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先天的/後天的な伏線と、尾田栄一郎とファンの幸せな共犯関係の話

物語を盛り上げるために、しばしば伏線が使われる。辞書的な定義もあろうが、自分なりの言葉で定義すれば、

物語内の出来事に説得力を持たせるために、あるいは出来事を効果的に盛り上げるために、事前に仕掛けておくもの、こと、事柄。

となる。
個人的に好きな伏線は、日本橋ヨヲコ先生の「G戦場ヘブンズドア」で、第一話で鉄男が町蔵に手を差し伸べたシーンを最終話で持ってきて、それを最終話の一話前での漫画の打ち合わせのシーンでメタ的に匂わせていた(ネタバレのようなものにつき反転)ものだ。気づいたときに感動した。


作品の中に埋め込まれた伏線というものを考えると、受け手は時として、作り手が作品に対して全知にして全能であると思い込みやすい。作り手は「受け手はこの伏線に気づいたときにさぞ驚くだろうな、ウッシッシ」と自覚的に伏線を張っているのだ、と。
だが、果たしてそうだろうか。本当に伏線は全て作り手の自家薬籠中のものとして考え出されているのだろうか。


伏線といえば、最近とみに話題に出やすいのが「ワンピース」だ。何年か前のジャンプ表紙にはもうハンコックが出ていたとか、既に1巻の段階でシャンクスは覇気を使っていたとか、なんだかんだ色々と。そこらへんはきちんと考察している人のブログでも読んでください。ファンが多いだけあって、他の作品よりもそういうことをする人が充実していると思う。
しかし、本当にそれらの描写は、後々の展開に活かすことを考えて描いていたかというと、それはもう作り手(この場合は尾田先生)以外は正解を持ち得ない。ファンがああだこうだいって、「さすが尾田先生、俺達にはできないことを平然とやってのける!そこに痺れる、憧れるぅ!」と目を輝かせるのは勝手だが、それを確証だてるものは基本的に何もない。受け手が作品から読み取れるのは、既に描かれていたことが後々の展開に影響を及ぼしていた、ということだけなのだ。作り手の明言がない限り、それを作り手が張った伏線として読み取るのは、受け手の好意でしかない(逆に、「そんなんたまたまだ」と無闇に言い張るのは、アンチの悪意でしかないが)。


