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漫画やアニメ、小説などについて、思ったことを恬淡と。

悪いことをして作られた作品の評価ってどうすりゃいいのだろうという話

五木寛之の短編に「海を見ていたジョニー」というものがあります。

海を見ていたジョニー (講談社文庫)

海を見ていたジョニー (講談社文庫)

姉弟で酒場を経営しているラッパ吹きの少年と、ピアノ弾きの黒人ジョニーのお話。テーマを抽出すれば、「素晴らしい音楽(ここではジャズ)は心の綺麗な人間にしか演奏できないものなのか」という感じのものです。ピアノの名手だったジョニーでしたが、ベトナム戦争に徴兵され現地で幾人も人を殺してしまったために、自分の手は、心はもうすっかり汚れてしまった、だから自分のピアノもひどいものになってしまっているはずだ、と思い込んだのですが、戦争から帰ってきた彼の演奏を聴いた少年や馴染みの人間達はみな、彼のピアノは変わらず素晴らしいと褒め称えます。しかし、彼にとってジャズは心の拠り所で、ひどく神聖なもの、人間の穢れなど許してはくれないものと信じていたので、人を殺す前と殺した後の自分の演奏に変化がないという事実にむしろ絶望してしまうのです。自分の信じていたジャズはそんなものだったのか、と。
短編集の中の1話、50pほどの短い作品なので、機会があったら読んでみてほしいのですが、さて「素晴らしい音楽は心の綺麗な人間にしか演奏できないのか」というテーマ。これをもうちょっと敷衍して「素晴らしい作品は素晴らしい人間にしか生み出せないのか」、もう一捻り加えて「素晴らしい作品とその作り手に関係性はあるのか」ということを考えてみたいと思います。特に、禁止薬物の使用と作品と社会の関係性についての話が中心になります。


「素晴らしい作品とその作り手に関係性はあるのか」。作品というとちょっと狭い感じもあるので、「パフォーマンス」というと広くていいですかね。小説や漫画、映画などのいわゆる作品以外に、スポーツ選手のプレーや、俳優の演技、芸人の芸なども含まれます。で、ここで考える「素晴らしい」というのも基本的には主観性の強いものです。最初の「〜ジョニー」の話だとかなり普遍的な印象がしますが、それよりもっと個人的なところに根ざしています。
ともあれまず一例。ある音楽家の作った曲がとても素晴らしいものでした。Aさんはその曲を聴いて、「生きてて良かった」とさえ思いました。ですが、その音楽家は業界内では有名な女誑し。泣かされた女は数知れず、各種裁判でも敗訴続きで、いくら作曲でお金を稼いでもどんどん出て行ってしまうような人でした。さて、Aさんはこの事実を知った時にどう思うでしょうか。
ショックを受けて、曲を聴いた時の感動が色褪せてしまうかもしれませんし、「曲と作った人は別物」と、それはそれということでスルーできるかもしれません。
これについては私は、どちらもありうる話で、いい悪いってことではないと思います。曲と作り手は別物だと思いますが、感動と言うごく個人的なことが、純粋に作品以外の部分で薄まってしまうのもしょうがないと思うのです。作品の評価や意義などの、なるべく客観性を有していなければいけない分野での話ならともかく、個人的な好悪の分野では、何に影響されてその判断が変化してもそりゃあ当人の勝手じゃないかな、と。端的に言ってしまえば「面白い作品とは思うけど好きじゃない」みたいな感じですかね。
では別の例。ある音楽家の作った曲がとても素晴らしいものでした。Aさんはその曲を聴いて、「生きてて良かった」とさえ思いました。ですがその曲は、音楽家がご禁制のクスリを使用しながら作ったものでした。後に逮捕された音楽家の話によると、「クスリを使うと閃きが得られた。違法であることは承知していた。でも、やめられなかった」とのことでした。
さて、この例が最初の例と違うのは、ご禁制のクスリがはっきりと法に触れているということです。つまり、音楽家は法という最低限のルールを犯してしまったということ。
法を自覚的に犯している時点で音楽家自身には大人しく刑に服してもらうしかないんですが、では音楽家によって作られた曲の扱いはどうなるのでしょう。ルールを犯して生み出された作品は、評価には値しないのか。作り手の罪を作品自体も被るのでしょうか。
似たようなケースではスポーツでのドーピング問題がありますが、こちらは音楽家の例に比べて明確だと私は思います。スポーツにおける勝敗や成績はゼロサムゲーム的なもので、勝者がいれば同時に敗者がいて、レギュラーがいれば同時に非レギュラーもいて、一人の打率やシュート率が上がればそれと争っているものは相対的に下がってしまいます。パフォーマンスによる感動ということならともかく、数的な分野、限りあるパイを奪い合う分野においては、ドーピングなど、最低限のルールを犯した選手による行為が存在すると勝負のための基盤そのものが揺るがされてしまうのです。それゆえ、ドーピングは厳格に禁止され、それを犯した選手の記録剥奪も辞さないのです。
直接ルールを犯したわけではないですが、世界陸上のセメンヤ選手の性別疑惑なんかも記憶に新しいところです。あれも、体格(体質)の差が大きく出やすい男性と女性を同列に競わせたのでは勝負の公平さが損なわれる、というものです。*1
音楽に限らず小説や漫画、演技などに比べて、スポーツのドーピングのアウト感が明確であるように思えるのは、スポーツのゼロサム性がはっきりしているからでしょう。勝率や打率、シュート率など、選手のステータスには常に数字的なものがつきまとっています。


