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『「悪」と戦う』を読んでのまとまらない雑感の話

「悪」と戦う

「悪」と戦う

読了。一時間くらいで一気に読んだ。薄い目の粗い網が白い心の中を漂っているような、不思議な読後感。
つまらなくはなかった。ただ、すげえ面白かったというわけでもない。なんか、漂ってる。
twitter上では、この本が発売される二週間ほど前から作者本人が、作品のメイキングについて呟いていました。
Togetter まとめ 高橋源一郎氏自身による、’’新著『悪と戦う』メイキング’’
そして、発売以降も作者本人のところへ感想postが飛んでいて、それをRTしているので、その一部を見ることができる。しかし、それらをざっと見たけれどどれも強く情動的で、僕にはいまいちピンとこない。*1
まあそれは当たり前だ。本の感想が赤の他人でがっちりかぶることなど、そうそうあることではない。けれど興味深いのは、この本を読んで強い情動的な感想を持った人たちと僕とで何が違うのか、ということだ。
勿論色々違う。共通点の方が少ないに違いない。でも、情動的なその人たちには何か共通するものがあるのか、底流しているものがあるのか。それが気になる。これらの読み手の何が作品と呼応して、強い、かつ曰く名状しがたい情動が生まれてきているのか。
逆に、僕の心の中に広がった薄ぼんやりした網のようなものはなんなのか。この薄ぼんやりさは強い情動を得た人たちとはまた別のものなのか。この網は、いったい僕の何に呼応して生まれたのか。よくわからない。
高橋源一郎のデビュー作「さようなら、ギャングたち」は丁度二ヶ月前に読んだだ。本作の帯で、氏はこう書いている。

29年前、デビュー作『さようなら、ギャングたち』で遣り残していたことが一つだけありました。ラストは、もっと別の形のものになるはずでした。でも、その頃のぼくには書けませんでした。
だから、『「悪」と戦う』のラストを書くために、29年前の忘れ物をとりに行かなければなりませんでした。
忘れ物は回収しました。あとは前を見るだけです。

