- 作者: 山田芳裕
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/07/23
- メディア: コミック
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最新刊である十一巻の段階では、主役である古田織部が活躍した年代の理由もあり、秀吉が長らく天下人の座にあります。この秀吉、「へうげもの」内での人物像として、剽軽者で女好き、侘び数寄とは程遠い派手好みでもあり、母親、弟、嫁や子どもを愛し、主君信長を奉じ、茶の師匠・利休を父とも慕う人情家でもあり、主君である信長に恩を感じつつも己の天下獲りの欲望を抑えきれず、明智光秀が信長に謀反を起こすよう裏から仕向けるなど、冷徹な策謀家にして野心家でもあると描かれています。
どの姿が本当でどの姿が嘘という事もなく、その姿全てがある局面に対する彼の態度なのでしょうが、それらが競合した時に彼が何を優先するか、そしてそれがどのような葛藤となって彼の身に顕れるのでしょうか。
けしかけた明智により信長の本能寺討ちが行われた際、秀吉は部下と共に忍び込み、自らの手で主君・信長を弑逆したのですが、そのときの彼の心中は
泣けぬ………
ここで涙を流せたなら…… 少しは癒えようものを…… 俺の心中には……
大きな穴が空いたのみ……
(三巻 第二十一席)
と、天下獲りへ熱く滾っていたわけではなく、主君殺しの辛さと虚しさが大きく口を開けていたのでした。
このような負の念が心中を覆うであろうことは、秀吉はわかっていました。
俺も己の止まぬ野心を恨んでおる
(一巻 第九席)
天下獲りのために主君討ちさえ考えてしまう野心を、自ら恨めしく思っているのです。恨めしいのにやってしまう。いえ、やると決めたのに悔いてしまうであろうことが恨めしいのでしょうか。とにかく彼は、ねじ切れそうな板ばさみの結果、信長討ちを決行したのです。
そんな秀吉の心の虚無が埋められたのは、古田織部(当時は佐吉佐介でしたが ※web拍手コメントで指摘をいただき、修正しました)に、自分が信長を殺したと打ち明けた後でした。
秀吉に弓を引き、奴こそ信長殺しの真犯人と吹聴する弥助の助命嘆願をする織部に秀吉は、髷を結い俺の手足になると誓うなら弥助ともども許してやると告げました。秀吉は織部に誓約を迫ります。
「羽柴様の…… 乱世に生きる者としての非情さには感服致しております」
「「非情」……? 「努力」と申せ」
(四巻 第三十三席)
こう織部に告げた後、初めて秀吉の目からは涙が流れたのです。
秀吉にとって、信長討ちを「非情」と評されるのは心外なことでした。決して彼に情けがないわけではなく、信長に恩義を感じていなかったわけでもありません。それらがあるにもかかわらず、胸の中では天下人への執念が膨らみ続ける。両者が鬩ぎあった末に秀吉が選んだのは天下人への道だが、それを達するために信長への恩義を抑えつけるには、壮絶なまでの「努力」が必要だった。その「努力」にもかかわらず抑えきれなかったのは、心中に空いた大きな穴が示すとおりです。
彼が再び「努力」を口にするのは、関東北条氏討伐の際、北条氏に仕えていた利休の弟子・山上宗二が自身と北条当主・氏直の助命嘆願をした時のことでした。
宗二の赦免は、秀吉の実弟・秀長、利休両名から願いだされているも、高野山に詰めていたときに書いた書物により石田三成の怒りを買い、彼からは処刑を進言されている。
肉親と心の父。信頼する懐刀。どちらにも言い分を覚えた秀吉は、宗二に一つの質問をしました。
「この出で立ちを評してみよ 宗二 余がお気に入りの出で立ちを評してみよ」
「当世にはふさわしうないお召し物にて」
「これ以上余に努力 をさせるな……
やれ」
(七巻 第六十六席)
己の感性に嘘をつくことのできなかった宗二は、正直に酷評し、秀吉は彼を処刑する決心をしました。ですが、その処刑もまた「努力」だったのです。
秀長と利休は侘び数寄のため、特に秀長は侘び数寄が政に必要だと考え宗二の赦免を進言し、石田は逆に侘び数寄が政を乱す原因として宗二の処刑を進言しました。両者の主張は完全にかち合っており、どちらがより豊臣の政のためになるかはこれからの政治の方向性次第であって、この次点ではどちらが正しいと言う事はできないのです。
いえ、侘び数寄を好まない秀吉にしてみれば、石田の主張に耳を傾けたくなっていてもおかしくはないはずです。それでもなお悩んだのは、秀長と利休という二人による嘆願、すなわち情の部分での理由が大きいのでしょう。宗二は気に食わないし、政のためには侘び数寄の芽は摘んでおいた方がいい。だが、秀長と利休の進言を無碍にはしたくない。その板ばさみ。
果たして秀吉は宗二を処刑したわけですが、その時の「努力」とは、秀長と利休、二人の心遣いを抑えつけるための「努力」だと言えるでしょう。
改めて言いますが、秀吉は決して情のない人間ではありません。情を、敬意を払うべきと自分が認めた人間については、きちんとそれを示しているのです。ですが、それに反抗するように彼の胸に湧き上がる天下人の野望。両者がかち合った場合に優先されるのは後者ではあるのですが、そのとき彼の胸には殺された情、殺さなければ天下人の邪魔になる情が確かにあるのです。そうして情を殺すのは、秀吉にとって天下人への「努力」なのです。
「へうげもの」の魅力の一つに、己の業に焼かれる人間の生き様をまざまざと描いている点があると思います。主人公の古田織部にしろ、千利休にしろ、織田信長にしろ、明智光秀にしろ、豊臣秀吉にしろ、徳川家康にしろ、石田三成にしろ、山上宗二にしろ、ノ貫にしろ、方向性は違えど、みな己の業のままにいつ殺されるとも知れない戦国の世を生きているのです。いつ殺されるとも知れないからこそ、己の業に従っていると言った方がいいのかもしれませんが。
天下人を目指すも、侘び数寄を目指すも、へうげを目指すも、止むに止まれぬ己の業なのです。
今回はその中でも、秀吉の業と情との板ばさみにスポットを当ててみましたが、他のキャラクターについても考えてみたらさぞ面白かろうと思います。
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