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俺はなぜ「百舌谷さん逆上する」をまだ語れないのかという話

「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と言ったのはウィトゲンシュタインだが、その言葉を聞くと、では語りえるとは何かということも同時に思わずにはいられない。
対象について雄弁に説明ができることなのか。
自家薬籠中のものとして知り尽くしていればいいのか。
対象について全知でなければならないのか。
対象についての知識の多寡で、量的に決定されるのでないことはわかる。そんなことを言ったら、その量の境界線を誰が決めることができるのかという話が生まれ、じゃあその人間は誰が決めることができるのか、というように無限後退に陥ってしまう。「多数決で決めればいいんじゃないの?」という意見もあろうが、それも現実的じゃないよな。どう考えたって票がばらけるだろうし、なんとなく他より多いぐらいのラインで「決定!」なんてされても同意が得られるわけがない。
個人的には、「あらゆるものは語りえぬものだが、その不能性を意識した時に初めて語ることができる」という方が実際的だし、前向きだなと思う。自分の語る言葉が不完全であるという疚しさがつきまとっているなら(到達が不可能だとしても)完全を指向することになるし、それはきっと言葉の選択をより洗練してくれる。そんな気持ちで何かを書いていきたい。




まあそんなことはどうでもいいのであって、話は「百舌谷さん逆上する」だ。

百舌谷さん逆上する(3) (アフタヌーンKC)

百舌谷さん逆上する(3) (アフタヌーンKC)

一言で表しちゃえば「怪作」という評価が相応しく思えるこの作品だが、その言葉が当てはまってしまうのは、いまだ自分の中で作品に対して言葉に仕切れない何かが大量に蟠っているからに他ならない。
どんなに好きな作品であれ、あるいは逆にどれだけそこが浅いと思える作品であれ、それについて十全に語りつくせるということはおそらくありえないのだが、そんなものとは違う次元で自分はまだ「百舌谷さん」に対して評価を下せない。
いや、評価というよりは判断か。変な言い方だが、無口な親戚の子どもを預かってどう接していいのやら、という感じだ。
無口で表情もあんまり変わらないんだけど、ちょっと目を離しているとなんかしてる。見ても何をしているのかはわからないのだけど、その子は無表情ながらも楽しそうだ。「何してるの?」と訊いても、にやりと子どもらしからぬ笑いを浮かべるだけで答えてくれない。悪い子じゃなさそうだけど、いい子とは口が裂けても言えない。
そんな感じだ。何を言ってるんだ俺は。
合ってるようで違うんだけど、どこか根っこのそうで繋がってそうな喩えだな。




面白い。「百舌谷さん逆上する」は面白い。それは認める。
でも、その面白さをどう取り扱っていいかがわからない。
ギャグの濃さと、その背後で流れている「コミュニケーションの不能性」というテーマがあまりにも両極端で、脳が上手いこと処理してくれないのだ。


深い。「百舌谷さん逆上する」は深い。それは認める。
でも、ただ「深い」だの「哲学的」だのという言葉で括ってしまうのはとても怖い。その言葉を無思慮に使ってしまうと、大事なところがぽろぽろ零れ落ちてしまう気がする。
言葉はブックマークにもなればレッテルにもなる。自分が気になるものにとりあえず仮に言葉(名前)をつけておくことで、後々再び思い返すのに役立つこともあるが、言葉をつけたことで安心してしまい、思い返したときに「ああ、あれは深い作品だよね〜」で済ましてしまうこともある。
まあ正直その方が楽なのだ。とっちらかった各種ファイルも、名前をつけてフォルダにしまえば、デスクトップはぐっとクリアになる。そうすれば他のファイルも置けるしフォルダも置ける。知識を大量にとりこむには、とりこんだ知識をどんどん整理しなければいけない。
けれど、意識に留まらない疑問は忘れさられてしまう。どれだけ深いのかが知れない「深さ」を有する作品をそのまま「深い」フォルダに入れてしまえば、それがどれだけ深いものなのか測ることなく「深い」ものだと認識されてしまう惧れが非常に高い。
「わからないものをわからないままとりあえず放置する」能力は人間特有のものだが、それはとても知的負荷の高い能力だ。忘れられるもの、片付けられるものは、そうしてしまう方がよっぽど楽なのだ。そしてその楽さは、「深さ」を知ることができないというマイナスと引き換えになる。
今の自分にはわからない「深さ」をいつか知りたいと思うなら、それをどこかのフォルダに入れてしまうことを自重しなければならない。剥きだしのファイルのまま、常にデスクトップにおいておくべきなのだ。
どぎつく表現すれば、「常に目障りにしておく」と言ってもいいだろう。わからないことは不快だ。その不快さが常に視界の中にあるのもやっぱり不快だ。でも、そんな不快さに常に晒されていればこそ、そのわからなさに対する答えもより早く出るものだと思う。
「わからないものたくさんでてくるだろうから、『よくわからない』フォルダを作るのはどうか」というメタ的な解決案も出るかもしれないが、残念ながらそれもバツだ。フォルダに入れてしまうと言うことは、個別のわからなさが不可視になってしまうことを意味する。
「よくわからない」フォルダの中に入っているファイルは、どれもこれも自分にはわからないことなのだろうが、「いったい何がわからないのか/どこがわからないのか」という点はそれぞれで異なっているはずだ。その個別性をいっしょくたに「よくわからない」で消してしまっては意味がない。個別性の消された「わからなさ」にもはや不快さはないのだ。
「百舌谷さん」に判断の下せない俺は、もうしばらくこの不快さと付き合っていかなければならな。