「さようなら、ギャングたち」は図書館で借りて読んだので、現在手元にはなく、正直ラストはよく憶えていない。というか、内容はひどく一般的な意味でのわかりやすいストーリーはなく、難解といえば難解、イミフといえばイミフ、深いといえば深い、そんな感じだった。
でも、内容はよくわからなくても、文章(言葉)の力でひっぱって読まされたという印象がある。そしてその印象は、本作品でも同じくある。
中身に意味を無限に見出すこともできるし、無内容だと放り投げることもできる。あらゆる作品とはそういうものだと思うけど、氏の両作品に共通しているのは、その傾向が他に比べて強いにもかかわらず、とにかく読ませること。わかんないけど、意味がはっきりしないけど、読む。そんな感じになってた。
意味っぽいものを見出しやすい作品、言い換えれば、読み手各々で見出すものが異なっても、その分布が似通ってくる作品というのはある。どちらかといえば、そういう作品の方が読みやすいと思っていた。意味の傾向が似通うということは、体系的とか整合的とか、「物語」がそういうものになってるからだ。人は意味のあるもの、はっきりしているものの方が憶えやすいし理解しやすい。無意味なものをすらすら記憶できるほど、人間の脳は便利ではない。
上とは逆に、解釈がぶれやすい作品とは、それだけ体系や整合の隙間が大きく、文章(言葉)を追う時に必要な、文章の先に続いていく、文章の先へ読み手を導いていく紐のようなものが弱く、脆い。気を抜けばすぐ千切れてしまう。だから、読み進めるのに、時間も気力も必要となる。
けれど、「さようなら〜」にも「「悪」と戦う」にも、引っ張る力がある。隙間を繋ぐ紐がしっかりしている。なんだろう。作品世界が確固としているという印象はない。やはり隙間だらけだし空白だらけ、見えないところだらけな感じなのに。
それでも、言葉で作られた足場が、よくわからないながらもしっかりしているのはわかる。ランちゃんが乗ってたKUMOみたいに、それが何かは、なんでかはわからなくても、しっかりしているのはわかる。
この作品とは何か。作品を読んだ自分とは何か。作品を読んだ他の人とは何か。『「悪」と戦う』はそんなことを浮き彫りにしてくる作品だと思う。体系や整合の間にある多くの、大きな隙間は、どこからどのように読み手が出てくるかのバリエーションが増えるためのものなのかもしれない。隙間が多ければ多いほど、大きければ大きいほど、そこから人がどう表れてくるかにバリエーションがある。簡単に言ってしまえば、多義的な解釈可能性ということだけど。
さて、「隙間」は作中にも出てきた言葉だ。世界が崩壊する時に、人々が落ち込んでいく、特別苦しさを覚えるわけでもない場所。それが「隙間」。「隙間」に人やいろんなものが詰めこめられれば、いつしか「隙間」は破裂する。そうすると、全ては消滅する。
作中の言葉に拠れば、世界はよく似たものが無数にあるという。その全ての世界に「悪」はいるし、「隙間」もあるし、そして「悪」と戦うものがいる。この時「無数にある世界」を本の読み手と想定するのは、ピントのずれたことだろうか。
読み手は自分だけの一つの世界を抱えている。それは一人一人で似てはいても、同じものは決してない。世界の中には「悪」がいる。「悪」とは世界に生まれなかったものだ。存在しなかったものだ。拒まれたものだ。それが時として世界に牙を剥く。
こう規定される「悪」には、私はフーコーの言った系譜学を思い出した。曰く、過去を考えるのに大事なことは、あることがなぜ起こったのかではなく、あることがなぜ起こらなかったかだ、と。
「私」が今の「私」になるには、それまでに無数の転轍点があった。20年前に曲がった道/曲がらなかった道、10年前に食べた/食べなかったもの、5年前になされた/なされなかった愛の告白。あらゆるところに、選ばれたものと同時に、それ以上の選ばれなかったものが存在している。それはなぜ選ばれなかったのか。
選ばれなかったものは、現在には存在していない。それゆえ、そこには実体はない。だが、選ばれなかった可能性、選ばれていたかもしれない可能性は、永遠に生き続ける。今の自分を自明のものと看做すということは、それらの可能性をなかったことにするということだ。だが、今の自分は偶然の自分に過ぎない。偽りの自明性に安住する時、生まれることのなかった「悪」は、人間はそんなにしっかりしたものではない、と襲い掛かってくる。
「悪」と戦わなければ、世界は生まれなかったものに奪われてしまう。そのとき自分はなくなってしまう。「悪」は弱い。存在していないのだから、そこになんの実体的な力もない。そしてその弱さゆえに、戦うものは躊躇する。自分はこんなか弱いものを倒してまで生きるべき存在なのか、と。
けれど倒さなければ、世界は存在していないものに奪われる。世界はなくなる。世界を存続させるためには「悪」を倒し、壊れかかった世界を修復しなければならない。そこには、生まれなかったものを殺す勇気と、哀れむ優しさとが要求される。
ある世界の住人は、他の世界の住人に支えられている。誰かの世界が壊れれば、全ての世界が壊れてしまう。けれどそれは絶対に証明できない。なぜなら、一度誰かの世界が壊れれば全ての世界が崩壊し、最終的に証明者すらいなくなるから。
ランちゃんが旅した様々なミアちゃんのいる世界は、いまだ到来せざるものではある。しかしそれは、無数の転轍点次第で起こりうる未来だ。それでも現実に選ばれる未来は、その内のどれか一つ。未来は可塑性の只中にあるし、人間もまた同じく可塑性の只中にいる。
多元的な世界と、多元的な人間。多分に観念的ではあるけれど、人と人の繋がり、世界と世界の繋がりはこういうものなのかもしれない。
とかなんとか。


こうして書いてから考えてみれば、私の抱いた印象の「網」というのは、「隙間」と重なるところあるのかもしれない。ないかもしれないけど。
とにかく、なぜ自分がこう考えるのか、なぜ自分と他の人の捉え方が違うのか。そんな根源的な問いかけが思い浮かんでくる作品だったように思う。たぶん、またそのうち読む。
おわりんこ。




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*1:私は本作読了前にメイキングを真剣には読んでおらず、読了後に初めて全部目を通した。メイキングには、作者自身についてのかなりパッシブな内容が書かれていたので、それを作品と、また読み手自身と重ね合わせて、情動的な感想を送っている、というのは理解できる。わざわざ作者宛に感想を送るぐらいだから、それだけ心動かされたって事だし