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伊坂幸太郎作品の「悪」とトラブル解決と罪刑法定主義の話

※この記事には、『マリアビートル』その他伊坂幸太郎作品のネタバレがあります。未読の方は重々ご注意ください。

マリアビートル

マリアビートル

物を盗んだり、人を殴ったりする人間については、法律が機能する。条文に当てはめ、罰則を与えればいいからだ。が、そうではない、もっと曖昧模糊とした悪意となると、簡単にはいかない。法律は効力がない。
(p183)

この文を読んで思ったのは、当たり前っちゃ当たり前のことなんですが、伊坂幸太郎作品において、非合法なトラブルを解決するために採られる方法って、基本的に非合法、あるいは法の外によるものなんですよね。
例えば『鴨とアヒルのコインロッカー』や『グラスホッパー』、その系譜に当たる本作なんかは、復讐のために私刑を企むわけですし、『重力ピエロ』では、葛城は既に法の裁きを受けているものの、それでは満足していない春は法による罰以上のものをやはり私刑によって課す。『オーデュボンの祈り』は、日本国の法の外にある荻島の中でも超法規的な(あるいは彼こそが荻島の法とも言える)存在である桜によって、ほとんど天災と同じレベルで城山は殺されます。『ゴールデンスランバー』や『モダンタイムス』は法を制定する当の国、あるいはそれに近しいものが相手なだけに、基本的には逃げの一手。根本的な解決はできませんでした。
この中でも、『オーデュボンの祈り』の城山、『重力ピエロ』の葛城、『マリアビートル』の王子なんかは、法の限界を知った上で悪を働くという点で、印象的なキャラクターです。『鴨とアヒル〜』の江尻も、他の仲間が死んだのをいいことに「自分はただの使いっぱしりだった」と言い張り罪を軽くし、「疑わしきは罰せず」という刑法の制限を活用したという意味で含まれるかもしれませんが、いかんせん頭の悪い人間によるギリギリのアピールだったので、上記三人に含めるには少々格が落ちます(クズさではひけをとりませんが)。
彼らは、社会的な観点からみれば悪事を働いているわけですが、法的な観点からはそれを処罰できない、あるいは不当に軽い刑罰で済んでいます。*1
近代法では罪刑法定主義が大原則であり、法律に記載されていない事柄で有罪となることはありませんし、事後に制定された法により有罪になったり、重ねて罰を課されることもありません。また「疑わしきは罰せず」の下、明確な証拠により裁判で有罪とされない限り、その人間は無罪であると推定されます。
ために、城山も葛城も王子も、恣に悪事を重ねるわけですが、彼らが法で裁けない以上、彼らによるトラブルの解決は、非合法、あるいは法の外にあるものに頼るしかないのです。
城山についてはその裁定者が桜であったために、主人公たちによる能動的な解決とはいえませんが、葛城と王子、そして江尻は、主人公たちが積極的に私刑を課そうとします。私刑の禁止も罪刑法定主義の一つですが、それを知りながらも主人公たちは復讐を果たそうとするのです。
非合法に対して非合法で立ち向かうというのは、決して当たり前のことではありません。というか、それがなされないように国家は法を制定しているのですから。私人による無制限の報復行為が許容された社会は、極めて住みにくい弱肉強食の世界でしょう。日本の仇討ちだって、江戸時代にきちんと法制化されています。私人による報復行為に、極めて厳しい制限をつけているのです。
にもかかわらず、彼らは私刑に臨む。私刑を望む。なぜなら、自分に関係する悪を働いたにもかかわらず法では罰されない人間がいることを許せないから。
そう考えると、伊坂作品の主要人物たちは、社会的な正義に突き動かされるのではなく、根本的に個人の怨恨で動き、社会的な制約=法から身を離して行動しているのです。その構造の多さに、今更にして気づきました。


もうちょっと考えたいこともありますが、とりあえず今日はこの辺で。




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*1:葛城が犯した連続強姦事件は未成年時のものであるために少年院送致で済み、少なくとも作中では、それは不当に軽い罰であると書いています