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パラパラ漫画とアニメの違い 〜時間の連続性を与えられた絵の話

ハックス!」1巻の第4話で、パラパラ漫画とアニメの違いについて描かれていました。

ハックス!(1) (アフタヌーンKC)

ハックス!(1) (アフタヌーンKC)

ええと…… まずこっちが さっきスキャンした阿佐美さんのノート
1枚1枚がパラパラ漫画の一つの絵で
全部で73枚あるのわかる? 番号になってるけど


今見てるのはただの画像ビューアだから
この73枚をすごく早く・・・・・1枚1枚全部順番に開いてるだけなんだ
まあ まるっきりパラパラ漫画だよね


で…… この一個が今作ったファイル
「…………
 …………
 ? 同じですね」
うん でも見て
こっちが元の画像 全部で73枚だけど……
今作ったこっちは1個のファイル
その中に阿佐美さんの描いた73枚の絵がつまってて流れてるんだよ


さっきのは73枚のただの絵
――で こっちは映像・・なんだよ
映像
阿佐美さんの描いたバラバラの絵が 動きと時間のあるひとつの長さになった
パラパラ漫画がひとつの映画ムービーになったんだ

(1巻 p118〜120)

相槌などは略して、基本的には説明している児島少年の台詞だけ抜き出しました。ひとつだけあるカギカッコは、主人公・阿佐美みよしのものです。冒頭部で画像ビューアを見て、その箇所でファイル化された映像を見ています。
実際に(作中での実際、ですが)「動くもの」として流された「73枚の画像」と「1個のファイル」は、見る分には同じものなのですが、形式としては「絵」から「映像」、「パラパラ漫画」から「一つの映画」になったというのです。
正直、私にはこの説明がよくわかりませんでした。目で見て同じものなのに別物とはこれいかにと頭を抱えていたものですが、前回の記事を書いている最中にふとピンときたので、ちょっと整理してみようかと。


もともと引用部にも書いてあるように、「パラパラ漫画」と「ひとつの映画」の違いは、「動きと時間のあるひとつの長さ」があるか否かなんです。でも、ここで私が思ったのは「パラパラ漫画にだって動きはあるし、動いているからには時間も流れているんじゃないのか」ってことです。やはり引用部に書いてあるように、「パラパラ漫画」も「映画」も目で見えるものは同じなのだから、動きも時間も同じなんじゃないの?と。
でもここで大事なのは、「ひとつの長さ」の方だったんですね。
「ひとつの長さ」には「(まとめられた)ひとつの長さ」という言葉が隠れています。まとめられたってことは、全体がひとつのセットになったってことです。それぞれの要素(最小単位)が有機的な関係性で結び付けられ、集合全体が単位そのものになったってことです。
比喩的に言えば、「とりあえず」順番に並べられていた73枚のそれぞれの絵が、その順にしたがって一枚一枚ロープで結び付けられて、関係性の列の中で整頓されたようなものでしょうか。ロープでつながれた各絵はそれ以上分断されることを拒み、絵の集合全体でひとつのまとまりとなる、つまり絵の集合全体が最小単位となるのです。
これを術語化すれば、「73枚の絵」が時間的な連続性で結び付けられて「ひとつの映像」となった、と言えます。連続性がキモです。
これはつまり、「映像」は連続する(流れる)時間の中になければ「映像」にはなりえないってことです。「映像」だってもとを糺せば「絵」の集合ではあるのですが、「映像」として成立している最中に、「映像」はその元の要素である「絵」には還元できません。「映像」を「絵」に還元する(「絵」を最小単位とする)ということは、「映像」から時間的な連続性を剥ぎ取ることで、早い話、「映像」を一時停止して見ようとしても、もうそこに映っているものは「映像」ではなく「絵」なのです。先ほどの比喩を援用すれば、結んであったロープ(つまり、このロープが「時間の連続性」です)を断ち切って、バラにしてしまっているのです。
パラパラ漫画は各絵に時間的な連続性がなく、それが動いていても停まっても、いつでもパラパラ漫画です。枚数をいくら増やしても、めくるスピードをいくら早くしても、そこに時間的な連続性が導入されない限り「映像」にはなりえません。作品の巧拙とは別次元の話なのです。


ふと思いついたのですが、この話について、ゼノンの飛ぶ矢のパラドックスが思考の補助線になるかもしれません。
ゼノンは、飛んでいる矢の瞬間を切り取ればその瞬間の矢は停止しているのだから、その瞬間をいくら積み重ねていっても矢は動くことはできない。ゆえに飛んでいる矢は静止しているというロジックを打ち立てました。
これは、無限遠点の先にある瞬間という観念的なものを無理矢理現実に当てはめることで、時間の連続性を無視した、水準の違う論理による詐術みたいなものですが、「パラパラ漫画」は「静止している矢」であり、「映像」は「飛ぶ矢」であると考えることができます。
「静止している矢」は時間的な連続性を剥ぎ取られ、各々の瞬間(それぞれの絵)が別個に存在し、それをいくら積み重ねても運動が起きない(「映像」にはならない)のですが、「飛ぶ矢」は時間的な連続性が認められているので、運動するものとして存在することができる。まさに「アニメ」の語源である"animate"なのですが、時間の連続性の中に存在することで、「パラパラ漫画」は「映像」として“魂を吹き込まれる”のです。


まあ時間の連続性は概念的なものなので、それこそ結び付けたロープのように実体的にこれと指すことはできないのですが、バラバラな絵の集合を形式/システム/認識の上でひとつのセットとすることが、時間の連続性を与えるということであると言えるのでしょう。
ハックス!」では、児島少年はパソコンの中にデータとしてある「73枚の絵の集合」を「ひとつのファイル」に変換することで、形式的にもシステム上でも認識にとっても連続性のあるものとしてまとめました。別のやり方であれば、昔のアニメ製作のように、一枚一枚原画を撮影してフィルムにすることで、やはりこれもまた「絵の集合」から「ひとつのフィルム」へと変換したわけです。


最初の方でも書きましたが、実際に動いているところを見れば、パラパラ漫画も映像も変わりはありません。視覚的な原理では、パラパラ漫画もアニメも同一なのですから。ただ、それでもその二つを概念的に分けるところは何なのかということで、時間の連続性というものを思いついたのですね。
集合内の要素(最小単位)が時間的連続性によって結び付けられ、集合そのものが最小単位となる。
それがパラパラ漫画とアニメ(映像)の概念的な違いなのではないかと、今日のひとまずの結論でした。






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