伏線には二種類あると思う。先天的な伏線と、後天的な伏線だ。
前者は「これは伏線にする」と自覚的に作られた伏線で、後者は「以前描いたこれは、この展開に活かせそうだな」と後々に思って、後付で伏線ということにされた伏線だ。
一回で完結する映画や、時間と枠が限定されやすいテレビアニメやドラマ、あるいは書き下ろし小説は、圧倒的に前者が多い。映画や小説はそもそも後付する「後」がないし(続編が作られるなら別だが)、アニメやドラマも制作の時点で脚本が完成していなければありうるのかもしれないが、それによって尺を越えるようなことがあったり、当初の結末を覆してしまうようなことになってしまってはいけないので、やはり制約は強いと思う。
翻って、連載の期間が限定されていない漫画や小説では、前者も勿論あるが、後者の量が格段に増えると思う。特に人気を博して長期連載になってしまうと、作り手の当初の思惑から逸脱しだす。逸脱というか、納まりきらなくなると言う方が正確か。「ワンピース」にしろ「ブリーチ」にしろ「ナルト」にしろ、連載当初からここまで長期連載になるとは想定していなかっただろう。そこかしこに見られる設定の綻びがそれを雄弁に物語っている。非現実的(ファンタジー的)な設定を導入している場合、物語が広がりすぎると設定が破綻しやすいものだ。
少し話が逸れたが、当初考えていた物語の起承転結の中の伏線を、連載が長期化することで使いきってしまうのだ(先ごろ大団円を迎えた「ネウロ」は、最終巻の後書きでも作者自身が書いていたが、予め伏線を大量に考えておいてそれを上手く使いきった好個の例であると思う)。
それでもなお物語に盛り上がりや説得力を加えるために、上手い作り手は、既に描いた話の中から伏線にできるものを拾ってくる。それもなるべく自然に。
フラットに考えれば、シャンクスが近海の主を眼力だけで追い返したのは、ただのシャンクスの持つ強さのアレゴリー的な表現でしかない。シャンクスは本当は一睨みだけで主を追い返せる強さを持っているのだと。少なくとも、「覇気」という概念が出てくるまではそう解釈するしかない。だが、「覇気」が出てきさえすれば、そしてシャンクスが「覇気」を使えるということにさえすれば、あれは「覇気」だったのだということになる。理屈の上では、「既にあの時点で尾田先生は『覇気』を想定していたのだ」という解釈も不可能ではない。その後のシャンクスと白ひげの面会シーンとかもね。まあその時点では本当に「覇気」を考えていたと思うけど。
ファンは作り手のすることを好意的に解釈してくれるものだ。それが熱狂的であればあるだけ。そう考えられる筋道と、そう考えることで作り手を持ち上げられることができるという願望さえあれば、多少のむりくりでもそこに流れ込もうとする。作り手の力量は、そこまで好意的には解釈してくれない(熱狂的ではない)人にも納得できる程度の自然さを有する後天的な伏線を拾ってこられるかどうかだ。
たぶん尾田先生は、その能力が抜群に高い。そして、その能力が上手いだけでなく、「後に伏線にできそうな描写(エピソード)をとりあえず入れておく」という能力も併せて高い。扉絵シリーズなんかその最たる例だろう。あのシリーズが本編にフィードバックされた最初の例が何なのかは寡聞にして知らないが、一度それがありうると知ってしまった受け手は、より一層の期待を持って扉絵シリーズを読むし、同様に本編の隅から隅まで嘗め回すように読むようになる。
さらにこの後者の能力のいいところは、とりあえず「伏線になるかも」程度で描いたものは、あとで伏線にならなくても誰も文句は言わないのだ。早い話、描き得だ。とりあえず種を蒔いておくけど後で芽が出たらもうけもの、くらいの気持ちでなんら問題がない(もちろんそれが本編の目障りになるほどだったらまずいので、程度問題ではあるが)。さらに言えばファナティックなファンは、「どこそこの描写は今後のこういう伏線なのではないか」などと好き好んで考えてくれる。もしかしたら、それをweb上などで発表してくれるかもしれない。そうなればラッキーで、まるまるパクることはせずとも、参考にすることぐらいはできる。そしてそれを実際に描く(もちろんクオリティのある作品として)。それを考えたファンは、自分の予想が当たったと喜ぶ。もっとファンになる。万々歳ではないか。作り手と受け手の実に幸せな共犯関係と言ってもいい。
ま、さすがにあのコピペが実際にその通りだったとしたらなんだかなあだけど。


後半は与太話に近いが、尾田先生は抜け目ないといってもいいし、記憶力が優れていると言ってもいい。
もちろん全て伏線として考えてあったという可能性も否定はできないが、私は、多くは後天的な伏線として物語を盛り上げていると考えた方が納得できると思う。
最初から伏線を考えておくことが無条件で偉いとは考えない。それでは連載の長期化には耐えられない。重要なのは、ストーリーとの整合性、なによりそれが面白いか否かだ。面白ければ、それが先天的な伏線だろうが後天的な伏線だろうが何も文句はない。




ところで、映画や書き下ろし小説など、一作完結の作品でも、作品として公開されたものではなく、製作過程で考えれば、後天的な伏線は生まれうる。作り手のタイプにもよるだろうが、予め全てのプロットを完全に考えるタイプではなく、おおまかな流れを決めて書き出すタイプの作り手の場合、書いている途中で「あの場面をここに流用しよう」と考え付いたりする。まあこれは、連載作品も完結した時点で一つの作品として完成しうると考えれば、同じ理屈ではあるのだけど。完結してから発表するか、発表しながら完結に向かっているのかの違いだ。




ちなみに私が最も好きな伏線使いは伊坂幸太郎。これは今後まず揺るがないだろう。






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