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漫画の話です。

「妖精」の少女は「自然」の世界でしか生きられない 『少女素数』の話

わりと今更ながら「少女素数」を読みました。発売当初からなんとなく気になっていたのですが、そのままなんとなく近寄らなかったのは、ただのキャッキャウフフ的な漫画なのかなと思っていたから。
で、偶々立ち寄った本屋で試し読みができたんですが、それを読んで予想外。というか予想以上。ただのキャッキャウフフじゃなかったです。果てしなくキャッキャウフフの漫画でした。
果てしないキャッキャウフフとは妄想でしかありません。ですが、その妄想を妄想として自覚した上で更に煮詰めてできた、輝かんばかりの偶像としての少女。そんなものがこの作品には描かれています。

少女素数 (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

少女素数 (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

この作品の主人公は、ハーフで二卵性双生児の(美)少女・あんずとすみれ。中学に上がったばかりの二人はまだ恋も知らず、歳の離れた兄にべったり。そんな二人を周りの大人は「妖精」や「かわいい屋さん」などと表現しています。
「妖精」にしろ「かわいい屋さん」にしろ、そこにある眼差しは、彼女らを「かわいい」のかたまりとして見ています。
9話の最終ページに、谷川俊太郎さんの訳によるマザーグースが引用されています。

おんなのこって なんでできてる?What are little girls made of ?
おんなのこって なんでできてる?What are little girls made of ?
おさとうと スパイスとSugar and spice
すてきななにもかもAnd all that's nice
そんなものでできてるよThat's what little girls made of
マザー・グース・ベスト 第一集 訳;谷川俊太郎 草思社 p7)

少女は「おさとうと スパイスと すてきななにもかも」でできている。あらゆるすてきなものが少女を形成しているわけでで、それは裏返せば、少女を形成しているものはすべてすてきなものである、ということでもあります。
でもそれって言っちゃえば、完全に妄想じゃないですか。そんなわけはないです。少女であろうが人間である以上、どす黒い欲望も汚らしい妬み嫉みも持っているわけで、それを見ないふりをして、あるいはないと思い込むことで「すてきななにもかも」しかないものと看做す。それは見るものの身勝手な妄想です。
けれど、この作品の踏み込んだところは、それを妄想だと知った上でなお少女を「すてきななにもかも」でできたものであると描こうとしていることです。で、その根本にあるのは、2人の兄であるところの富士夫の視線なわけで。
第1話、船上ではしゃぐ2人を見ながら彼は、少女を評してこういいます。

こういったものにも通じるかな
別にすみれやあんずに限った話じゃなくてね おんなのコってなんていうか
妖精を宿してる時期みたいなものがあるんじゃないかな
(1巻 p16,17)

「こういったもの」とは、船と並んで泳いでいるイルカのことを指しています。自然の中で躍動するイルカと同じものを、彼は少女に見出していて、それを「妖精」と表現しているのです。「妖精」とはヒト型をとったある種の自然そのものと観念されますから、その意味するところは、彼女らは自然のまま生きている、といったところでしょう。
この時の「自然」は、「人工」と対比されるものです。人の手、外部の手が加わらず、自然内部だけのルールで完結しているもの、そういうものが「少女」であると。
無論のこと、少女らも実在の人間であり、仮に少女しか存在しないコミュニティがあるとしても、そこもまた他の人間の社会から地続きであるはずですから、そこで完結しているということはありえない。でも、そう見てしまう、感じてしまう。いえ、そう見たい・感じたい、というのが富士夫の本音でしょう。

あんずはあんずでもう少し大人になって欲しいンだけど
それも僕が2人に依存してしまってるからなのかもしれないな…
(1巻 p106)

2人が富士夫にベッタリであるのと同じく、富士夫もまた2人の「自然」を「自然」のままにしておきたいと思ってしまっているのです。まだ2人に外を知って欲しくない、人間を知って欲しくない。
端的に言えば、知って欲しくないそれとは「恥」の気持ちでしょう。楽園に住んでいたアダムとイヴが智恵の実を食べて最初にしたのは、股間をイチジクの葉で隠すことです。裸のままでいることが、自然のままでいることが恥ずかしくなった2人は、楽園から追われてしまいました。羞恥の心を持ったものは、人間の世界ではない楽園にはもう住まえないのです。
その点、あんずがパンツを見られるのは恥ずかしくても一緒にお風呂の入るのは平気、というのは示唆的です。その感覚の違いがわからない富士夫は、はっきりと2人と別世界のルールに身を置く人間なのです。


富士夫自身は外部の世界、「人工」(非「自然」)の世界に身を置く人間です。自分で自分をそう規定しています。ですが、彼は2人をそうではない世界にいるままであってほしいと望む。人間である以上、そんな世界は「いるまま」どころか最初から存在しないことはわかっていても、そうあってほしいと妄想する。言ってみれば、2人が「すてきなにもかも」でできたおんなのこだと見える世界は、彼の妄想のフィルター越しにある幻想の水準の世界なのです。
実際、2人と同じ次元に生きる有美やぱっクンは、彼女らをかわいいと思いながらも、嫉妬の対象にもするし生々しい恋心の対象にもする。富士夫の視点からすれば、それもまた「自然」の世界での出来事なのですが、当人たちにとっては外部などではない、幻想の水準ではない、現実に生きている世界なのです。
ですから、女の子を「おんなのこ」と見るのは、観測者の主観に完全に委ねられています。自分と異なる世界(「自然」の世界)に身を置いて、自分と完全に隔絶された存在であると思えば、その相手は歳を問わずに「おんなのこ」足りえます。富士夫が25歳の桐生をも「妖精」と思えるのは、そういうことでしょう。富士夫にとっては、桐生もまた自分とは違う世界にいる存在なのです。


富士夫自身、自分には少女を「妖精」として見たい、「人工」の世界に身を置く自分とは異なる存在であって欲しいと願う欲望があることを自覚しています。上で引用した台詞にも富士夫の葛藤が見て取れますし、双子が風呂に闖入してくることを止めながらも強くは拒否しないなど、彼女らを自分とは違う「妖精」として扱うか同じ「人間」として扱うかでたゆたっているのです。


妄想を妄想であると自覚して、それでもなお妄想のまま少女を見ることで生まれる、「すてきななにもかも」できた少女像。観測者である富士夫の存在によって、彼女らは偶像であれるのです(当人たちがそう望むのかどうかは別として)。
読み手はただ少女らの無邪気な行動を見るのではなく、富士夫のフィルター越しにそれを見るので、「すてきなにもかも」でできた彼女らを見ることになるのです。
なかなか興味深いキャッキャウフフであることですよ。




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