ポンコツ山田.com

漫画やアニメ、小説などについて、思ったことを恬淡と。

漫画と小説の違い その1 〜有人格的な絵と、無個性な文字

お初の方は、まず序論のこちらをどうぞ。
漫画と小説の違い その0 〜なぜ漫画と小説なのか - ポンコツ山田.com


漫画と小説の違いは何でしょうか。まあいろいろあるでしょうが、それの最大のものは、「物語」伝達の媒体の主たるものが絵か文字か、ということでまず間違いないでしょう。当たり前すぎて明言するのが恥ずかしいくらいです。文字のない漫画はあっても絵のない漫画は存在せず、同様に、絵のない小説はあっても文字のない小説はありません。漫画における台詞や擬音、小説における挿絵など、それぞれの従たるものとして文字や絵がありますが、それらはあくまで従たるもの。主たるものがない限りは存在できないのです。
ならば、漫画と小説の違いを考えるのは絵と文字の違いを考えるのと同じです。ということで、今回は情報伝達媒体としての絵と文字の質的な差異について。


漫画における絵は、作り手に固有のものです。二人の漫画家が、同じストーリー、同じ台詞、同じコマ割、同じ構図、要は絵柄以外全て同じにして作品を作ったとしても、出来上がった二つの作品から受ける印象は大きく異なるものになるでしょう。身も蓋もない例を挙げれば、もしガモウ先生が「デスノート」の作画をしていたらあそこまでヒットしたかどうか、ということです。漫画を構成する主の要素である絵は、この表象の次元において、代替の利かないものとなります。


さて、翻って小説はどうか。現代、というか活版印刷が一般化した以降の小説の文字は、写植文字(活字)によって書かれます。どの小説家による作品であろうとも、同じレーベルであれば写植文字に殆ど変化はありません。レーベルを越えたところで、そもそも写植であるという限界から逃れることはまずないでしょう。小説を構成する主の要素である文字は、表象の次元において極めて無個性なものとなるのです。
もちろん、作品によってはフォントを変えるなどして文字のニュアンスを変えたりもしています。太字であるとか、古印体*1であるとかが割りと見かけるところでしょうか。ですが、それらもいったんフォントとして字体が確立している時点で、作り手に固有のものとはなりません。出来合いのものを作り手が選んでいるだけです。


文字が優れている点は、それはいかなる文字(記号)であるのか認識できれば、それが有する情報に一切劣化が起きないことです。利き手とは逆の手で書こうが、祐筆が真剣に書こうが、文字に内在している情報に優劣はありません。
ですが、文字に内在しているのではなく、文字が纏っている情報には優劣が生じます。例えば結婚式の招待状などの文字が金釘流であれば、「差出人が自分を招待しようとしている」という情報は伝わっても、同時に「礼を平気で失している」という情報も伝わってしまうでしょう。常識的には、ヘタクソな文字よりも丁寧で読みやすい文字である方が、文字そのものの情報からは離れた水準で、優れていると言えるのです。
これを裏返せば、作品としての小説で使われている文字を一律のものにすることで、「物語」の水準とは異なる情報を極力抑えることができるということです。綺麗だから読みやすい。汚いから読みづらい。漫画において非常に重要なこの印象(しばしば、受け手が本を手に取るかどうかという最初期段階にさえ強く影響を及ぼす)を、小説では存在させずにいられるのです。
写植文字が使われるのは根本的には印刷上の理由でしょうが、文字の巧拙が纏っている外部的な情報(ニュアンス)を排除し、純粋に文字の情報により作品を味わうことにも一役買っているのです。例えて言うなら、技術勝負のコンテストの判定に技術の結果だけでなく、出場者の容姿まで評価対象にならないようにしている、てとこですかね。
橋本治氏の話でこんなものがあります。

私は『桃尻娘』を書いている時、主人公の喜怒哀楽が原稿の上に見えていなくちゃいやだと思って、語り手である主人公が悲しい時は悲しいように、はしゃいでいる時は大歓喜であるように――そのつもりで、原稿を書いていた。「描写していた」ではなく、「悲しい気持ちを綴る時の原稿の字体は、いかにも悲しく見えるように・・・・・・書く」ということである。(中略)少なくとも自分では、「この原稿の上には喜怒哀楽が感じられる」というようなものにしていた――つもりだった。
(中略)
活字で組まれた校正刷を見て、私はびっくりする。「余分なもの」がなんにもないからである。
活字による文字の列は均一である。その書体に喜怒哀楽なんかがあるはずがない。なんだかツルンとした文字の列を見て、「あれだけ苦労したのに……」と私は一人ぼやいたのである。

橋本治という行き方/橋本治/朝日新聞社 p48,9)

写植文字の無個性さ、無人格性は、書き手と書かれたものとの間に精神的な乖離を呼び起こすものでもあり、橋本氏(少なくとも初期の橋本氏)は、自分の感情を込めて書く文章(字体)について、「文章を書いているんだか、文章で絵を描いているんだか分からないが」や「他人が見たら、ただ『へったくそな字だな』でしかないものかもしれない」と自虐や自嘲を言いながらも、否定的なニュアンスで捉えていますが、私は、読み手がなるべくフラットに作品を鑑賞するためにはこれは有用な効果だと思います。
この差は、橋本氏は「(文章を)書く」という行為がまず書き手本人にとって意義のある行為であるべき、という前提に立っていて、それに対して私は、文章(作品)は他人に読んでもらうものである、ということを前提としている、という違いに因るのかなと思います。
なんにしろ、写植文字は、書き手の文字の固有性をなくし、外部的な意味を剥ぎ取られた文字なのです。


この、表象の次元における代替性の有無が、絵と文字、ひいては漫画と小説の大きな違いの一つでしょう。
これを受け手の側から考えれば、漫画は評価の次元が複数存在すると言えます。つまり、やろうと思えば他の人間も同じものを描けるストーリーやコマ割、台詞などの次元(仮に、「お話」の次元と呼びます)と、余人に代えの利かない絵の次元です。
これが難しいのは、次元が異なるくせに両者は非常に分かちがたい点です。先述したように、絵の巧拙や方向性で、「お話」は同じでも受け手の印象は大きく変わります。「この作品、絵は好きだけど、ストーリーはちょっと」ということもありますし、その逆も同様です。両方好きか両方嫌いであれば話は早いのですが、二つの次元で評価が分かれると、「トータルでどうよ?」と訊かれたときに非常に困る。胸を張って評価をするのがとても難しいと思うのです。
写植文字で書かれる小説の場合、表象の次元(=絵の次元)の評価基準が存在しないので、代わりに「お話」の次元の評価がより細かくなります。言い回しや文体、比喩の使い方、オノマトペの使い方、文章のテンポ、句読点の打ち方、そして言わずもがなのストーリーなど、漫画にもあるけれど絵の方が評価基準として目立つためにそこまで気にならないものが、小説の場合では重視されるのです。ですが、評価するものが増えても、それが属している水準は同じなので、「台詞回しは好きだけど、文章のテンポがちょっと。ストーリーも甘いかな。でもトータルでは好き」というように、総合的な評価が漫画より下しやすいと思うのです。




ということで、絵と文字の質的差異についての第一回でした。キーワードは「表象の次元における代替性の有無」。
次回は質的差異の第二回ということで、絵のインパクトと文字の論理性、ということに触れるかもわかりません。予定は未定!






お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

*1:ホラーで使われるような、おどろおどろしいアレ