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漫画の話です。

笑いが起こる「場」の構造と、そこから考える「ヒャッコ」の魅力の話

ヒャッコ 4 (Flex Comix)

ヒャッコ 4 (Flex Comix)

中高一貫教育マンモス校・私立上園学園の高等部に入学した能々村歩巳(ののむらあゆみ)は、入学早々、移動教室の途中に馬鹿でかい学園の敷地内で迷子になる。なんとか教室に帰ろうと辺りを彷徨っていると、同じクラスの伊井塚龍姫(いいづかたつき)に出会いほっとするが、初等部からこの学園に通っているはずの彼女もなんと迷子になっていたのだった。今度は二人で迷いだしたところで、一陣の強い風。その風とともに二階から飛び降りてきたのが、上下山虎子(かげやまとらこ)と早乙女雀だった。こうして四人は出会い、ハチャメチャな学園生活がスタートする……




前々から買おうかどうしようか迷っていた「ヒャッコ」なんですが、この度思い切って買ってみたら面白くて、勢い余って全巻そろえました。
2巻の裏表紙の概略には「ドタバタ学園コメディー」と銘打ってあり、それはその通りで異論の挟みようがないんですけど、似たようなジャンルの作品とはなんか受ける印象が違う気がするのですよ。なもんでその印象を、笑いのプロ/非プロの違い、笑いの「場」の構造から考えてみたいと思います。

笑いのプロとアマの違い

いつの頃からか、日常生活の中にも「ボケとツッコミ」や、「スベる」、「さむい」などの芸人符丁が紛れ込んできていて、人を笑わせる方法論のようなもの(どう盛り上げてどう落とすか、とかそんなの)も一般的に認知されていますが、なんのかんの言っても普通の人の普通の会話はそのような方法論を少しだけ借りてきているだけで、徹底的に活用されているわけではありません。当たり前です。だってプロじゃない普通の人なんですから。
笑いのプロ(お笑い芸人てことですが)と普通の人の厳然たる違いは、自分が生み出す笑いが他人に向かっているかどうかだと思います。
プロの笑いは見ている人(観客)を笑わせるためのものですが、普通の人の笑いは自分と相手(その会話に参加している人)が笑うためのものです。
プロが笑いを生み出すことで得る快感は、「他人を笑わせた」というものから来ますが、普通の人のそれは「笑いで自分(と周りの人)が面白がっている」というものから来ます。
普通の人の笑いは自分(と周りでコミュニケーションしている人)本位なものなのです。

笑いが生まれる「場」を形成する人たち

プロが作る笑いは、コンビのお笑いを例に考えれば、コミュニケーション(すなわちコントや漫才)の文脈に参与できないにもかかわらずそのコミュニケーションを視聴している第三者を対象にしなければなりません。


日常会話の場は「私」と「あなた(たち)」で形成されます。この場では成員全てがコミュニケーション(この場合は普通に日常会話)に参加しているため、コミュニケーション内の文脈の共有が容易です。文脈の合意形成に全員が参与できるからです。
「ここが面白のポイントですよ」というコードはコミュニケーションの中で形成され、その中に埋め込まれるので、全員が文脈の合意形成に参与しているために、「私」も「あなた」もその笑いを容易に感じ取ることができるのです。


ですが、プロが観客を前にして笑いを披露する場は、「私」と「あなた」(この両者がお笑いコンビ)と「第三者」(観客)で形成されます。このとき「第三者」は「私」と「あなた」のコミュニケーション(この場合はコントや漫才)には参与できず、一方的にそれを聞く極めて受動的な立場となっています(笑いや、無反応という反応で、コンビたちに影響を与えることはしますが)。
「私」と「あなた」の間のコミュニケーションを受動的な「第三者」に聞かせるとき、コミュニケーション内の文脈は、究極的には「誰でも理解できるが誰もぱっと思いつかない」ものが目指されます。文脈参与できない「第三者」の読解の到達可能性と、笑いが要請する意外性のすり合わせが、そのようなアンピバレンツな目標となるのです。この目標は上述した「コード」と同義であり、このコードの難易度が過剰に高かったり、あるいは文脈に適合していないコードだったりすると、「第三者」は笑えません。しらけるってことです。
小さいハコで行われる芸人の定例ライブなどは、ある意味で幸せな空間であり、何度もライブに足を運んでいる「第三者」(=ファン)は既に芸人たちのコードに親しんでおり、どのように笑いが起きるかという流れを理解できてしまっているのです。言ってしまえばファンと言うものは半身内みたいなもので、関係性が「私(たち)」と「あなた(たち)」というものに近いのですね。


