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漫画の話です。

「動的平衡」と「生命」と「国家」の話

「生物と無生物の間に」(福岡伸一)を読んで、人間の身体を構成する細胞は、その原子がわずか三日で全て入れ替わるということを知った。新陳代謝によって細胞は日々生まれ変わり、三日前の自分と今の自分では、それを構成する原子は別ものなのだそうだ。それでも私たちの「私」は揺るがない。私たちは「私」として生きている。この一連の状況を福岡先生は「動的平衡」と名づけた。生命とはソリッドなもの、固定的なものではなく、新陳代謝を行い、身体を構成するものが常に入れ替わっていく状態がその本質だという。平衡状態でありながら同姓を保っているもの。それが生命なのだ。


人間が生きている、生命を持続させている状態では、人間を構成する原子は常に入れ替わっていく。けれど、その人がその人であるという同一性は揺るがない。
同一性の保持こそ「平衡」なのだけど、それを生命を持つ人間一個人から拡張して、もっと概念的なものにまで及ばせてみる。
例えば学校。学校とは実は概念的なものだ。中学校や高校なら、三年でほぼ全ての生徒が入れ替わる。教師も何年かすれば転勤する。校長の首も挿げ替わる。校舎だって何十年も経てば老朽化して取り壊される。でも、そのどれが起こっても学校が学校でなくなるわけではない。生徒が替わっても、教師が替わっても、校舎が替わっても、学校は学校であるとある規範によって認められていれば、学校であり続ける。
それを国家にまで広げて考えてみよう。日本。日本が「日本国」として初めて存在し始めたのは西暦689年のことで、この年に施行された浄御原律令の中で初めて「日本」は生まれた。それ以前に、現在日本国領土となっている土地はもちろんあったけれど、それが「日本国」であるわけではなかった。1783年以前にアメリカ大陸はあっても、「アメリカ合衆国」がなかったのと同じことだ。
浄御原律令で使われた「日本国」が示す範囲と、今現在の日本国の領土は当然違う。当時の「日本国」は、今の規準で考えれば大和周辺の狭い地域だったに過ぎない。それが時代を経て徐々に拡張し、九州、関東、東北、沖縄、蝦夷も「日本国」となり、一時期は台湾やアジア大陸にまで及んだが、それらは戦後放棄することとなった。
大きさは変わっても、人口は増減しても、元首が変わっても(誰が元首かということには議論があるけれど、変わっていることは確かだ)、日本は成立以来日本の同一性を保っている。地理的な話ではない。概念としての日本国は変わらず存在し続けているということだ。
そう考えると、国家としての日本に責任というものがあるとしたら、それは構成する要素(国民や地理的要素)が変化しても、同一性が保たれている以上、消えはしないと言える。
しかし、国民一人一人に責任があると言われると違和感がある。それは、俺を殴ったのはお前の右腕だからお前の右腕を罰しろ、右腕の細胞に責任をとらせろ、と言うのと変わらない。現代では普通、責任は総体としての個人・人格に及び、身体の個別部位が独立することはない。
だが、国家の細胞である人間には意思がある。意思があるにもかかわらず、それが国家の意思と常に同期するわけではない。逆説めくが、健全な国家であるほど、個々の意思と国家の意思がずれる余地が大きくなる。端的にそれは言論の自由・思想信条の自由で、国家と個人の意思が一致しやすい国家が、いわゆる全体主義だ。
国が責任をとろうとする何かについて、自分はそれをとるべきではないと考える。それが悪いわけではない。だが、とるべきだと考える人間(細胞)もいる。それもまた同じ国(身体)に所属するものなのだ。その優劣は常にたゆたっている。たゆたっていながらも、決断しなければいけない時はある。その決断は、ある時間軸上の一点における一つの着地点だ。なされた決断は尊重し、あるものは賛美し、あるものは甘受しなければならない。それを踏まえた上で、次なる石は再びたゆたいだす。
各人は、自分の意思と一致した、あるいは一致しない国家の意思を認めた上で、国家の意思がこのまま自分の意思に沿うよう、あるいは自分の意思に近づくよう投企する。
肯定と否定。納得と反抗。同意と不同意。各個人がそれを同時に抱き、また各々違う形でそれを同時に抱く各個人を国家が抱く。国家はそうして国家たる。まさにこれは「動的平衡」の状態だ。


この話はレトリックに過ぎない。「動的平衡」の話を借りてきた例え話でしかない。だが、人を動かすのは「物語」だ。「物語」に語られる意味を飲み込んで、人は初めて人として動く。
「動的」「流れ」というのは非常に重要なことだ。レヴィ=ストロースは、親族構造になぜタブー(近親相姦)が存在しているのかという問いに、「そうすることで動き(交換)が生まれるからだ」と答えた。親族という人間社会のごく基本的な構成要素にさえ、いや、基本的だからこそ、その根本には「動的」がある。
お金もまた、流れ(交換)の中になければ意味のないものだ。お金は流通することで、ただの紙切れや卑金属でしかないそれに価値があるとされる。価値あるものとして流通することで、その流通に手を貸したものはそれに価値があると同意署名したことになる。それが積み重なることで、お金はお金として、交換価値を所有できる。


「生命」とは「動的平衡」である。だが、それはなにも「生命」に限った話ではない。「生命力」があるものは、須らく「動的平衡」の状態にあるものなのかもしれない。
なーんちゃって。




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