことに感動するかなどをよく知ることは、演奏の個性の確立に繋がるものです。
ですが、個性を確立するには、それが拠って立つ基礎的な技術が圧倒的に必要です。基礎技術のないところに個性を出そうと思っても、そもそも手が、指が、口が思うように動かないのですから、個性の出ようがありません。実際、プロほど基礎連を惜しまないものですが、それは基礎ができなければ思うようなプレイができないことを知っているからです。
そして、その事情は書道でも変わりはないでしょう。基礎的なことができなければ、思うように指が動かない、手が動かない。書きたい文字を書きたい形に紙の上に表現しきることができない。個性を発揮する前に、まずは書くべきものを書けるようにする技術が必要なのです。
鈴里高校書道部は、客観的な成果の上では完全に弱小校です。部長のひろみは書の甲子園で入賞するほどの技術を持っていますが、それは部と言うより彼女個人の力です。そして、やる気が全員に漲っているわけでもない。
そんな高校を主人公の高校に選んだわけですから、体育会系的な勝利カタルシスを得るためには相応の何かをしなければいけません。勝利へのプロセスの常道にして王道は「努力」ですが、本作ではそれ以上に重要なものとして「個性」を加えたわけです(無論、努力=練習が不要といっているわけではありませんが)。新入生二人は、かたやカナダからの帰国子女で日本語はまだ堪能でないけど、達筆な祖母の字を真似て練習していたために柔らかな字を得意とする縁。かたや高校柔道優勝者で運動神経が抜群、大字書が得意な望月。個性という意味では十分です。
体育会系的な勝負、つまり優劣を第三者から評価される、客観的に勝敗を決めるという構図は、本作では序盤から存在しました。2巻での「母」の字勝負、駅前パフォーマンス(これは書というよりはパフォーマンスの勝負でしたが)、夏合宿での品評会、書の甲子園などです。また、キャラクター単位でも望月やよしみといった負けず嫌いキャラのために、随所で優劣は話の種になります。
この優劣を決める(優劣が存在する)という価値構造は、練習量vs個性の形でも現れています。かなの書を本格的に学ぼうとしたところ、鈴里高校は縁の祖母に、鵠沼学園は笠置教諭の伯母・亜紀子に習うことになりましたが、実際に両者が教えを受けた後に、実に対比的かつある印象を強めるシーンがあります。

ひろみ「わたしたちは今日、「かな」の歴史を教えてもらったの。大江先生のお話、とってもおもしろかった。昔の人はラブレターのかわりに和歌を書いてたとか……(後略)」
よしみ「そんなこと知らないわよ。ってゆうか、書道にはあんまり関係ないんじゃない?」
「えっ、笠置亜紀子先生は、そういうの教えてくれないの?」
「ええ、別に。こういう技術的なこと中心よ。」
「そうなんだ。だったら、私、笠木先生じゃなくて大江先生で良かった!」
(7巻 p65,66)

単に、練習量(技術)vs個性(教養)の構図で、善人かつ書の実力者であるひろみが縁の祖母の教え方に賛同しているだけでなく、そもそも笠置亜紀子が、優しい縁の祖母と対比的に、スパルタで冷たい人間であるように描かれているために、書における個性の有用性が過剰に持ち上げられているのです。
もちろん、鈴里高校の面々だって基礎的な練習を重ねていますし、他の高校の人間だって個性を蔑ろにしているわけではないでしょう。ただ、その描き分け方が不合理なレベルで鈴里高校に優位に働いているように思えるのです。朝から晩まで毎日練習している豊後高校にはそれなりの矜持がありますし、その矜持を裏付ける賞も受賞しているのですから、その努力を不当に低めることはないでしょう。


このような、ある種の思想の対立に露骨な優劣をつけるのは、前作『モンキーターン』でもレースに対する心構えについて、洞口を過剰に悪役然と描くことで、それと対立する青木優子の考え方を善きものとするなど、河合先生がよくやる手法のようですが、個人的にはもうちょっと上手く、こちらに気づかせないようにやってほしいなと思います。なにが良い悪いってのはもちろんありますけど、それはこっそり忍ばせてほしいものです。




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