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「王様の仕立て屋」から考える「伝統」の話

今月頭に27巻が発売した『王様の仕立て屋』。遁先生のデビュー作『かおす寒鰤屋』がわずか9週で打ち切りの憂き目に遭ったのをリアルタイムで目撃していたファンとしては、ここまで長期連載になったことに驚くやら嬉しいやらなのですが、それはともかく、『王様の仕立て屋』は、イアタリアナポリの下町で仕立て屋を営む日本人・織部悠の物語。ナポリ中の究めし職人サルト・フィニートから「ミケランジェロ」と賞賛された偏屈な仕立て屋・マリオ・サントリヨが唯一認めた弟子・織部悠が、悩みや厄介事を抱え込んでいるお客さんに一着仕立てることで、気分を一新させてそれらを解決に向かわせる、というのが大体の筋書き。彼の他に靴職人見習いのマルコ、フランスブランド総帥の次男にしてモデルのセルジュ、イタリアの新興ブランド・ジラソーレ社の面々などがいて、物語に広がりを持たせています。
イタリアはナポリといえば、イギリスのロンドンと並んで仕立て服の聖地。そこには長い年月をかけて脈々と培われてきた仕立て服の歴史と技術があります。また、ナポリ自体紀元前からの歴史を持つ古い街で、様々な文化交流の交錯点として栄えてきました。そんな街を主な舞台として展開する物語ですから、作中で頻繁に「伝統」という言葉が出てくるのもむべなるかな。
仕立て服以外にも、クラシック音楽や舞踊、料理、日本なら歌舞伎や落語など、「伝統」の名を冠する領域のものはいくらでもありますが、果たして「伝統」とは何なのか。それを『王様の仕立て屋』を基に考えてみたいと思います。


なにはともあれyahoo辞書に出張ってもらえば、「伝統」とは

ある民族・社会・集団の中で、思想・風俗・習慣・様式・技術・しきたりなど、規範的なものとして古くから受け継がれてきた事柄。また、それらを受け伝えること。

とあります。「規範的なものとして」「古くから」「受け継がれてきた事柄」また「それらを受け伝えること」。これが「伝統」の骨子でしょう。
基本的に「伝統」は重要なもので、それを墨守し、次世代に受け継ぐことは大事なこととされます。ですが、いついかなる時でもそれが可能と言うわけではありません。
26、27巻のエピソードは生地にまつわるものでしたが、その発端は、世界不況のためにロンドンの機屋が次々と廃業に追い込まれ、イギリス内で高級生地の値段が天井知らずになってしまい、代わりの目玉となるような生地を求めてジラソーレ社ロンドン支店長のクラリッサがイタリアに来る、ということでした。
イギリスでも紳士服の受注をしているジラソーレ社ですが、そもそもイギリスはスーツの本家だけにプライドが高く、生地も技術も国内のもの、というのが一つの誇りでした。それにもかかわらず、国内の生地が使えないために国外の生地を使わざるを得ない。ジラソーレだけでなく、ロンドン中のテーラーが悲鳴を上げていました。
「伝統」というものを考えるに、この状況は二律背反です。国外の生地を使えば「古くから受け継がれてきた事柄」を守ることができないし、それを良しとせず生地が手に入らぬまま座視すれば「それらを受け伝えること」ができない。どちらにしても「伝統」はそれ以前と同じ形で入られません。
しかし、この状況についてイタリア貴族にして服飾評論家のボンピエリ氏はこう言います。

無形文化ってのは骨董の埃を払っていりゃいいってもんじゃねえ 生地の高騰を理由に受注を減らし 職人の腕を錆びつかせたら その時こそサヴィル・ロウは死ぬ
屈辱でも何でも妥協できるところはして 守るべきところを守り続ける判断は間違っちゃいねえさ たとえ一個でも種を残せたら森を作る可能性はゼロじゃねえ
(26巻 p46)

氏曰く、「古くから受け継がれてきた事柄」に固執して存在を喪うくらいなら、「妥協できるところはして 守るべきところを守り続け」、「それらを受け伝える」べきだ、とのことです。
この発言は、氏が貴族であるということに関係があるでしょう。
作品内には、氏以外にも貴族筋に名を連ねるものが多くいます。ペッツオーリブランドの総帥・ジャコモ・ペッツオーリにその娘のユーリア、男爵のカルロ、伯爵家のベリーニ伯とその娘のイザベッラ。英国貴族のウォーレン卿もいます。そして、貴族については作品内でこのように語られます。