ですが、考えてみれば小説や音楽、演技などの分野にだって、当然ゼロサム的な側面があるのです。例えば漫画。現在商業的に流通している漫画は、ほとんどが一旦雑誌に掲載されています。雑誌の掲載枠には制限がありますから、ある漫画家が掲載されることになれば、雑誌から外れる漫画家も出てきます。アンケートから打ち切りが直結しているといわれる少年ジャンプなんかはそれが特に顕著です。
その意味で、ルール(法)から外れることで限られたパイを奪うような真似は、非難されても当然です。もし仮に、ご禁制のクスリを使うことで素晴らしい作品を作れ天啓が得られると言うのであれば、それに手を出す人間も当然いるでしょうし(というか、いますし)、そこに規制をかけなければ社会は極めてよろしくない状況に陥るでしょう。
逆に考えれば、(クスリを使えば素晴らしい作品を作れるという前提が成立するとすればですが)社会はその維持のために、作品の精度に歯止めをかけていると言うこともできなくはありません。
それでも私がこれらの分野にスポーツほどの明確さを感じなかったのは、これらの分野にともなう感情・感覚・感動の分野に対する信憑(信仰)が大きいから、と言えるでしょう。これは多分に個人的なものだと思います。漫画や小説よりもスポーツ観戦の方が好きって人が私と逆の考え方をしても、なんら不思議ではありません。


ところで、伊集院光が去年の夏ごろ(丁度、例の二人のあの時期です)のラジオで「例えばお笑いで、ご禁制のクスリを使ってまで面白いネタ考えてお客さんを笑わせたいって言うんなら、客席に笑気ガス充満させたり、誰か雇って後ろからくすぐっても同じじゃん。クスリを使うのと、ルールを破ってるって意味じゃ同じなんだから」ということを言ってました。
私はこの話にいまいち賛同できなかったのですが、それがなぜかと考えたら、それは氏の話した理屈が送り手側のもので、私が備えていた理屈が受け手側のものだったからだと思うのです。
氏は、同じお笑い畑にいる人間(まあこの時は具体的にクスリを使っていた芸人がいたわけではないですが)として、最低限のルールを作ってそれを守らないことには、歯止めが効かなくなってもうグダグダになってしまうということを言いたかったのだと思います。それが、私の思った送り手の理屈。
けど私は、このお笑いの例に即して言うなら、芸人の舞台やテレビを見たりするときに何を期待するかといえば、彼/彼女らの(広い意味で)面白い姿を見てみたい、笑ってみたいというものであって、ただ笑えればいいというハードルの低さはそもそも持ち合わせていませんでした。言い方を変えれば、その芸人がどんなヤツだろうと、それこそ人間性が腐っていようと前科持ちであろうと、そのときにそいつ・・・が面白ければそれでいい、と思うのです。ですから、笑気ガスやくすぐりなんてのが論外ではあっても、クスリをやって面白いネタが出来てそいつらが面白いなら、それはそれでいい、と思ってしまうのです。これが、私にとっての受け手の理屈。
けれどこの両者は、社会から切り離して考えている非常に閉鎖的な論理なのですね。
とにかくその作品が面白ければよいという受け手の論理と、とにかく面白い作品が作れればよい作り手の論理。ですが、その論理は社会との関係性を完全に無視したときしか成立せず、両者の論理を包含する社会(維持のため)の論理において、両者の論理には制約が加えられてしまうのです。作品を作るにしても味わうにしても、それが存在している社会の存立基盤を崩壊させかねないようなものは許されない、と。特にこの場合、表現(内容)の自由の制限ではなく、表現のための行為の制限です。他人の家に火をつけて「これがオレの芸術じゃ!」と強弁しても社会(法)は許してくれないように、「芸術のためなんや!」と喚いてクスリを使ってはお縄を頂戴せざるをえせん。
大麻が合法な国もあれば違法な国もあるように、社会の論理というのも恣意的なものには違いないのですが、その論理が常識として、社会の空気として浸透している以上は、それに従うべきかと思います。常識や空気なんてのはなんとなく変わっていくものですが(唐突に変わったように見えることがあるかもしれませんが、そのときには既に変わる下地ができていたと思うのです)、まだ変わっていない空気の中で現行の社会論理から外れたことを叫んでも、相手にしてくれる人は少ないでしょう。


