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漫画の話です。

三点リーダしかないフキダシにはどんな意味があるのかという話

フキダシの中に擬音が入っているのは固有のニュアンスを持って聞こえているのだなどと理解できるのですが、フキダシの中に無音(…)が入っているだけというものがどうしても納得できません。
絵で補完してあるものの場合なら「(本人は)話している・話したいが(周りには)声になっていないのだな」等と理解はできるのですが。
話さないなら何故わざわざフキダシを使った!と見る度に気持ち悪くなるので、何か納得できる落とし所なんかを考察して頂けたら嬉しいです。

web拍手よりこのようなコメントをいただきましたので、ちょいと三点リーダの使い方について考えてみたいと思います。


三点リーダ、つまり「…」です。漫画や小説のセリフ部で、なんらかのセリフを伴って使われたり、あるいは単独で使われたりします。
前者の場合は、発言の「間」を意味すると考えるのが妥当かと思います。

もやしもん 7巻 p142)
「そうなんか」の後に「……」が挿入されることで、キャラクターの思案顔とあいまって、発話の後に思惑の交差している幾許かの間がある、というか、その間も含めてまとめて一つの発話であると考えられます。

みつどもえ 6巻 p15)
セリフの冒頭や途中に挿入される場合も、それほど事情は変わりません。発話開始までの間や、発話の最中の間を意味しています。
では、コメントもにもあるように、フキダシの中に単独で三点リーダが打ってある場合はどうなのでしょうか。


正直なところ、私はフキダシ+三点リーダに対して違和感を覚えたことはありません。それはそういうものとしてスルーしていました。
けれど、確かに意識してみると奇妙と言えば奇妙、間を表すための三点リーダならば、セリフもフキダシも何も書かないことで、間を表現できるのではないか。あえて三点リーダのみをフキダシの中に入れるのは、いかなる理由によるものなのか。


大別して、それには二種類のニュアンスがあると思います。
一つは、そのシーンに沈黙が横たわっていることを明示するため。

ハックス! 1巻 p40)
これは、呼び出されたにもかかわらず誰もいない部室の前で、二人のキャラクターがどうしようかと思案しているシーンです。二人はまだ一度しか顔をあわせていないため、気軽に会話をするような仲ではありません(実際、次のコマで初めて自己紹介をお互いしています)。先輩がいるはずの部室も閉まっており、何もすることがなく、会話が途切れたことでつい沈黙が降りてしまったのです。
このちょっと間の抜けた沈黙をわかりやすく表すために、ここではフキダシの中に三点リーダのみを入れているのだと思います。このコマは二人の顔が見えず、何を考えているのかを表しづらいために、それを挿入することで持て余される沈黙がくっきりするのです。おそらく、フキダシ+三点リーダがなければ、このコマは妙にぼんやりした印象になってしまうでしょう。
本来フキダシの中には何かしら音声が入るはずなのに、あえて非音声的なものを挿入することで、沈黙をより明瞭にしているというところでしょうか。見えない沈黙を描いている、と言ってもいいかもしれません。

ハックス! 2巻 p84)
これなんかもそうですね。
この例は、主人公・みよしの訥々とした長口上の直後のコマで、1コマ目でフキダシ+三点リーダをいれ、2コマ目で発話を挿入することで、1コマ目の沈黙、長口上の直後の間を強く表しています。


もう一つは、言葉にならないけれど何かしら思うところがあることを明示するため。

もやしもん 8巻 p86)
このコマは92話の最終コマ。地ビールに対して頭でっかちな偏見を持っていた武藤が、地ビール醸造家のはなを通じて、地ビールのことを知識でしか知らなかった自分に思い至った流れの中の、一つのメルクマールです。
上でも書きましたが、フキダシは本来セリフを入れるものです。にもかかわらず、非音声的な三点リーダのみが打たれている。これの解釈としては、何か言いたいことがあるのにそれが言葉にならない、あるいはまとまった言葉にならない断片的な思念が頭の中で渦巻いている、そのようなキャラクターの未言語的な感情/状況を表しているのではないかと思います。
このコマで言えば、地ビールに対する頭でっかちな偏見に気づいた武藤が我が身を振り返って、「そもそもビールとはなんぞや」と、非常に抽象的で答えがたい問いを考え始めているのです(まあそう解釈できるのは、次の話を読んでからなのですが)。
このコマは、武藤が(珍しく)真面目な顔をしているので、自分の偏見を真摯に問い直していることが伝わってきますが、もしフキダシ+三点リーダがなければ、ただの真面目な顔の武藤、真面目な顔をしているだけの武藤であって、何か考えているというニュアンスが薄れてしまいます。言葉にできない考えが頭の中を駆け巡っていることを端的に表すために、フキダシ+三点リーダが挿入されているのです。


こちらも「沈黙の明瞭化」と同様に、本来セリフが書かれるべきところに何も音声的なものが書かれないことで、言葉にできない何かがあるということを明示しているのだと思います。
つまり、どちらも「なにもない」ことをあえて書くことで、「ない」ものが存在していることを表しているのではないでしょうか。
本来見えない非音声的なものを書くことで、非音声(=沈黙)が存在することを表す。
本来見えない非言語的なものを書くことで、非言語(未言語、形にならない思念)が存在することを表す。
そういうことなんじゃないかと私は思います。


うーん、どうでしょう。わかるようなわからないような。
粗い話ではありますが、これが解釈の一助になれば幸いです。






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