さて「両極端」の話に突然戻るけど、この両極端な熱量をもつ「百舌谷さん」を読んでいると、篠房先生は、「『道化の仮面をかぶっておどけている哲学者』の仮面をかぶった道化」である気がする。根っこは道化なのがポイント。
道化と言ってしまうとなんだかカッコイイので、エンターテイナーと言っておこうか。やっぱりそれもカッコイイな。「お笑い好き」と身も蓋もなく言っちゃうのが一番適切かな。でもそれだと語感がよくないので、以下の「道化」は「お笑い好き」に各自変換してください。


私見だが、カッコイイはカッコ悪い。もうちょっと言葉を足せば、「これってカッコよくね?」とウハウハしながら表現するカッコよさはカッコ悪い。その手のカッコよさは、それをカッコイイと思っている自意識が透けて出てしまい、カッコよさ以上にそっちが目に付くのだ。
キメキメの人間の鼻から鼻毛が出ているところをイメージすればだいたいあってる。「いいからお前はポーズをとる前に鏡を見ろ」だ。
「カッコ悪い」を「見てて気恥ずかしい」に換えても概ね同じなのだけど、まあそういうことだ。
「カッコイイ」ことに疚しさを感じる類の人間は確かに存在する。それは俺のことなのだが、友人にも何人かいる。というか親しい友人は皆そうだな。類友類友。
「カッコイイことをしている自分て恥ずかしくね?」と否応なく思ってしまう自分のような人間は、そういうことをしてしまったときにどうするかと言えば、茶々を入れる。一番手っ取り早いのは「なーんちゃって」と行為の後につけることだが、それが通用する場は極めて限定されるので、それに類する表現でもってカッコよさをごまかす。
笑ってごまかすのはなかなかに卑屈なものだが、カッコよさにぞわぞわするよりはマシだ。今のところ俺はそうやって生きている。
で、「百舌谷さん」にも似たようなものを感じるのだ。
「コミュニケーションの不能性」というテーマに取り組みたい。でもそれを大上段から振りかざすのはカッコイイのじゃないか。それをやっちゃう自分は気恥ずかしくないか。でも描きたいものは描きたいのだから、とにかく同じくらいの熱量でギャグをぶっこんでごまかそう!
そんな心の声が聞こえてくるようだ。もちろん幻聴だ。でも確かに聞こえる。気がする。


なぜ根っこが素直に哲学者でなく道化なのか、という点だが、きっと根っこが哲学者の人間は、カッコよさに疚しさを感じない。表現したいことを表現するのに逡巡がない。あってもそれは、表現のクオリティそのものに対する逡巡で、表現が与える印象に対してではないのだ。
だから、カッコよさに疚しさを覚える道化は、一旦哲学者のお面を被った上に道化のお面を被る。そういう面倒くさい形でないと、カッコイイことができない。
これは完全に私見だ。むしろ偏見だ。「んなことねえよ」と言う人もあろうが、俺の経験上そういう分類ができると言う話だ。統計的な経験則なので確証は低いに違いないのだが、今のところ自分の周りについては当てはまる。
また、哲学者と道化は別に二項対立ではなく、人間の様々な属性から恣意的に切り取られた一側面だ。だれでもそんな面はいくらかは持っているし、それが大きいか小さいかという量的な差異ではある。
まあそれでも底の方で大きく根を張っている何かはあると思うので、ただの量的な差異ときって捨てることはできないとも思う。じゃあやっぱ質的なのか。いや、量的にして質的なのだな。臨界点を越えて根っこになると思ってくれるのが一番適切だろうか。




まあともあれ、「百舌谷さん」について何かを語るには、俺にはまだ不明なところが多すぎる。これほど判断に迷う作品は西島大介先生の「アトモスフィア」以来だ。
アトモスフィア〈1〉 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

アトモスフィア〈1〉 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

あれは読んで二年近くたっているが、いまだに判断ができない。むしろ評価が二分される作品なのだが、俺はいまだに駄作と断ずることも傑作と誉めそやすこともできない。これなんぞ、といった感じだ。
興味がある人は是非読んで欲しい。たぶん本を投げ捨てるか鼻血が出そうなくらいに興奮するかのどちらかだ。


「百舌谷さん」は「アトモスフィア」に比べればまだ明快さをもっている作品だが、明快さとは別次元の判断の保留だ。情報過多による処理能力低下だな。結末を見ないことには、どういう作品だったのか自分を納得させることができなそうだ。
その時が来るまで、きっと「百舌谷さん」は俺の脳内デスクトップで目障りな存在であり続けるのだろう。もちろんいい意味で。






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