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漫画の話です。

「高杉さん家のおべんとう」に見る、服の描き方による絵の「性的」さの話

高杉さん家のおべんとう 2 (MFコミックス)

高杉さん家のおべんとう 2 (MFコミックス)

人生そろそろ崖っぷちな、三十路のオーバードクター(≒フリーター)温巳。そんな彼の許へ十年来行方知れずだった叔母の訃報とともにやってきたのは、シングルマザーだった彼女の一人娘・久留里だった。頭でっかちの学者(未満)の温巳と、人付き合いに積極的にならず我が道を行く久留里。どうにも社交性に乏しい二人のぎこちない生活を繋ぐのは、毎日のおべんとう作りだった……


という具合の「高杉さん家のおべんとう」ですが、まあ久留里がかわいいのですな。無愛想なとことか、料理好きなとことか、ずれてるとことか、現実にいたらどうか知りませんが、作品のキャラクターとして見る分には実にかわいい。
ですが、そんな彼女のかわいさは、なんといいますかまさに「かわいさ」であって、いわが非常に観念的なもの。そこに「性的」な感覚をあまり受けない。まあ中学生のキャラに「性的」とか言ってんじゃねえよとは思いますが、その「性的」をもうちょっと穏健な言葉で言えば、「肉体性」に薄いという感じです。……穏健かなぁ。


以前どこかで読んだ、「描き手が女性キャラクターを性的に捉えているか否かは、そのキャラクターの服の描き方を見ればわかる」という意見に私は与する者ですが、それをもっと自分本位の言葉にすれば、「自分がどのキャラクターを『性的』に見るかについては、そのキャラクターの服の描かれ方に共通点がある」という感じです。その線で言えば私は、久留里だけでなく「高杉さん家〜」の女性キャラクターをどれだけ「かわいく」思おうとも、「性的」に捉えてはいません。
さて、「服の描かれ方」なんて言葉だけではよくわかりませんので、もうちょっと言葉を詰めてみれば、例えば肩や曲げた腕や脚などのように重力によって服が身体の線に沿う箇所や、直立した状態からどこかしら身体を動かしたときにできる皺など、その下にあるはずの肉体が意識されることで変わる服の描線といった感じですわ。
前回の記事(剃毛する女性に興奮する友人の心的理路を考えてみる話 - ポンコツ山田.com)で書いたように、男性は、つーか私は、ついでに言えば私の友人は、普段のコミュニケーションの場においての女性を基本的には観念的に捉え、その場で感じる「性」はセックスというよりジェンダーであり、相手から感じる「かわいい」という感覚も、肉体に直結するものではなく観念的なものだといえます。しかし、ベッドシーンなどではもとより、普段の場でも女性から「性的」なものを感じることがありますが、そんな時には例えばブラチラであるとか、混んだエレベーター内での密着であるとか、普段は隠されている女性の肉体性、それも生殖・出産のための形質を獲得した女性の肉体性(ばっさり言っちゃえば、いわゆる女性らしい身体)を意識しているものなのです。
そんな観念と肉体のギャップの象徴が陰毛であり剃毛であるという友人の主張は措いといて、普段は服という名の観念によって覆い隠れている肉体性。これを実体のない絵(二次元)において表現するには、単にブラチラや裸、露わな肌を描けばいいというものではありません。ブラチラや裸は、普段は服の下に肉体が隠されていることがわかっているからこそありがたいものなのです。肉体性の伴わないブラチラは、マネキンのブラチラと変わりはありません。triumphに行くだけで興奮できるほど、私のレベルは高くないのですよ。
絵のブラチラに価値が生まれるには、服の下には慥かに肉体があると読み手に思い込ませなければなりません。そのためには、普段服を着ているとき、格別「性的」なシチュエーションにないときにこそ、肉体の実在性を信じ込ませなければならないのです。
そこで大事なのが服の描き方。肉体によって、重力に従い下方へひっぱられることを途中で止められた服。本来皺なく縒れなく縫い合わされたところを、その下で動き捻る肉体によって皺が生まれた服。ゼウキシスと絵のリアルさの勝負で、「絵を隠す幕」を描くことでその下に絵があると思い込ませ、結果的に幕の絵のリアルさを高めた*1パラシオスのように、絵の服の下に肉体があると思わせるためには、肉体の上を覆う服に現実の肉体を覆っているような質感を与えてやればいいのです。
まあそれを描き手が皆が皆望むものではないので、私(受け手)視点の言葉で言えば、現実の服のような質感(皺や服越しの身体のラインなど)を持つキャラクターは「性的」な捉え方をしやすい、といった感じですか。
「高杉さん家〜」のキャラクターの服は、みなゆったりしていたり、あるいはボディ・コンシャスな服でも皺に立体感がないので、その下にあるはずの肉体の想像が難しく、結果的にキャラクターから感じるのは「かわいさ」ばかりで「性的」なものは非常に薄い、ということなのです。
そんなことを言いながらも、二巻の表紙の久留里がちょっぴりエロティックに見えたりしたのですが、それはきっと襟元から僅かに覗く鎖骨の描線のため。鎖骨の大事さについてはこの記事(「とろ鉄」のキャラのかわいさと鎖骨の話 - ポンコツ山田.com)でも描きましたが、基本的になだらかなラインを描く女性の身体の中で、鎖骨ってかなり際立った凹凸を見せているんですよね。それも比較的目に付きやすい位置で。ですから、それがわずかに描かれているだけでもその肉体に実在性は大きく付加されるのかなと思います。
また、「とろ鉄」なんかはキャラクターのデフォルメが強いだけに、鎖骨の存在感が強いというのはあるんじゃないでしょうか。なまじ頭身が現実に近いと、かえって現実との違いが目立ちますが、いっそ現実からは大きく外れているほうが、想像による補完の余地が大きいのかなと。
伊集院光氏が、野球ゲームがリアルになればなるほど、ダブルプレーなどの複雑な動作をしたときに、現実の動きとの違いに眼が行くけれど、「実況パワプロ」くらいにまで簡略化されたキャラクターなら、粗など目立たず「すげー」と思える、と言っていましたが、それに近そうですね。
また「恐怖の谷」現象も同様でしょうか。


まあ、頭でっかちな主人公にすることで話の進め方(解決の仕方)を頭でっかちにしているようですが、それがちょっと度を越えている感じがあるとか、人物相関の幅の広げ方が陳腐だとか思うところはあるので、もうちょっとコンパクトに絞ったストーリー展開をしたほうがいいかなと思います。せっかく「おべんとう」というキーワードがあるんだから、色恋の方面はもうちょっと控えめでもいいんじゃないかと。でも、その点で節子の登場はいいなあと思いました。おべんとうに限らず、食事に幅が広がる。
うん、まあなんだ。久留里はかわいいよね。




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*1:つまりは、その「幕の絵」が、その下に本物の絵を隠す本物の幕であると思えるほどにリアルな絵だということになるのだから