「面白い」と言われる普通の人(非プロという意味です。実際面白いかどうかはここでは関係ありません)と会ってみたらそんなでもなかった、あの(普通の)人は面白いと言われているが私にはそうは思えない、というようなことは多くの人が思ったことがあるのではと思いますが、それは上記のような理由で、「面白い」と呼ばれる普通の人の「面白さ」は強く文脈依存的であり(笑いそのものが文脈依存的ではありますが、それとは次元が異なる意味で。場依存的と表現する方が正しいかもしれません)、その人のコミュニケーションに参与していない、あるいは参与して間もない人には、その笑いを面白く感じられる文脈のコードが理解できないのです。面白いといわれるその人がいつもどおりに喋っても、その場でコミュニケーションの回路が適切に立ち上げられていない場合、普段のようなドッカンドッカンの笑いを生み出すことはできないのです。
普通の人でも、「第三者」でも理解できるけどそう簡単には思いつかない、プロのようなコミュニケーションのコードを形成できる人はいなくはないでしょうが、ごくごくごく一握りだと思います。
実際にプロかどうかはともかく、プロ的に面白い人というのは、自分が喋っていることを複層的な客観性をもって見られる人なのでしょう。ここで言う「複層的」とは、「身内なら理解できる」「同性なら理解できる」「同年代なら理解できる」「関東の人間なら理解できる」「日本人なら理解できる」などのように、「第三者」の範囲をどれだけ多義的に捉えられるかということです。この複層性が高ければ高いほど、より多くの種類の「第三者」に対して笑いを感じさせることができるわけです。観客に若者しかいない小さいハコでのライブと、ゴールデンタイム全国ネットのテレビ放送では求められる笑いの質は違うわけですから、複層的な客観性で自分の笑いを認識できていれば、ネタの中のコードを調整できるのです。

※追記 ここまでの内容の補足、発展系の話として新たな記事を書きました。
笑いの「場」の違いによる、ボケとツッコミの質的変化の話 あるいは人を笑わせるのはそんな簡単なこっちゃないぞという話 - ポンコツ山田.com

漫画で見られる「舞台的笑い」の回路

少し長くなりましたが、このようなプロが生み出す笑いを「舞台的笑い」と呼ぶことにしましょう。「舞台」という断絶のために、「『私』と『あなた』」と「第三者」の間でミュニケーション文脈の形成が不可能になっている笑いです。
そうではない、普通の人による普通の笑いを「日常的笑い」と呼ぶことにします。笑いの文脈形成に、場の成員全員が参与できる笑いです。


ここでようやく漫画の話になりますが、漫画でギャグ描写があるとき、たいていの場合そのネタは舞台的笑いです。漫画の中でネタは完結し、読み手は「第三者」としてその笑いを感じ取るのです。
違う言い方をすれば、ギャグが描かれた時、そこで描かれているキャラクター全員がギャグに参与している、ということです。作品の中にいれば、直接的にギャグのネタに関係しない傍観者、つまり漫画内の「場」の「第三者」であっても、それらをひっくるめて読み手は作品を舞台の側に置き、自分たちを「第三者」であると感じるのです。

行け!稲中卓球部 8巻 p98)
この絵(作品世界)の中でネタと化しているのは明らかにバッチコイの二人であり、廊下にいる他の学生は驚き傍観しているだけですが、読み手はそんな彼らも含めてネタをネタとして認識しているのです。


