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「センス」がないやつは頭を使え 感覚を言語に翻訳しようという話

どうも。お絵描き(といってもキャラ絵の模写ばかりですが)が楽しくて更新滞ってました。山田です。


それはそれとして以前ちょろっと触れたバンドの話ですが、その練習が昨日あったわけですよ。
サザンやスカパラの曲を中心にやるホーンセクションつきのバンド(私はサックス)なんですが、皆で合奏しながら曲のイメージや精度を詰めていく過程で、音楽だけでなく文章書きやお絵描きなど、他の分野にも通ずるところのあることが色々と浮かんできました。それをつらつらと。


まず前提として、私には音楽の「センス」はないです。この場合の「センス」は、「ノリ」や「グルーブ」などの感覚的なものを感覚的なままに他の人間と共有する能力、ということですか。
実際に「センス」があるバンドの友人たちの話をすると、彼らはまた別の友人(バンドのドラム)の結婚式で、二人でアコギとボーカルのデュオ演奏を余興として披露したのですが、当初は「初めてのチュウ」山崎まさよしver.のみをやるつもりだったのが、練習の最中に「このコードから、サザンの『マンピーのG☆SPOT』につなげられるんじゃね?」(「マンピー」は、以前やったライブ内でも演奏した、ある意味思い出の曲)と友人Aが思いつき、「そのコードをジャカジャカジャカジャカジャーンてやって、『マンピー』のサビにつなげようぜ」(ほぼ原文ママ)と言ったところ、友人Bも即座に応じて、一発で成功したそうです。
私が驚嘆するのは、上のようなまるっきり具体性のない感覚的な言葉なのに、AとBがツーカーで通じ合ったことです。
お前ら無茶を言うなと。なんでそれでわかるのだと。
もし私がBの立場だったら、「え、それはつまりこのコードをこんな感じ(実際にまず弾いてみる)にやって、それを『マンピー』のサビ前のここにこういう風に(実際に弾いてみる)つなげるってこと?」という具合に、共通見解を取り付けないことにはできはしないでしょう。
AB二人の共通点は、小さい頃から音楽に触れていたことです(Aは3歳からエレクトーン、Bは5歳からピアノを習っていた)。これはきっと、理屈ではなく身体的なレベルで、音楽の「ノリ」や「グルーブ」などが染み付いているということなのだと思います。頭で具体的な言葉を見つけなくとも、感覚的に、身体的にここをこうすればこうなるんじゃないのか、とピンと来るのだと。
この身体レベルでの感覚性。これを「センス」といってもいいでしょう。


で、私にはそれがない。
だから私が音楽を他人とする場合はどうすればいいか。
「ノリ」や「グルーブ」を共有するにはなにをしなければいけいないのか。
それは、上に挙げた話でも書いた「共通見解を取り付ける」ことです。
自分の感じたこと(感覚的なもの)を具体的な言葉に翻訳しなおし、それを他のメンバーに示して、彼らにも理解してもらうことです。
例えば、感覚的な言葉のままなら「ジャンジャジャスチャッチャのフレーズがずれるから、もっとぐっとッチャッチャみたいな感じで」と言うところを、「○○小節目の三拍目の裏のタメが合ってないから、ギターはもっとためて、ベースは逆に前のめりの意識で、んで全体をドラムのシンバルでまとめて」のように、とにかくわかりやすくかつニュアンスの適した言葉で具体性を持たせて、皆のイメージを統一します。
この作業が「センス」のない私が音楽をするのに必須なのです。
これは複数人で合奏する場合に限りません。独奏でも、あるいは個人での練習での段階でも、自分が感じている違和感や目指しているイメージがどういうものか、具体的な言葉で表さなければ、自分で納得するようにはならないのです。


言ってみればこの翻訳作業は、自分の感覚の微分です。抽象的な言葉遣いでしかない感覚的なものを、平易且つ適切な言葉にどんどん細かく分けていく作業は、曲線状の極小の一点の接線の傾きを求める微分とよく似ています。
それをさらに換言すれば、言葉による感覚のデジタル化です。「ノリ」だの「グルーブ」だのの、もやもやした非常にアナログチックな感覚を、言葉という具体的な分節線によってデジタル化して、実定的に浮かび上がらせる作業だともいえます。
このデジタル化が細かければ細かいほど、ビットの増加でテレビゲームのグラフィックが進化して行ったように、浮かび上がらせた感覚も鮮やかに明確になるわけですが、限定された画面上でビット数の増加を図るテレビゲームとは違い、言葉のビット数を増やす行為は適当なところで止めざるを得ません。
これは言葉が存在する次元が空間的ではなく時間的なものだからであり、早い話、いくら感覚を鮮明に表すためでも、多すぎる言葉は退屈で、あるレベルを超えるとむしろ相手の理解を阻害してしまうのです。
ゲームのビット増加は、テレビ画面という空間的に限定された次元で展開されているので、ビットの最小単位をどんどん小さくすることでグラフィックが美しくなっていきますが、言葉の最小単位は既に決定されてしまっています。つまり音素です。音素を組み合わせて言葉(単語)ができ、言葉を組み合わせて文章を作るのですが、この最小単位が決定されてしまっていて、かつそれが「聞く」「読む」の時間経過を必須とする次元で展開されるために、長すぎる文章はかえって逆効果となるのです。一つ一つの言葉の理解は出来ても、それを総体としてまとめる手間が大きくなりすぎてしまうってコトですね。