どこの国の貴族も雨が降ったら地面から生えて来たなんて由来は持ってない 天下人に従って戦場で他よりも多く敵を平らげ 命を張って勝利者の地位を勝ち得たんですぜ
(3巻 p109)

亡くなった祖父さんが昔気質の貴族でね
貴族は戦争が起こったら前線に立って領民を守るのが使命
戦場では自分のことを自分でしなければならないからと 貴族の素養と一緒に料理や裁縫まで仕込まれたよ
法律が変わって貴族もただふんぞり返って飯が食えてた時代は終わり 私はビジネスを立ち上げた
(22巻 p140)

また、作中でトップクラスに「伝統」について口やかましいベリーニ伯はこう言っています。

自由競争の社会で貴族といえども惰眠を貪ってはいられない時世 当家は幸いにも財産を保ちえた 地元産業の助けを得て 急場を乗り越えた私はこの街の伝統を保護する事こそ我が使命と心に刻んだものだ
(15巻 p17)

歴史の中で貴族はある一定の地位を得ていたが、それはただ「ある」だけで保てるものではない。火急の時には貴族としての責を全うし、また資本主義社会が発展すればなおのこと、なんらかの行動を起こさなければ貴族は貴族足り得ない。歴史の中でその地位を保持し続けられるよう努力をしてきた彼らゆえに、同じく歴史の中で脈々と生き抜いてきた「伝統」について一家言があるのです。 
さて、ここで改めて上のボンピエリ氏の発言に戻りましょう。私は二律背反に陥った「伝統」がとるべき態度としては、彼の意見に賛成しますが、作中では、別のエピソードですが氏とは意見を異にする立場も出てきます。
上で引用したベリーニ伯の発言は、こう続いています。

確かにオリベ君の技術は後継者不足のナポリ仕立てにとって頼もしい存在だが 技術だけ再現できればいいという物ではない
名人の個性や癖をマニュアル化すればただ機械的にそれを再現する職人などいくらでも育成できる
創意工夫を凝らして進歩を続けた幾多の職人達に対する畏敬は完全に消え失せ 名人芸の複製だけが量産される そんな物をナポリ仕立てと呼ばねばならんのなら いっそ惜しまれつつ滅んだ方が良い
(15巻 p21,22)

また、イギリスのギルレーズ・ハウス編で登場したジョンソン親方は、弟子のベーコンが勝手に本店を名乗り、客もそっちに行ってしまったことに荒れ、こう吐き捨てます。

「十九世紀から続いたギルレーズ・ハウスも俺の代限りだ 注文が立ち行かねえならスッパリ閉店してやらあ」
「今お前が店を閉めたら ベーコンの店が本店って事になっちまうんだぞ それこそお前に店を任せた先代に申し訳が立つめえ」
「ギルレーズ・ハウスの工房にはイギリス人の職人しか入れねえ そいつが創業以来の伝統だ」
(17巻 p13)