フィクション(非現実世界)である作品世界でギャグが描かれるとき、それは多くの場合、あるキャラクターによる大袈裟な行動や突拍子もない言葉遣いだったりしますが、それに接する他のキャラクターは直接その言動から笑うことはせず、仮に現実世界でそれが行われたときのように、驚いたり怒ったりなどの反応をするのです。そして読み手は、素っ頓狂な言動とそれに対する反応をワンセットで受け取り、笑いを感じます。つまり、「舞台的笑い」であるボケとツッコミとしてそのセットは描かれているのです。現実世界のコントや漫才でも、ボケ(とされるもの)があってすぐに笑いが起きるわけでなく、それに対するツッコミが入って初めて笑いが生じるのと同じ構造です。
ですから、作品世界での舞台的笑いであるネタ的言動が作品世界で笑われることはありません。ネタ的言動が描かれた作品世界はボケとツッコミ、すなわち「私」と「あなた」で完結しており、「第三者」が笑う関係性にはないのです。キャラクターがネタ的言動に笑う場合ももちろんありますが、それはその笑いがツッコミの役割を担っているからであり、舞台的笑いの「あなた」の位置から動いているわけではないのです。

行け!稲中卓球部 3巻 p153)
これとかですね。

ヒャッコ」の中の「日常的笑い」

ですが「ヒャッコ」では、作品世界で起こったネタ的言動に対して、他のキャラクターがゲラゲラ笑うシーンが出てきます。ネタ的言動に関与していないキャラクターが、読み手と同じ「第三者」のポジションを獲得しているのです。

ヒャッコ 2巻 p19)
右端の女生徒二人が爆笑していますが、これは前のページで展開されているネタを受けてです。読み手もそのネタで笑いを感じるのですが、それと同じ水準でこの二人は笑っているのです。
これは作品世界内の、今まで論じてきたことから一段階低い意味での「舞台的笑い」(前頁のネタが「私」と「あなた」であり、笑っている二人が「第三者」)であるというよりは、読み手にも通じる「日常的笑い」を描いたという方が正しいように思えます。作品内で笑っている二人は、「私」であるネタに対する「あなた」として描かれているのです。
これが高度なのは、実際前頁のネタがそれ単体でネタとして成立している、つまり、前頁の時点で読み手は舞台的笑いの「第三者」の位置に置かれ一笑い済んでいるところで、次のページで笑う二人を描くことでネタに日常的笑いを召還し、読み手を今度は「あなた」の位置に置き換えていることです。舞台的笑いが成立しているからこそ、本来漫画では使われない日常的笑いが成立しうるのです。


読み手を日常的笑いの「あなた」の位置に置く利点は、読み手が作品世界に対してより深くコミットできることです。
上での記述で「舞台的笑い」>「日常的笑い」というイメージをもたれてしまったかもしれませんが、そんなことはありません。あくまで二つは性質が違うだけであり、単純に優劣を競うことができるわけではありません。
日常的笑いは「私」と「あなた」で文脈を合意形成していくだけに、コミュニケーションの場にコミットしているという感情を生起させやすくなっています。簡単に言えば、仲間意識を作りやすいのです。まあわかりやすい話ではありますよね。要はツーカーの仲になれるということですから。


だから、「ヒャッコ」を読んでいて「ああ、いい雰囲気だなー」とほんわか思えるのは、「ヒャッコ」の作風そのものの爽やかさもさることながら、その爽やかな世界によりふ深くのめりこめるように作用している日常的笑いのためではないかと思うのですよ。
まあもっとシンプルに、登場人物が皆楽しそう、ってのも十二分に大きいとは思いますけどね。「よつばと!」とも通じるような、世界全体を肯定しているようなハッピー感が溢れているのが、とても心地いいです。
ちなみに好きなキャラクターは、私の趣味にしては珍しく小囃独楽。へらへらしているけど弟妹に優しいというキャラ造形が自分は大好きだというのがよくわかりました。






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