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「HUNTER×HUNTER」「仲間は大事」という理念は現実とどう擦り合わされているのかという話

少年漫画的、どころか、広く社会的に肯定されているテーゼに「仲間は大事」というのがある。これは文句のつけようのないものだが、文句のつけようがないだけに、何の意味もない。「平和は大事」「命を大切に」「子どもを守ろう」などと同様に、理念としては高潔で筋が通っているのだが、ならばそれを現実に行うにはどうすればいいのか、という水準の話が何も含まれていないので、実際的には何も役に立たない言葉なのだ。言葉が現実に即せば即すほど異論が噴出するものだし、それを経て初めて実効的なものとなる。本来的に理念は空疎だ。そこに現実が伴って、初めて意味のあるものとなる。


で、話は「HUNTER×HUNTER」。この作品の中では繰り返し、「仲間は大事」という理念が現実の問題に対してどう擦り合わせられるのか、ということが描かれています。

HUNTER X HUNTER27 (ジャンプコミックス)

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「仲間」というといささかニュアンスがずれる事例もあるので、「身内は大事」というくらいに広く取っておきましょうか。
では、例を挙げていきましょう。
一番最初にその理念が確認できるキャラクターは、クラピカです。

4年前私の同胞を皆殺しにした盗賊グループ 幻影旅団を捕まえるためハンターを志望している
(中略)
死は全く怖くない 一番恐れるのはこの怒りがやがて風化してしまわないかということだ


(1巻 p52)

強い決意に基づいて、クラピカは行動していきます。仲間の仇を討つためなら自分の命は惜しくない。そう言い切る彼ですが、この決意と競合してしまう状況が起きてしまいます。ヨークシン編で旅団に囚われてしまったゴンとキルアです。こちらは団長を確保しているけれど、旅団にはゴンとキルアが捕らえられている。殺された同胞の仇の筆頭である団長を殺そうとすれば、新たに信頼できる仲間となったゴンとキルアも殺されてしまう。このアンビバレントな状況に直面し、クラピカは悩みました。

ここで団長リーダーの動きを封じたところで 奴らを崩すことはできない…!!
かといって…ならばどうする!? 他に何か手はあるか!? この緊縛に似た現状を解決する奇跡のような手が……!!
ない…っ 見つからない!!
そう… これでいいんだ 今 オレがすべきこと
2人を取り戻す……!! それが最優先!!
もう…… 仲間を失うのは
絶対にイヤだ!!


(13巻 p26,27)

煩悶の末クラピカは、現在の仲間のために、かつての仲間の仇を討つことを一時諦めました。現在の仲間とかつての仲間。「身内が大事」と言っても、それを掲げるだけでは解決できない状況が確かに存在します。理念と現実を擦り合わせ、秤にかけて、クラピカは現在の仲間を優先したのです。
後にキルアは、クラピカの行動をこう評しました。

本当に復讐する気なら オレ達助けずに 団長をるべきだったよな―― 相手をだましてでもさ


(13巻 p71)

現実にクラピカがこう動く選択肢はありえました。かつての仲間のために、今の仲間を見捨てる。それはスクワラに対する彼の態度がはっきりと示しています。

「スクワラという男ともう接触したか?」
「ええ」
「では こちらにセンリツという能力者がいる記憶ことは引き出したな」
「……ええ」


(12巻 p175)

ウボォーギンを殺した人間の一味であるスクワラが旅団と接触して生きていられるとは、クラピカも思ってはいなかったでしょう。パクノダに確認をした時点で、クラピカはスクワラの死を悟っていたはずです。にもかかわらず、クラピカには動揺はない。スクワラに旅団接近の情報を与え、逃走を促したクラピカは、彼を仲間だとは思っていましたが、ゴンやキルアのように「絶対に失いたくない」仲間では決してなかったのです。この線引きは、パクノダの言うとおり「理知的で頭の回転が早く 秘密主義の上に基本は…冷徹」なクラピカだからこそでしょう。
このように「身内は大事」は、現実と競合し、その状況に応じた形をとるのです。


で、そのクラピカの仲間の仇である幻影旅団。彼らは確かに一般的な倫理観からは隔絶していますが、彼らなりの倫理観は存在していて、そこにもまた「身内は大事」の一つの形があります。
殺されたウボォーギンのためにオークション会場で大暴れをし、団長を、ひいては旅団を助けるためにパクノダは自らの命を犠牲にしました。見ず知らずの人間を殺すことになんの躊躇いもない幻影旅団ですが、身内のためには我が身を投げ出せるのです。
幻影旅団の倫理観の特異点は二つあります。一つは、彼らの発生点である流星街の倫理観。

仲間1人が3年間不当に拘束された その報復のために31人が平気で命を投げ出し31人の命を奪う
中でどんな教育をしているのか知らないけど いざとなったらやつらは足し算も引き算もしない 奴等の紲は他人より細く家族より強い


(11巻 p175)

マフィアにさえ「相手が悪い」と言わせるほどの、埒外の倫理観。これはしっかりと旅団に受け継がれています。
死んだ仲間のために大暴れをする情があるかと思えば、ザザンと戦うフェイタンが死んだら次は誰が相手になるか、という話も平然とする。「フェイタンが死にはしない」という信頼の表れかもしれませんが、そこには「他人より細い」紲の影も確かにあるのです。
そしてもう一つの特異点は、旅団そのものへの極めて強い愛着。それは旅団を立ち上げた団長への敬慕と同質のものなのですが、既に旅団の存在は、団長個人とはまた別次元の、大切にすべきものとなっています。