ところで言葉には、理解のために、このように言葉を量的に増やすデジタル性と対照的に、直接的ではなくとも極めて適切で端的に的を射ている言葉により対象を浮かび上がらせる技術があります。つまり比喩です。秀逸な比喩は、万言を費やすよりも遥かにわかりやいイメージを相手に与えることが出来ます。
それの格好の例がありますので、春日武彦氏と内田樹氏の対談を引用してみましょう。

春日 わたしは鉄棒で逆上がりができなかったんですね。教師は、もっと根性出せとか、なんだかわけのわからないことばかり言っていて、それを聞いていてもちっともできるようにならなかった。そうしたら、見ていた友人が、「お前下手だなあ、もっと身体を棒に巻きつけるようにすればいいんだよ」って一言言ってくれた。「ああ、そうか」って、それで逆上がりができるようになったんですね。それも、やっぱり適切な言葉というものがあるんだなあと思った経験でしたね。
内田 ぼくは合気道を教えているので、春日先生のおっしゃっていることが非常によくわかるんです。
(中略)
うまい比喩に出会ったときは、二十人からの人たちの動きがパッと一斉に変わることがあるんです。ことばの力ってのはすごいなあ、人間の身体ってほんとうにことばでコントロールされているんだなあ、って改めて思い知らされる。


(健全な肉体に狂気は宿る/内田樹春日武彦 角川oneテーマ21 p110,111)

このように、適切な比喩は身体の動きやイメージを一気に変えてしまうほどの力があるのです。
量的な変化で精緻さを目指すデジタル的な言葉遣いは、なるべく細かい点を集めて綺麗なグラフィックを作ろうとするドット絵で、比喩は、一気に線を引いて絵を作るイラストみたいなものでしょうか。それこそ比喩的に言えば。


さてさて、最初に言ったように、この話は音楽以外にも適用されます。
自分の思ったことを書いて誰かに理解してもらう文章書きも、この言葉の適量なデジタル化、あるいは適切な比喩が重要です。文章の基礎単位である単語を大量にストックしておき、表現したい自分の感覚にもっとも相応しいものを選び、それを相応しいレトリックで並べてやる。もしくは、感覚を鮮明に一息に表せる比喩で以って、非デジタルに感覚を浮かび上がらせる(まあ言葉を使っている以上、非デジタルというのはありえないですが)。
小説であれ論説文であれ何かのレビューであれ、その言葉的な技術論でのその点は変わりません。
お絵描きでも、自分が描きたいもの、イメージしているものと、実際に自分が描いたものがどのようにずれているかが、適切に言葉で表せなければ直すこともできません。「もっとおっとりした感じに」、「痩せた感じで」、「身体をひねっているように」という感覚的な印象を、「右目の目じりをもっと下げてみる」、「顎のラインをシャープにする」、「服の皺を増やす」のように、そして、それらをさらに「目じりのカーブを目頭と同じくらいの高さまで下げる」、「口の端と同じ高さから、口の中心より2mmほど右にずれたとこ、1cmほど下に向かって引く」、「ここに胸があるからわきの下からそこに向かってねじれるように皺ができる」のように、より具体的な言葉を使って表してやると、ぐっとイメージが実体化すると思います。
お絵描きで比喩をどう使えばいいのかはまだまだ未熟なのでよくわからないのですが、そう考えると、比喩を使うにはある程度分野に対する造詣が必要なのかなと思いますね。ようは、表すべきイメージとそれに非直截的に適合するイメージが両方備わっていなければいけないんですから。




なんであれ、やるからには上達したいと思うのが人情だと思いますが、「センス」が足りないのであれば非「センス」の分野をしっかり磨かなければいけないのだと思います。「センス」の身体性は、幼少期の教育であったり、さもなければ長年積み重ねたものの結果ですから、おいそれと手に入るものではありません。要は頭は使いようということで。






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