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木村紺に見る「フキダシ+写植」の擬音の話

「からん」もいいけど早く「巨娘」も再開してくれないかなと私が願って已まない木村紺先生。いや、「からん」も面白いんですよ?
そんな木村先生の作品には、ちょっとした特徴があります。

神戸在住 5巻 p60)

(からん 1巻 p141)
このように、普通なら絵の上に直接書かれることの多い擬音が、フキダシの中に写植で書かれている事がしばしばあるのです(「神戸在住」に特に多く、「巨娘」では逆にほとんど見られないものですが)。
この一風変わった擬音の書き方は、そのような表現をされたシーンにちょっと不思議な印象を与えます。まあなんと表現しましょう、余所余所しいと言うか、メカニカルと言うか、無機質と言うか、クールと言うか。あまり他の作家には見られない表現方法だけに上手く言い難いのですが、とにかくそんな感じです。
最初にも書きましたが、たいていの場合、擬音は絵の上に直接手書きで書かれます。

(からん 1巻 p153)
こんな風に。
木村先生もその手法は使っていますが、やっぱこの方が自然な感じはします。見慣れているからでしょうか。
さて、この擬音の書き方は自然に感じ、フキダシ+写植では何か妙に感じるその理由は何か。見慣れている/いない以外に何か理由はあるのか、少し考えてみたいと思います。


といっても、仮説に仮説を重ねる実に不安定な推量なので、そこら辺は素人の浅知恵とご寛恕願いたいのですが、まず初めにその土台の仮説となる私の仮説、「日本人は漫画を読むとき、フキダシの中の文字は『文字』として認識し、直接絵の上に書かれた文字は『絵』として認識する」というものがあります。
この仮説の詳しいところは過去記事の
「WORKING!!」に見る、フキダシのない手書き台詞のニュアンス - ポンコツ山田.com
むんこ作品に見る、フキダシのない手書き台詞のニュアンス(そしてそこから見るむんこ作品の特徴) - ポンコツ山田.com
日本語話者の言語処理と、漫画の台詞と映像の処理 - ポンコツ山田.com
ここら辺を参照してほしいのですが、まあざっくり説明すれば、表音文字と表意(会意)文字を並行利用する(世界でも類を見ない)日本語話者は、前者を「音声」として処理し、後者を「画像」として処理しており、その複層的な言語処理は、絵を「画像」として処理し、セリフ等を「音声」として処理する漫画の読解とパラレルになっています。
漫画内の「音声」として主になっているセリフはフキダシの中に入っているのが(少なくとも現代では)通例であり、そのフキダシはセリフを絵から明確に区分しているものとして利用されているのですが、それゆえ、フキダシに入っていない音声(擬音など)は通常のセリフ(「音声」)とは異なる水準で処理されます。
もちろん、フキダシの中に入っていなくとも文字は文字なので、擬音なども最終的には「音声」として処理されているのには違いないのですが、フキダシ内の通常のセリフとは異なる水準で発されているものだと認識されているのです。
これがざっくり説明。面倒なら絵は「画像」的に、文字は「音声」的に処理されるってことで了承しといてください。証拠もないので、仮説以下の推論でしかないんですけど。
それでもむりくりここから砂上の楼閣を建てていきますよ。
一般的には(絵の上に直接書かれることで)「画像」的に処理される擬音。それがフキダシの中で写植で書かれると「音声」的に、つまり絵とは違う水準で処理されます。これは、擬音が直接絵の上に書かれる場合より、その音を発生させたものとの関係性が薄れるということにはならないでしょうか。「神戸在住」の例で言えば、沸騰している「ケトル」と沸騰している「音」との関係が遠くなっているように私には感じられるのです。
もしこの擬音が一般的な用法通りフキダシを伴わずに書かれていれば、このコマはちょっとした寂しさを感じさせる一般的なコマであろうと思います。ですが、擬音が木村メソッドで書かれたことで、モノから切り離された擬音がとても空疎/空虚なイメージを持ち、キャラクターが感じているであろう寂寞とした心象が強化されているのです。
奇しくもこの例が明瞭に示しているように、フキダシは絵から超然として存在しているものです。普段は「画像」的に処理されている擬音がフキダシの中に書かれていることで、漫画内での「音声」は「画像」から大きく隔たって存在しているのが感じられないでしょうか。
擬音をフキダシ内に書くことによる、「音声」と「『音声』を発しているもの」との断絶。これが私の感じた「余所余所しさ」や「クールさ」などの理由だと思うのです。


「余所余所しさ」や「クールさ」は、そこから更に具体的な印象をつけられる「素材」のようなもので、時々に応じてそれらを基調とした種々のイメージを生み出します。まあ、「神戸在住」でも効果的に使われているなと思えるのは、先の例のような空虚、寂寥を想起させる場面が多いようですが。

神戸在住 7巻 p114)
これなんかいい例ですね。悲しみに苛まれながら寝込んでいるキャラクターの乾いた沈鬱さがよく出ていると思います。


ただこの仮説だと、「じゃあ普通のセリフはどうなんだ。セリフとキャラクターの関係性は薄くないのか」という指摘に上手く対応できないのですが、それはいつの間にかそれが原則になっていたから、ということでお茶を濁してみようと思います。漫画の歴史を辿ってみれば何か仮説も立てられましょうが、あいにく私にはそんな知識もないので。誰かそこら辺をうまいこと説明できる方はいますかね?
こんなもんで、今日のところはどっとはらい






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