オレの命令は最優先 だが オレを最優先に生かすことはない
オレも旅団クモの一部 生かすべきは個人ではなく旅団クモ
それを忘れるな


(12巻 p160)

ルールは絶対
ルールの否定は旅団クモの否定 それは団長をも否定する
それだけはしたくないから


(12巻 p181)

最悪なのは オレ達全員がやられて旅団クモが死ぬことだ
それに比べりゃお前が言ったケースなんて屁みてぇなもんだ 違うか?
理由はどうあれ オメーらどっちも団長に依り過ぎだぞ その結果 致命的に旅団オレ達が崩壊してみろ? それが団長に対する一番の裏切りだろうが
(中略)
ガキとパクノダを行かせて もしも団長が戻ってこなかったら
そん時は操作されてるヤツ全員ぶっ殺して旅団クモ再生だ 簡単なことだろうが?


(13巻 p42,43)

団長、シズク、フランクリンの言葉ですが、旅団クモそのものに対する愛着は、遺伝子を種のヴィークルと言ったR・ドーキンスのように、構成員である自分たちの個性を捨象して考えることができるほどのものなのです。それをもっとも端的に表すのは、シャルナークのこの言葉でしょう。

オレやノブナガの能力はいくらでもかわりがきくけど シズクとパクノダはレアなんだ 旅団としては失うわけには行かない


(12巻 p13)

まさに「生かすべきは個人ではなく旅団クモ」なのです。


また、同様に他者の殺害を歯牙にもかけない人間として暗殺一家ゾルディック家がいますが、彼らの「身内が大事」の倫理観もまた特徴的です。彼らの倫理観の階梯には、「身内(彼らの場合は家族)は大事」の上位に「仕事は大事」があるのです。

「シルバ サポートせい ワシが奴の動きを止めたら ワシもろともで構わん れ」
「了解」


(11巻 p101)

仕事のためには自分の命を当たり前のように投げ出し、また身内の命を当たり前のように奪おうとする。しかも彼らはこの時、今まさに殺そうとしている団長から依頼された十老頭の暗殺も同時に遂行しているのです。それぞれの依頼者がそれぞれの暗殺を依頼しているという状況。彼らは先に依頼された方を優先するのではなく、先に達成された依頼が結果的に優先されたことになる、という非常に不合理な職業意識を持っているのですが、その不合理さこそ彼らの職業暗殺者としてのプライドなのです。もし団長側の依頼を優先させていれば、命を賭けて団長自身と戦う必要などなく、それより遥かに難易度の低い十老頭の暗殺をするだけでよかったのですが、それを良しとせず、自分たちの職業意識に賭けて団長と対峙したのです。
そんな彼らも仕事を離れれば、子どもを思い、兄弟を思い、親を思う「身内は大事」の理念が顔を見せます(その「大事」の仕方が歪だとしても)。この二元性と二面性が、ゾルディック家の倫理観の特徴です。こと「仕事」が絡んだ場合、「身内が大事」と現実が競合することは(今のところ)ないのです。


その他、「身内は大事」が端的に表れていたのは、ボマー達です。彼らもまた罪悪感なくプレイヤーを殺していきますが、瀕死の仲間のためには、自らが敗れた相手に「『大天使の息吹き』を使ってくれ」と懇願します。かつて自分たちは、重体のジスパーのためにカードを使わせてくれという哀訴を言下に跳ね除けたにもかかわらず、です。


キメラアント編では、イカルゴが印象的でした。当初アリ側に属していた彼は、キルアと戦い敗れ、「仲間を売れば助けてやる」との取引に否を突きつけて死を覚悟しました。結果、その態度に心動かされたキルアに命を救われ、人間サイドへとうつりました。アリも確かに仲間だったのですが、自分を「カッコイイ」と言ってくれたキルアを見殺しにすることが出来ず、「仲間」を裏切ったのです。イカルゴも「身内は大事」の理念を持ってはいますが、誰が身内なのか、自分は誰を身内と看做すべきなのか、の基準について、イカルゴ自身がどう思っているか、という点が強く前景化しています。外的、客観的な基準ではなく、内的な基準なのです。
それは、イカルゴがブロヴーダと対峙した時にも表れています。策略によってブロヴーダの意識を奪い、彼の生殺与奪の権を握ったイカルゴですが、いざ殺そうとしたところで、現実に自ら手を下す恐怖に耐え切れず、殺すことなくその場から逃げ出してしまいました。仲間のためならブロヴーダを殺すべきだ。でも、自分にはそれができない。仲間のためでも、自ら殺しに手を染めることはできない。イカルゴはそんな自分を「卑怯者」と罵りました。「身内は大事」でも、できないことがある。その理念よりも、現実に自分が抱いてしまった恐怖の方が強かった。
イカルゴの場合は、このようにして理念と現実の競合が形になったのです。




その他、細かいところでも理念と現実の競合は起こっているでしょうが、私の目に留まったものをざっと抽出しました。
耳ざわりのいい理念を押し出すのは簡単です。ですが、それを現実に適用した場合には、大なり小なり必ず角逐が起こります。「HUNTER×HUNTER」が見るものの心に何かを強く訴えるのは、その角逐を怯まずに描いているからというのも理由の一つでしょう。
記事が長くなってしまったので、主人公であるゴンとその裏側の如き存在であるキルアの倫理観については、また稿を改めて書きたいと思います。






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