どちらも、「古くから受け継がれてきた事柄」を喪ってまで「受け伝える」くらいなら、いっそ亡くなってしまったほうがいい、と言うのです。
両論に一理あるのですが、私がボンピエリ氏の意見に賛同するのは、私は「伝統」を、どんな形であれ続いていたもの、と考えているからです。ここで留意すべきなのは、続いて「いた」と過去形になっていることです。「伝統」は現在、今この瞬間においては存在せず、過去のある時間を振り返ったとき、そこにさらに以前からの連続性が認められることで、初めて「伝統」があった・・・と言えると思うのです。「伝統」とはある一定の形で常に現前するのではなく、事後的に振り返ることで今ではない過去に存在した、そういうものだと思うのです。
それを別の言葉で言えば、「伝統」とは受け継がれ続けるその連続性の中にこそ存在する、ともなるでしょう。今まさに途切れるかもしれないこの瞬間においては、まだ受け継がれ続けているとはいえませんが、一瞬後においてそれが途切れることなく受け継がれ続けていた・・のが判明すれば、たしかに「伝統」は受け続けられている連続性の中にあった・・・のです。
そして、ただ「受け継がれ続ける」のではなく、ボンピエリ氏の言うとおり「守るべきところを守り続ける」必要があります。この点を逆から見れば、ベリーニ伯やパウエル親方が言うように「守るべきところを守れないなら、『伝統』は終わる」ということになるのですが、そこで真に「伝統」が終わったか、受け継がれる連続性が途絶え別のものに変わったかどうかは後世の人間が判断することであり、それを現在の人間が判断できることではないと思うのです。即ち、現在の人間は未来の人間にとって過去の人間であり、現在における「伝統」の連続性の有無は未来から振り返られた過去としての現在という視座で判断されるべきなのです。
仮に「守るべきところ」が的外れで、未来から見て「伝統」がその時点で絶えていると判断されても、それはしょうがないものでしょう。守るべきところが守れそうにないから断絶も已むなしと自発的に「伝統」を絶えさせるのも、守るべきところが的外れで結果的に「伝統」が絶えてしまったのも、連続性の断絶と言う意味では変わりありません。それでもボンピエリ氏の言うように、「たとえ一個でも種を残せたら森を作る可能性はゼロじゃ」ないのです。「伝統は絶えてしまったら次の世代は学ぶ術がないのですから」とは、作中でも有数の博識・ヴィレッダの台詞です。
そもそも「伝統」の守られるべきものとは何なのか。それは果たして本当に本質的なものなのか。その疑問を明快に示すエピソードが『王様の仕立て屋』にはあります。
伝統的ナポリ料理の老舗のオーナー。伝統料理を供するためにとクラシックスーツ一筋の御仁。しかしそんな彼を眼の上のたんこぶと妬む新興の同業者からの小狡い工作で、後援会に入っているサッカーチームからチーム特注のモードスタイルのネクタイを送られてしまった。折りしもチームはヨーロッパ大会目前。壮行会はもちろん彼のお店で催されるのだが、老いた体でネクタイに合わせたモードスーツを着るのは軽薄だし、かといってせっかくのプレゼントを身に着けずにホストを務めるのはプロフェッショナルとしての名折れ。この板ばさみに遭った彼の目を醒まさせるために織部悠は一着仕立てるのですが、その前段階として彼に供したのが一皿のパスタ。茹でたスパゲッティの上にチーズをかけただけの簡単なものだけど、しかしそこにはフォークがない。一瞬虚を疲れた彼だが、すぐに悠の意図を覚り、手づかみであんぐりと口に放り込んだ。
18世紀初頭までスパゲッティはピッツァに並ぶ庶民の主食で、茹でてチーズをかけ手づかみで食べる簡素な物だった。だが、1759年にナポリ王に即位したフェルディナンド4世が、どこで知ったのか庶民の味であるスパゲッティがひどく気に入った。王宮でも出すようにと料理人に命じたが、それに怒ったのが彼の妻であり、かのマリー・アントワネットの姉である王妃・マリア・カロリーナ。そんな下品な食べ方をするものを宮中で出すなどもってのほかと猛反対した。それでも諦めきれなかったフェルディナンド4世が家臣に相談し、もともと先が二又で料理を取り分けるための道具だったフォークを口に入るよう小型化し、麺が絡みやすいようにと三又や四又に改良した。
というのが、スパゲッティを食べるのにフォークを使うようになった顛末。
手づかみでスパゲッティを食べてから、オーナーが一言。

クラシックも突きつめればつまりはこういう事 いかに王族が愛した味とはいえ これを店に出すわけには参りません
伝統を守ると気張っていても 自分の都合のいいところで上限を設定して威張っているに過ぎないという事ですか
(19巻 p146)

極めて明快です。「伝統」において「守るべきもの」とは、「自分の都合のいいところ」で設定したものに過ぎません。その上限は各々が勝手に決めますが、その時代の「守るべきもの」と看做せるものは後の時代から振り返ったときに、前後の時代との連続性の文脈の中で初めて決定されるのです。
今の時代でもスパゲッティを食べるときにフォークを使うからこそ、フォークの使用が「伝統」と看做されるのです。もし彼がいなかったら食事にフォークが使われなかったかもしれず手づかみが「伝統」のままだったかもしれないし、別のところからフォーク以外のものが広まっていれば、それが「伝統」になっていたかもしれない。一見直線的に続いてきたかのように見える「伝統」も、その実偶発的なものでしかなく、その偶発性ゆえに、連続性の中にあるという動性こそが重要なのです。
その意味で以前書いた記事
「動的平衡」と「生命」と「国家」の話 - ポンコツ山田.com
と共通していて、「伝統」が生命力を持って時代の中で認知されるのは、連続性という動的状態にあるからなのだと思います。


「伝統」を扱う作品はいくらでもありますが、『王様の仕立て屋』で語られるこのような形式がもっとも私の性に合っています。「伝統」とは動的なもの、すなわち変化するもの。守るものではなく、続けるもの。そして事後的に振り返ることで、そこにあったとわかるもの。ある時代の「伝統」の形式を唯一最上のものとありがたがるだけでは、それは「伝統」を受け継ぐことにはならないと思うのです。




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