作り手の論理と受け手の論理、それを包含する社会の論理という考え方は、自分で書いていて、特に伊集院光の話について腑に落ちたのですが、それでもまだ残っている問題はあります。すなわち、「罪を犯して作られた作品に罪はあるのか。評価はどうなるのか」ということです。
仮に、殺人犯による本というものが上梓され、それが面白かった場合、おそらく私はその本を評価するでしょう。その本を書くために殺人をしたというのでもない限り、作品と殺人行為に直接的な関係はないからです(明に暗に、内容に影響が出ることはあるでしょうが)。
ですが、それが本のための殺人とうものであったなら。そしてその本が面白かったら。著者に罪はあります。では作品には? 個人の好き嫌いを越えた評価はどうするべき?
別のもので考えてみましょう。ある狂った母親が、受験生の息子のために少しでもライバルを減らそうと、他の受験生に種種のいやがらせをしました。それで母親が捕まったとき、息子に罪はあるでしょうか。息子が頼んだのでない限り、少なくとも法的には息子が罪に問われることはないでしょうが、世間は息子にもアレな目を向けることが予想されます。じゃあ、受験した学校はどうするでしょう。息子のテストの成績は合格点を遥かに越えていますが、それでも彼を合格させるでしょうか。


人とモノを並立させるのはフェアな例と言えないかもしれません。でも、やっぱり難しい問題ではあると思うのです。
答えが出ないなりに、その答えの出なさ加減の理由を考えてみれば、上で作り手/受け手の論理を社会の論理が包含していると書いたように、複数の論理の階梯が入り混じっているからなのだと思います。受け手の論理と、社会の論理と、さらには被害者/加害者の論理なんてのも入るし。殺人レベルまで話が行けば、それを許容するのか、という世間(の目)の論理まで入ってきます。それらを整理しきることができないので、どうにも自分の中で混沌とするのです。それぞれの論理に基づいた評価をいちいち出す、少なくとも勘案する必要があるのかもしれません。
ただ、これはあくまで私の・・考える種種の論理ですから、これを読んだ人にはまたその人なりの種種の階梯の論理があるでしょう。けれど大事なのは、種種の論理が並存している、ということだと思うのです。全てを包含する一つの論理しかないというのでは、他人との意見の擦り合わせをしなくてはいけない時など、とても大変でしょうから。とはいえ、真実一つしか持っていない人も早々滅多にいないと思うので、自分が持っている論理がどこまで細かく腑分けできるのか考える、ってことなんですかね。


ここまで書いて思ったのは、自分がある作品を評価するときに、そこの評価基準はいったいどこの論理に属しているのか、言い換えれば評価する自分はどこの論理に属しているのか、ということに意識を馳せるのはそれなりに大事なことなのかなあ、と。
ある作品に肯定的な評価を下すのでも否定的な評価を下すのでも、主観的な好悪を越えた客観性を有する評価をしたいのなら、自分はいったいどんな論理に従っているのかということを考えて、自分自身の自明性・絶対性を疑ってみたほうがよさそうだな。なんて思ったりして。


あんままとまりもないですが、こんな感じでお開きです。ばーいせんきゅー。




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*1:まあドーピングにしても、どのレベルの薬物からアウトで、サプリメントの摂取とどこから線を引かれるのか、という話や、性別で競技を区分するけど体格では区分しないのはなぜなのか、性別による区分は恣意的ではないのか、という話もあるので、勝負の基盤の「厳格」さがそもそも恣意的ではあるのですが、とりあえず現行の規制に則っています